卒業制作室で成績優秀な落第生は一緒に休むことを覚える 第7話「第6章」
蛍光灯が低く振動する制作室の昼下がり。カーペットに積み重なった段ボールの角がひんやりと肌に触れ、紙や塗料の匂いが鼻腔をつく。透は木の削りかすを掌で払って、机の端に置かれた小さな模型に顔を近づけた。指先に残るニスのざらつきが、昨日の徹夜の証だ。背中の齟齬がいつもより大きくて、心臓が微かに早鐘を打つ。
蛍光灯が低く振動する制作室の昼下がり。カーペットに積み重なった段ボールの角がひんやりと肌に触れ、紙や塗料の匂いが鼻腔をつく。透は木の削りかすを掌で払って、机の端に置かれた小さな模型に顔を近づけた。指先に残るニスのざらつきが、昨日の徹夜の証だ。背中の齟齬がいつもより大きくて、心臓が微かに早鐘を打つ。
「いいか、みんな。合評の進行と同時に新しい提案を出す。関係の公開ランキング──」桐原の声が冷ややかに部屋を切り裂いた。言葉は紙一枚分の濃度で空気を引き裂き、木の匂いが突如濃くなる。
桐原は前に立ち、ラミネートされた紙を示した。そこには、点数化された交流のモデル図が整然と載っている。拍手の代わりに、机に触れる指先のうめきと一瞬の沈黙が返る。葵が真っ直ぐにこちらを見て頷き、春樹は肩を竦めた。美奈はきつく目を伏せたが、手は震えていなかった。
「公平性のためだ。だれがどれだけ手を動かしたか、どれだけ時間を共有したかは数値で示されればいい。合評でも、賞の配分でも、基準が曖昧だと不公平が生まれる」
桐原の言葉は理路整然に聞こえた。だが透の胸の中では、小さな違和感が急速に膨らんでいく。違和感はいつも、制作室の古い物に触れた時に膨らむ。共同で作られたものの表面に、他人の息遣いや怒りや泣き笑いが残っている。それを透は、誰にも知られぬ形で「読む」ことができた。だけど、それは個人に向けられる鑑定ではない。物に残った痕跡の断片、痕跡同士の重なり合いが、時間を短く切って見せる。――それを道具にするというのか。
合評の輪が始まり、各自が作品について意見を述べる。桐原は合評の終盤、控えめに古い写真や評価表のコピーを配った。それは旧館の写真や、何十年も前の「賞一覧」が写されたページだ。写真のなかで、無数の学生が制作室で顔を寄せて眠り、互いの肩に頭を預けている。指導教員の名前、賞の配分、横線で消された記録。どれも、透の目には生々しく映る——過去の夜に交わされた声、決裂した言葉、取り戻せなかった約束の残滓。
休憩時間。透は一人、倉庫の奥にある古い模型棚に足を運んだ。埃の匂いが襟首から入ってくる。棚の隙間に差し込んだ日差しはなく、代わりに過去の音が低く振動する。指がいつものように古い木製の人形に触れる。節の冷たさ、割れ目に溜まった油性の黒。手を置いた瞬間、視界の奥で断片がちらついた——深夜の議論、笑い声、泣き声、そして、小さく「ラベル」が押される音。数字を書き込む手。透はそれが何を意味するかを直感した。
だが、同時に針のような痛みが掌を貫いた。触れた瞬間、透は「確かにこうだ」と結論を急ごうとした。――桐原がこの制度を作るために、過去の痕跡を倫理的正当化に使っているのではないか。透は指先でその断片を掴み、誰かを告発しようとした。すると、視界がざわつき、痕跡の像が急速に溶けていく。木の表皮に入っていた黒ずみがぱりぱりと剥がれ落ち、模型の関節が軋んで、ひびが走った。掌に鋭く刺さった破片が血を滲ませる。痛みは生々しかったが、それ以上に胸の奥にくる喪失感が冷たく広がった。
「透、大丈夫か?」美奈の声がすぐそばで割れる。透は自分が何を掴もうとしていたかの一部を忘れていた。記憶の端が切れ落ちたように、さっきまで考えていた反論の輪郭が薄れている。口を開けるが、言葉がまとまらない。美奈の手が彼の腕を掴む。温度が現実を引き戻す。
「無理しないで」と葵が静かに言った。桐原はにやりと笑い、机の上に置いたラミネートをこう示した。「こういう不安定さをなくすためにも、数値化が必要だってことだよ」声の端が薄ら笑いを含んでいる。
透は血を拭いながら、棚に転がった写真の端を拾い上げた。写真の裏に小さな印が押してある。印は見覚えがあった。朝の書類の端にあった、桐原の提案書に手書きで描かれていた小さな符号だ。丸の中に三本の横線。透がその印を指先でなぞると、もう一度、時間の層が開くように視界に断片が飛び込んできた——学生たちが疲れ切って机に伏せる夜、審査の側で数をめくる指、点数が書き込まれていく白い紙。だが同時に彼は、決め付けることの危うさも感じる。急いで定義しようとすると、物は壊れる。名前を与えれば残滓は消え、代わりに割れ目が残る。
「これ……これって」透は声を抑えようとしたが、声が震えた。「この符号、いつからあるんだ?」
美奈が写真を覗き込む。眉根を寄せて、そして紙の端を引き離すようにして別のページをめくった。そこには過去の評価表が重ねられていて、符号が繰り返し押されている。小さな丸と三本線。あるページには、符号の隣に「保護対象」という赤いスタンプが残っていた。透はその文字が向こうから冷たく訴えかけてくるのを感じた。保護──いつのまにか、誰かの手で選別されていた。
「つまり、これを制度化すれば、どの関係が保護され、どれが切り捨てられるかを数で示せるってことだ」春樹が呟いた。声は重い。葵の顔が硬くなる。桐原は目を細めたが、その笑みは消えない。
透は深呼吸をし、手の血をティッシュで押さえながら、棚の奥に視線を滑らせた。古い写真の一枚が半分、板の下に挟まっているのを見つける。指先がそれを引き抜くと、写真は少し焦げたような匂いを放った。写真には二人の学生が写っていて、肩を寄せ合って眠っている。けれど写真の端には小さな手書きの注記があった。細い字で「選ばれし者」と書かれている。透はその字をなぞるように目を細める。その注記の下に、同じ符号が押されていた。
胸の奥に怒りと寒気が同時に湧く。彼らはいつのまにか「選ばれた」眠りを、評価に結びつけてきた。共同で生まれた親密さを証明するものとして、制度が痕跡を「数える」手段を作ってきた。桐原は、それをいま改めて正当化しようとしている。透は、自分の能力を単に個人的な奇跡だと考えていた。それが場の慣行と呼応しているのだと気付かされると、底が抜けるように怖くなった。
透は自分の掌を見た。血が薄くにじんで、ニスのざらつきと混ざる。彼はもう一度、確かめるように小さな合板片を取り上げ、用心深く美奈と一緒に角を磨き始めた。だが二人の手つきに一片の焦りが混じると、接着面がかすかに剥がれた。共同で作るとは、決して速さや決断だけで成立するものではない。呼吸を合わせ、喧嘩して、立ち止まり、またやり直すことが必要だ。急いだとたん、ものは割れ、痕跡は薄れる。
「これを公にしたら、私たちが一緒に休めるのは、選ばれた一握りだけになる」美奈の声は震えていなかったが、透にはその声に含まれた恐れが伝わった。自分たちが安心して疲れを預け合える場所が、点数で選別される。透はその光景を想像すると、胸が締めつけられた。
桐原がゆっくりと紙を折りたたむ。彼の顔には決意と商売っ気が混じっている。「制度が先にあれば、創作も効率よく回る。学生の時間を守ることだってできる」
「守るって……」葵の言葉は刺になった。「誰の時間?」
透は静かに立ち上がった。掌の痛みが彼の決意を刃に変える。記憶の欠落が怖かった。だがもっと怖いのは、記憶や疲労が数値化され、誰かに与えたり奪われたりすることだ。彼は自分の能力を、いま目の前の制度に利用させるわけにはいかない。だけど、