卒業制作室で成績優秀な落第生は一緒に休むことを覚える 第3話「第2章」
蛍光灯のざわめきが、卒業制作室の厚い空気を切り裂いた。合評会場は普段の昼間とは別物で、壁際に並んだイスや持ち寄りのパンフレット、誰かのカメラのレンズが小さく光を集めている。透は自分の手のひらがまだ接着剤の薄い匂いを帯びているのを感じながら、蓮の隣に立っていた。彼女は黙って前方を見据え、指先で白い布をつまんでいる。布の下に置かれた小さなインスタレーションは、透と蓮が一晩かけて組み上げたものだ。
蛍光灯のざわめきが、卒業制作室の厚い空気を切り裂いた。合評会場は普段の昼間とは別物で、壁際に並んだイスや持ち寄りのパンフレット、誰かのカメラのレンズが小さく光を集めている。透は自分の手のひらがまだ接着剤の薄い匂いを帯びているのを感じながら、蓮の隣に立っていた。彼女は黙って前方を見据え、指先で白い布をつまんでいる。布の下に置かれた小さなインスタレーションは、透と蓮が一晩かけて組み上げたものだ。
「では、作品説明をお願いします」と教授が促す。客席のざわめきが一瞬小さくなり、スポットライトが二人の作品に向けられる。フラッシュライトの群れが皮膚を刺し、展示されたものの輪郭が鋭く浮かぶ。透はその光景に慣れない不安を覚えながら、ふとインスタレーションの端に置かれた小箱に手を伸ばした。箱は二人で最後に取り付けた部分で、表面は薄く手触りのあるワニスで整えられている。透が箱を軽く撫でた瞬間、空気の密度が変わった。
ざらついた記憶の破片が、温かい光の粒子のように透の胸の中へ流れ込む。風に混じる電車の金属音、十代のある夜に聞いた蓮の笑い声、小さなノートの角を折る癖。どれも確かな「輪郭」ではない。匂いと触覚のように、はっきり掴めない断片だった。透は息を詰めずにそれらを眺める。頭の外側で教授が説明を求める声を繰り返しているが、世界は一瞬だけ箱の内部に集中した。
「蓮が…」と、透は心の中で言いかける。言葉に出なくても、考えで輪郭を定める行為はあまり変わらない。彼は自分の意識が断片をつなぎ合わせようとするのを感じた。だがそのとき、断片は細かい砂粒のように崩れて、温度が失われていく。触れていた部分の温かさがみるみる薄れて、光が薄い紙越しに消えるように消えた。
「どうしたの、透?」蓮の声は静かだが、彼女の手がぴくりと震えた。透は慌てて手を引いた。箱の表面は元どおりの冷たさを取り戻し、彼の掌には何も残らなかった。客席からは軽い笑い声が漏れる。誰かがスマートフォンのシャッター音を立てる。
「説明、お願いします」教授の顔が厳しい。透は言葉を探し、口を開いた。「この作品は、触れることで記憶や関係の層が生まれることを表現しています。——具体的には、二人で作った場所にだけ、相互の痕跡が残るように設計しました」声が震えた。説明は正直でなければならないと思ったが、同時にどこまで伝えていいか分からなかった。蓮をさらけ出すことはできない。けれども、彼女の微かな動揺を客席の方が見逃すはずもなかった。
合評は続き、表面的な評価が積み重なっていく。「手触りの感覚がいい」「共同制作の物語性が出ている」という声。だがすぐに、別の観覧者の一言が流れを変えた。「あの箱、中に二人の関係が入ってるんじゃない? カップル向けの演出みたいで面白いよね」。小さな囁きは空気を振動させ、隣の席の学生がひそひそとスマホを覗き込む。いつの間にか、作品は「二人の恋愛」を露骨に示唆するものとして語られ始めていた。
蓮の肩がぎゅっと上がる。彼女は口元を真一文字に結び、目を伏せた。彼女の頰から薄く赤みが差す。透は瞬間、胸の奥が刺されるような痛みを覚えた。同時に、箱の中で感じた断片の一つがふと戻ってくる。蓮がある日、窓辺で黙って空を見ていたこと。そのときの彼女の背中が、まるで重みを抱えていたように見えた記憶だ。だが今回も、透はそれを「〜だから蓮はこう思っている」と決めることをしなかった。決めれば消える。だから、彼はただ見ていた。
合評が終わると、数人の学生が近づいてきて写真を撮り、短い感想を口にした。美沙は作品を興味深げに触り、ニコニコと笑っている。「すごいよ、透。これ、SNSで伸びるんじゃない?」と囁き、杉本は冷ややかに腕を組んだ。「注目されれば、卒業後のポートフォリオにも効く。だが、蓮はどうするつもりだ?」その問いにいくつかの視線が蓮へ向けられる。彼女は言葉を失っていた。
帰り際、廊下の蛍光灯が白く光る中で、グループは立ち止まった。数人の学生が小さく噂をしている。観覧者の一人が「二人の距離感が今の時代にフィットしてる」と呟き、別の者が「でも、蓮はあまり出たくなさそうだったな」と続けた。その声は薄くても確実に蓮に届いている。
「噂にされるのがこわい」と彼女は小さくつぶやいた。透はその言葉の音色を、先ほど箱の中で見た断片に重ねた。噂は透明なナイロンの糸のように、彼女の肩を縛り上げ、自由を奪う。だが噂は個人の悪意だけでできているわけではない。そこには評価を数値化し、関係を流通させる仕組みと、ありがちな期待が混ざっていることを彼は知っていた。
「僕たちが、箱の中に全部入れるわけじゃない」透は静かに言った。「入るものもあれば、入らないものもある。僕はただ、触れたものの温度を感じただけだ」だが蓮は微かに肩を震わせて、首を横に振った。「それがもう、全部見えるようにされるのが嫌なの。いっぺんに全部が『証拠』になってしまう気がして」
その夜、制作室に残った数人で後片付けをしているとき、美沙が唐突に言った。「でも、注目されるのはいいことじゃない? 露出が増えればチャンスにも繋がる。教授も高評価をつけるって言ってたし」杉本は腕組みのまま首をかしげ、「しかし蓮の気持ちも尊重しないとな。もし彼女が消されたくないなら、強引に押し進めるべきではない」と言った。二人の間で小さな議論が生まれ、それぞれが自律的に自分の判断で行動しているのが見て取れた。
透は蓮の側に戻り、机の上に置かれた工具箱を無意識に触った。昨夜、二人で力を合わせて取り付けた接合部に、髪の毛ほどの亀裂を見つけた。夜更けの作業で一度雑にかしめた部分が、合評のせわしさの中で引っ張られていたのだ。彼らが最後に急いで押さえた瞬間にできた、その小さな隙間は、共同制作の弱点を示している。
「ここ、急いで直したからかもしれない」蓮が言った。声の中に責任を感じているが、同時にほっとした様子もあった。「私、全部壊したくない。噂になっても、私自身を知られたくないんだ」
「なら、直そう」透は言った。だが直すという行為は、これまでの共同制作のやり方を二人で再確認することを意味した。急いで修復すれば、また同じように脆いつなぎ目ができる。ゆっくり時間をかけて接合し直せば、その部分に残る温度は違ってくるだろう。さらに言えば、蓮が独断で何かを取り除くこともできる。箱そのものを外してしまえば、最も露出しやすい痕跡は消える。
「一人で取る?」透は問いかけるように聞いた。蓮は一瞬迷い、目を閉じた。誰かに決められることを拒みたい気持ちと、誰かに守ってほしい気持ちが同居している。彼女の手は机の端に触れ、指先で小箱の角をなぞった。
「私が、自分で決めたい」蓮は小さな声で言った。「箱は私が持って帰る。展覧には、箱の代わりに空の台座を置いて。見せるものと、見せないものの線引きは、自分で引きたいの」
その選択には、別の事実も伴っていた。箱の中には、彼女が一度だけ透に渡した小さなメモ──軽い皮の切れ端に書かれた言葉が入っている。透はそのことを言わずにいた。箱を外すという決断は、つまり蓮が自分の痕跡を「個人的領域」として回収する行為だった。透は手を伸ばし、箱に触