パン屋の二階で演技が苦手な役者は卒業までに仲直りする 第9話「第8章」
ランプの光が、二階の小さな机の上でパンくずの影をやわらかく伸ばしていた。夜の風が一階の窓ガラスを軽く揺らし、焼きあがったばかりのパンの甘い匂いが階段の隙間からふわりと上がってくる。電気の熱とともに、古い木の床板はまだ昼間の温もりを残していた。
ランプの光が、二階の小さな机の上でパンくずの影をやわらかく伸ばしていた。夜の風が一階の窓ガラスを軽く揺らし、焼きあがったばかりのパンの甘い匂いが階段の隙間からふわりと上がってくる。電気の熱とともに、古い木の床板はまだ昼間の温もりを残していた。
立花湊は、息を吸い込んで木製の小箱を押さえた。箱の蓋はヤスリで磨かれ、接着剤の跡がまだ指先にくっついている。彼の右手の甲には薄く木の粉が張り付き、ランプの光に粉が粒子のように煌めいた。
「こうやって合わせるんだよ」と、小松健がハケでのりをのばしながら言う。テーブルの向こうで斎藤透子が紙片を並べ、野田芽は糸巻きをゆっくり回していた。全員が静かに、しかし確実に動いている。共同で何かを作る──それだけで、相手の内側にあるわずかな痕跡が、この箱に残るはずだった。湊はそれを期待して、息を止めた。
相良理央はテーブルの端に腰かけ、膝の上で膝掛けをぎゅっと握っていた。彼の視線は、箱の上でも、湊でもなく、窓の外の暗がりに向いている。彼の目の端に、遠くの街灯がぼやけて光っていた。
湊はゆっくりと理央の手を箱の側面に触れさせた。二人の手が同じ木に触れる。過去に何度か湊はこの瞬間を「見る」ことができた。二人が共同で何かを作るとき、そこに残された感触が、かそけき言葉や匂いとして湊の中に流れ込む。だがそれは完全ではない。欠片だけ、断片だけ、真実の欠片だ。
湊にだけ届いたのは、海辺の駅のプラットホームの冷たい空気と、半分笑ったような声だった。理央が昔、二人で逃げるように行ったホームの冷たさ。けれど声はすぐに薄れて、木の年輪の中へ沈んでいった。湊はその断片を頼りに考え始めた。
「……待ってた、ってことかな」湊が言った。声は小さく、彼自身の中で確かめるような言葉だった。
理央は肩をすくめて、こくりとだけ首を振った。「そんなこと、はっきり言えるほど単純じゃないよ」
湊はここで決めつけた。胸の中にわき上がる焦りを抑えられなかった。卒業までの時間は短く、キャンパスは毎日噂という刃を研ぎ続ける。彼が得られるのは、断片的な痕跡だ。断片をつなげないまま卒業に向かうのが怖かった。
「いや、でもその……戻りたいんだろう? 俺たちに、もう一回──」湊は声を高くして、理央の意志を確定するように言い切った。言葉の端が震えているのを、湊自身が感じた。
空気がぴたりと止まった。ランプの火が一瞬だけ薄く揺れ、木箱の表面に映り込んだ影が歪む。
透子がふっと息を吐く。小松がハケを落としそうになり、芽は糸を手繰る手を止めた。理央はゆっくりと、湊の顔を見た。その目には、怒りでも、安堵でもない、冷えた違和感が浮かんでいた。
「決めつけるなって、言っただろう」と理央は言った。声は静かだったが、室内に重く落ちた。
湊の胸が、固く締められるようだった。自分でも気づかないうちに、彼は断片を「答え」に変えていた。能力は未完の言葉を渡すだけなのに、彼はそれを勝手に完成させた。すると、確かに──箱に残っていたはずの温度が、すうっと消えた。木目の微かな感触、まるで誰かの吐息のように伝わる柔らかさは、ぱたりと消えた。湊の感覚だけでなく、彼以外の誰にもそれは感じられなくなっていた。
「何をしたんだよ」と小松が呟いた。彼の手元の接着剤が、ぽたりとテーブルに滴り落ちた音が、実に普通に響く。
「ごめん」と湊はただそれだけを言った。謝罪の言葉は、理央の目に届かなかった。理央は箱から手を離し、膝掛けを抱き直した。
「それで、もうひとつ言いたいんだけど」理央は言いにくそうに口を開いた。「噂って、俺一人の問題じゃないんだ。俺の家庭のこととか、進路のこととか、いろいろ複雑で。噂が広がると、私が守らなきゃいけないものが壊れる」
「守るもの?」芽が低く繰り返した。
「うん。奨学金のこともあるし、うちの仕事の繋がりもある。噂で評価が下がると、家に迷惑がかかる。俺が勝手に戻ったりしたら、家族も巻き込まれる。で、それを管理するのが、……学科の評議会なんだ」理央は視線を逸らした。
「評議会?」透子が眉を寄せる。
理央はため息を吐き、スマートフォンの画面を見せた。そこには、学校名と評議会のロゴ、そして「行動規範」——見慣れない、しかし重々しい文字列が並んでいた。湊はその文面を読む前に、胸が冷たくなるのを感じた。
「恋愛関係が『評価』に影響する、って書いてある」理央の声が震えた。「暴露されれば、最悪、推薦も取り消される。そういう制度なんだ。噂を消費するのは、個人の悪意だけじゃない。制度があって、噂を数値に変える」
湊は、その言葉が自分の中に落ちるのを感じた。自分が「見える」と思っていたのは、個人の心だけではなかった。制度という外形が、個々の声を「評価」に変え、行動を縛っている。彼が早急に結論を出し、箱の中を覗こうとしたのは、単純な焦りだけではなかった。噂に食われた世界で、時間は彼らを容赦なく押しやっているのだ。
小松が机に手をついて立ち上がった。「だったら、無理に暴くことはできないだろ。無理に急げば箱は壊れる。今のやり方は逆効果だ。湊、あんたの力は、ちゃんと使い方によっては守れる。だけど、使い方を間違えたら、相手の生活を壊すだけだ」
湊は唇をかんだ。彼の手にはまだ木の粉がついている。何度も手先を使って目の前の小箱に気持ちを託そうとしたが、彼が慌てて答えを押しつけたせいで何も得られなかった。ここにあるのは、ただ壊れかけた共同制作物と、少し焦げたような後悔の匂いだ。
透子が静かに箱を持ち上げ、箱の蓋をそっと脇に置いた。「急がない方法を選ぶのも、行動の一つだよ」と彼女は言った。「三人で、徐々に、理央と一緒に何かを作っていけばいい。いきなり結論を出さずに、小さな痕跡を積み重ねる。噂が制度に吸い込まれないように、ゆっくりと関係を保護するんだ」
芽が頷いた。「それに、私たちが彼に何かを押しつける権利はない。理央が選べるようにしてあげよう。奨学金や職のことだって、俺たちが変えられるかもしれない。噂に負けないだけの力を、共同で作ればいい」
理央は黙って、それを聞いていた。長い沈黙のあと、彼は小さく笑って、眼鏡の端を押した。「ありがとう。でも、それをするなら、前提がある。俺は、誰かのために自分を犠牲にできるほど単純じゃない。守りたいものは守るけど、俺も選びたい。噂を消すためだけの駒にはなりたくない」
湊は胸が締め付けられるのを感じた。誰かを守るために自分を殺す、という考えは、かつて自分が恐れていたものだ。しかし今、理央は自分の選択を取り戻そうとしている。守られる側が、次の選択を担うという着地点が、ここに見えた。
「じゃあ、どうする?」小松が問いを投げる。透子はテーブルの隅にあった小さな紙を取り出して、そこに「ゆっくり作るプラン」とだけ書いた。芽は糸を小さく丸めてポケットにしまった。
理央はポケットから小さな紙片を取り出した。そこには、彼の手書きのスケジュールと、ひとつだけ空欄があった。空欄の横には、「決める日」と小さく記してある。
「俺は、決める日を自分で選びたい」理央は言った。「それがいつになるかはわからない。でも、その日