パン屋の二階で演技が苦手な役者は卒業までに仲直りする 第8話「第7章」
午前の光が古い小窓を斜めに裂いて、パン屋の二階にある稽古場の机の上で木屑を金色に揺らす。窓の外からはパンを焼く香りと、通りに落ちる自転車のチェーン音が届く。宮坂瑛介は黙々と、小さな木箱を削っていた。指先はささくれと微かなやけどでざらつき、箱の内側には細い溝を掘ってもう一つ重ねる小板をはめるための切り込みが刻まれている。手の動きを見つめるとき、言葉はたしかに届かない代わりに、何かが静かに軋むのを感じる。――これなら、共同で作れば、そこにだけ本音の痕跡が残るはずだ、と瑛介はいつも思う。
午前の光が古い小窓を斜めに裂いて、パン屋の二階にある稽古場の机の上で木屑を金色に揺らす。窓の外からはパンを焼く香りと、通りに落ちる自転車のチェーン音が届く。宮坂瑛介は黙々と、小さな木箱を削っていた。指先はささくれと微かなやけどでざらつき、箱の内側には細い溝を掘ってもう一つ重ねる小板をはめるための切り込みが刻まれている。手の動きを見つめるとき、言葉はたしかに届かない代わりに、何かが静かに軋むのを感じる。――これなら、共同で作れば、そこにだけ本音の痕跡が残るはずだ、と瑛介はいつも思う。
「遅くなってごめん」小野寺紗希が玄関を開け放ち、手に紙袋を抱えて入ってきた。香ばしい匂いが二階まで昇ってきて、木の削り屑と混ざる。紗希の顔はいつもより少し疲れて見えたが、目は決まっている。
「真希は?」瑛介が声をかける。胸の中が少しだけ緊張する。──真希に直接会いたい。共同で何かを作りたい。だが、以前みたいに言葉が詰まる自分も怖い。
紗希は紙袋を机に置き、中から取り出したハガキと小さな封筒をそっと差し出した。「これ昨日、柳屋さんの店先に置いてあった。真希の字よ。読んでみて」
ハガキには短く、一行だけ書かれていた。
「ごめん。しばらく、違う場所で稽古する。会いたいと思ったら、箱を置いて」
封筒の中には舞台のチラシの切れ端。プロの小劇団のロゴと、オーディションの日付、時間――来週の土曜日。瑛介の胸の中で何かが冷たく沈む。自分が作ろうとしていた「共同制作」の機会は、向こうから飛び去ろうとしている。
そのとき、階段の踊り場で靴音がする。斎藤梨央が息を切らして上がってきた。スマートフォンを持った松原透も背後にいて、画面を見せる。「聞き込み、した。真希、別班の稽古場で見た。結構本気で、指導が厳しいらしい。『卒業前に確かな一歩を』みたいな言葉があった」
「評判の『評価表』も動いてる」と梨央が続けた。「午前に先生方が話しているのを聞いた。評判が高ければ、外部と契約しやすい。真希が外に出たら、学校の枠で守れなくなる。誰かがその決断を加速させる力になったかもしれない」
瑛介は息を吐いた。外から来る時間。自分が動くべき場面が近づいている。だが同時に、どう動くかが問われている。仲間に口実を与えられて強引に引き留めることは、真希の選択を奪う行為だ。噂や評価で恋が消費されるのを止めるという目的は、ここで簡潔な答えを許さない。
「話を聞いただけじゃ追いつけない」と透が言う。「でも、瑛介――お前、やれそうなことはあるんだろ? いきなり言葉でぶつかれないなら、物を渡すとか。共同で作ったものを置けば、さすがに消えないだろ」
瑛介の指が机の縁を叩いた。小さな木箱――彼が今削っているのは、音を鳴らすための箱だった。舞台で使う小道具。真希と二人で鳴らす握り鳴り木、あるいは手拍子の合図代わりに使える音の元。共同で作れば痕跡が残る。その可能性に、彼の胸は少し安堵した。
「でも急ぐと壊れる」紗希が一瞬視線を逸らす。手に力を込めているのが見て取れる。「二人で時間をかけて作らないと、感情の層が重ならない。急いで接合して表面だけ合わせても、振動ですぐ剥がれる」
瑛介は小さな声で答えた。「わかってる。でも、時間がない。どうすれば……」
紗希が紙袋から取り出したのは、薄い布と針、糸が巻かれた小さなセットだった。「これ、真希の好物のマフィンを包む布。柳屋さんが預かってた。紐は向こうの稽古場に渡すつもりだったらしいけど、私、届けようとしたら会えなかった。だから箱と布、両方を使ってみよう。箱を作るのは瑛介。布は私が縫う。二人の手が同時に触れる瞬間を作るのよ」
手の温度、布のざらつき、糸を引くたびに指に残る小さな抵抗。瑛介は深呼吸して、ノコギリをまた手に取った。作業はゆっくり始まった。紗希が糸を針に通す手元を横目で見ながら、彼は木を削り、角を丸め、小板をはめる溝を繊細に調整する。時間の感覚が変わる。言葉を紡ぐ代わりに、彼らの手が会話を始める。
長い時間が流れるように感じた。顎に張り付く汗、木屑の合間に混じるローズマリーの匂い、紗希が端を押さえるときに爪の先に伝わる布の張り。瑛介は思考が集中の一点に沈み、過去失敗した稽古の情景や、真希と一緒にふざけて作ったプラスチックの指輪の記憶が、そうしているうちにふわりと浮かんでは薄れるのを感じた。共同制作の時間は、彼にとってはいつも自分でも意図しない記憶の波を引き出す。
だが、それが逆効果になる瞬間が訪れた。透が腕時計を見て、声を張った。「あと一時間で真希の稽古が終わるらしい。今持って行けば会えるかもしれない。時間押してる。仕上げるぞ」
慌ただしさが波のように押し寄せる。紗希の呼吸が浅くなり、瑛介の手も早くなる。ネジを強く締め、接着剤を流し込む。合理的なプランを優先して感触の調整を疎かにし、二人は最後の工程を一気にやり遂げようとした。瑛介の心のどこかで小さな警鐘が鳴った気がしたが、足は止まらなかった。
届け先は稽古場のロビーだった。夜の風が路地を走り、一階の店先の灯りが人影を伸ばす。瑛介は布に包まれた箱を両手で抱え、紗希と透、梨央の四人で階段を降りた。古い木の階段が低く軋み、風に混じるパンの香りが確かに彼らを押し戻すようだった。
だが届けた瞬間、出来事は思わぬ方向に転がった。ロビーで真希の代わりに対応した若いスタッフが、箱を開けるときに不注意に手を滑らせたのだ。箱が一度高く持ち上がって空気を切り、そのままテーブルの端で小さく弾んだ。底の接合が甘かった。甲高い音がして、木の板が一本、綺麗に割れた。中から鳴り木の小さな棒が転がり出る。布も裂けた。時間と慌てが生んだ欠陥が、結局形を壊した。
瑛介は割れた木片を拾い上げ、その冷たさに手が震えた。目の前がふっと遠くなる。紗希が顔をゆがめ、透は床に拳を打ちつけた。無言の中で、誰かが小さく笑ったような、あるいは嗚咽のような音が紗希の胸から漏れた。
そして、もっと不穏な変化が起きた。瑛介が割れた箱の内側に手を当てようとした瞬間、いつもなら波のように来るはずの痕跡――真希と自分がその箱に触れた未来の残像や、紗希と重ねた時間の蓄積の感触が、するりと消えた。代わりに、ひどく澄んだ空白が彼の頭を貫いた。──何かを、ひとつ忘れている。
思考の端にあったあるはずの記憶が消えていく。瑛介は慌てて過去の断片を手繰ろうとした。真希と初めて音を合わした日の、向かい合って笑った顔。小屋の窓辺で教わった彼女の口癖。だがそこは氷のように滑らかで、彼の指は何も掴めない。空虚の重さに胸が潰されそうになる。――これが代償だ。強引な共同制作が壊れたとき、何かが消える。体験の一部、というより、関係を結ぶ前提の一つが奪われる。
「瑛介?」紗希の声が遠く、彼は自分が答えられないことに気づく。言葉が出ない。紗希の手が彼の肩を強く掴むと、寒気がぬけるように現実に引き戻された。彼女の瞳の中は憤りと怜悧と、そしてさっきまでの疲労が混ざっていた。
「ごめん、ごめん……」瑛介はただその言葉を繰り返す。自分の能力を使って何かを取り戻そうと、箱の破片をぎゅっと押さえてみる。だが、今度は別の問題が露わになった。彼