パン屋の二階で演技が苦手な役者は卒業までに仲直りする 第10話「第9章」
パン屋の二階は夜になると、別の時間を孕んでいた。窓から差し込む街灯の黄色が古い床板の節目を撫で、オーブンの残り香——焦げた麦とバターの甘さ——がまだ空気に残る。灰色のカーテンを引いた簡素な稽古場の中央で、神谷陽斗は木のヘラを握り締めたまま、息を整えていた。手のひらに伝わるべたつき。外の自動扉が風に押されて、パン屋のチャイムが小さく鳴る。下の厨房では池田さんが深くため息をついているのが聞こえる。
パン屋の二階は夜になると、別の時間を孕んでいた。窓から差し込む街灯の黄色が古い床板の節目を撫で、オーブンの残り香——焦げた麦とバターの甘さ——がまだ空気に残る。灰色のカーテンを引いた簡素な稽古場の中央で、神谷陽斗は木のヘラを握り締めたまま、息を整えていた。手のひらに伝わるべたつき。外の自動扉が風に押されて、パン屋のチャイムが小さく鳴る。下の厨房では池田さんが深くため息をついているのが聞こえる。
「もう一回、行くよ」佐伯玲が台本を抱えて足元で立っていた。玲の声はいつもより穏やかで、それが却って重かった。隣にいる深町綾は、鏡の前で髪をかき上げながら、手のひらに残る糊を気にしていた。三人の間に、いつもとは違う緊張が張っている。
陽斗は顔を上げ、綾の目を見た。綾の瞳は深い淵で揺れているようだった。彼女と仲直りするためにここまで来たのだ。言葉はいつも続かない。だから彼は最後の手段に頼ろうとした——共同で作ったものにだけ残る「痕跡」を確かめれば、綾の本音が分かるかもしれない。だがその代償と禁止を彼は、まだ恐れていた。
「綾。これ、二人で作らない?」陽斗が差し出したのは、薄い合板の小さなハート形の板切れ。端はやすりで擦られ、匂いは微かに木の樹液が混じる。彼が提案すると綾は指でそれを撫で、少し笑ってから頷いた。
「共同制作、ね。舞台道具だって設定で」綾は声を震わせないようにしていたが、その指先が僅かに震えた。玲は遠巻きに見守っている。陽斗は息を深く吸った。共同で作ることで、痕跡が残る——それが彼の能力の基本だった。触れ合った時間、選んだ切り方、互いの声が混じった瞬間。だが彼は同時に知っている。痕跡を「こうだ」と決めつけると、その痕跡は見えなくなる。急ぎすぎれば、共同制作そのものが壊れる。
二人はナイフを取り、交互に彫りを入れた。木屑が床に落ち、ハートの表面は少しずつ滑らかになる。陽斗は綾の呼吸に合わせ、彼女の手の動きを真似た。そこに生まれるのはぎこちないリズムだが確かな共有だった。しばらくの沈黙の後、綾が左手に小さな焼き印を押し当てた。
「これは?」玲が尋ねる。綾は肩越しに微笑むが、その笑顔には抵抗がある。
「私たちの合図。焼き印は共同で最後に押すって決めてたでしょ」綾の声は震えていたが、それは怒りではなく、不安の震えだった。陽斗はその合図に手を重ね、共同で押す寸前に一瞬目を閉じた。触れている温度、木の肌のざらつき、綾の呼吸の湿り気が掌に残る。
「読むよ、ただ確かめるだけだ」陽斗は内心で何度も呪文のように繰り返した。決めつけない。急がない。だが胸の鼓動は止まらない。卒業までに仲直りする、という目的が彼の背中を押していた。
掌から流れる何かを探ると、最初に見えたのは細い糸のような情緒の欠片だった。綾の不安。自分への苛立ち。そして、薄く、だが確かに混じる「失いたくない」という気持ち。陽斗はそれをすくい上げ、言葉にしようとした瞬間、自分の内側から無言の断絶が起きた。彼は「綾はまだ俺を……」と、言葉を固めてしまった。それは決めつけの思考だった。
痕跡が、ふっと消えた。木の表面の焼き印が、微かに煙るように見えた。次の瞬間、ハートに入っていた細い割れ目がぱきりと跳ね、指に鋭い痛みが走った。木の裂ける音が二階の静けさを切り裂いた。
「痛っ!」綾が手を引いた。陽斗の指先からは、焦げたような匂いがした。彼の喉が、カラカラと乾き、声を出そうとするたびに枯れた砂を飲み込むような感覚が襲った。数秒後、彼の声はかすれて、いつもの滑らかさを失っていた。
「陽斗!」玲が駆け寄る。綾は無言でハートの割れ目を見つめた。共同制作は、壊れた。痕跡は消え、二人が共有した時間も、そこで断絶したように感じられた。陽斗の胸には、言葉にできない後悔が重く沈み込む。
「ごめん……俺が決めつけたから」陽斗は低く呟いた。自分の声があまりに頼りないのが、さらに不安を募らせる。綾は顔をそむけ、背を向ける。
「それがあなたのやり方なのね。決めつけて壊して、最後に謝る」綾の言葉はナイフのように冷たかった。だが同時に、その冷たさの裏に震える人間味があるのを陽斗は見逃さなかった。共同制作の破片が二人の間に残ったまま、夜が深くなっていく。
──そのとき、佐伯のスマートフォンが震えた。画面には匿名の掲示が映っていた。玲が画面を覗き込むと、目の色が瞬時に変わる。誰かが学内の関係評価制度、絆評価システムの「共同制作回収」のスケジュールと仕様書を流出させていた。校章入りの文書と、収集用の黒い筒の写真。筒の内側には小さなセンサーがびっしりと並んでいる。
「これ……いつから知ってたの?」綾が問い詰めるように言う。玲は首を振る。
「今日、学務課の会議で最終決定が出たって。対象は卒業制作を含むすべての共同制作物——二人以上で制作したものは回収され、学内データベースに登録される。解析チームは共同行為の『痕跡』を定量化して、評価に反映する、って書いてある」
情報の重みが三人の背中を圧する。陽斗の胃の中で、熱い何かが泡立った。彼の能力は、共同制作にだけ働く。その痕跡を外部の機械が解析できるということは、つまり——彼の「見え方」の一部が、制度にとって利用可能なデータになるということだ。自分の小さな能力が、個人の感情を記録するための燃料にされる。
「それは……」陽斗は言葉を詰まらせた。喉の渇きがまだ残る。自身の能力が、誰かにとって都合のいい数値に変わる光景が脳裏に浮かんで、吐き気がした。
翌日、学内の会議室は白い蛍光灯に無機質に照らされていた。広角で撮られた写真のような視界の中、学務課長の白井が席に沈んでいる。机の上には規約の束、スクリーンには回収計画のフローチャートが映し出されている。そこに、旧友の北野直人が居た。彼は少し痩せ、肩に重圧を背負っている顔色だった。陽斗は廊下の影からその場面を見ていた。北野は目を伏せて、そして、何度も唇を噛んでいた。
会議の言葉は冷たかった。「学生の関係性を可視化し、適正な支援を行うためにはデータの一元管理が必要です。感情は放置されればトラブルの温床になる。予防のための解析です」。白井の声には慈愛の仮面がある。だが陽斗にはそれが、誰かの選択を奪うための手続きに聞こえた。
北野が口を開いた。「我々は選択の余地を与えます、と説明します。しかし実際には、評価は進路決定や推薦に影響します。僕は……現場として、それを無視できないんです」微かに震える手で彼は資料を押し堅くする。陽斗は、かつて北野と交わした言葉を思い出した。野心と不安の間で揺れる人間だった。今や制度の中で昇りつつある彼は、弱い人の選択を守る側ではなく、選択を管理する側に立とうとしている。
陽斗の胸に、怒りと失望が込み上げた。あの二階での割れたハートが、今や大きな機構の一部にされようとしている。もし共同制作の痕跡が解析されれば、学生たちは自分の感情を数値化され、将来を左右される。彼が持つ能力は、制度に都合よく使われかねない。だが使わなければ、仲直りの希望は手の届かないところに消えるかもしれない。
屋外に出ると、空気は冬の冷たさを帯びていた。陽斗は綾と玲を連れて、いつ