パン屋の二階で演技が苦手な役者は卒業までに仲直りする

パン屋の二階で演技が苦手な役者は卒業までに仲直りする 第7話「第6章」

二階の扉を押すと、発酵した匂いと粉の匂いが入り混じって目の奥をくすぐった。踏みしめる板床は古く、階段の一段一段が靴底に黙って物語を渡す。九条透は息を吐くと、その白い息がすぐにパンの湯気に溶けて見えなくなった。窓の外では一枚の評価表が風に煽られ、紙の端がはためいている。あのとき見た「はためく評価表」の光景がまた胸を締めつける。

二階の扉を押すと、発酵した匂いと粉の匂いが入り混じって目の奥をくすぐった。踏みしめる板床は古く、階段の一段一段が靴底に黙って物語を渡す。九条透は息を吐くと、その白い息がすぐにパンの湯気に溶けて見えなくなった。窓の外では一枚の評価表が風に煽られ、紙の端がはためいている。あのとき見た「はためく評価表」の光景がまた胸を締めつける。

「来てくれたか」中園リオが窓際の机に置かれた布の束を指して言った。藤森海斗は机の上の箱を開け、丁寧に中身を覗き込む。箱の中には古い舞台小道具、二人分の手袋、そして色褪せたマフラーがあった。マフラーは粗雑に縫い直された跡があり、ところどころにパンの粉がこびりついている。春先に二人で作ったものだ。佐伯茜と透が、一度だけ真剣に共同で作った証拠。

「ここでやるんだ」透はマフラーに触れようとして、思わず手を止めた。指先に残る熱はまだ生々しい。あの日茜が笑いながら手先を震わせたこと、透が自分の不器用さに顔を赤らめたこと。共同で作ったもの――それだけに、痕跡は残るはずだった。透はそれを信じていた。信じることでしか、彼女の本音を確かめられないと、どこかでずっと思っていた。

「慎重にね」リオが柔らかく言う。彼女は演劇科の制作担当で、誰よりもものの持つ“名残”を大事にする。海斗は額に汗を浮かべながら、箱から出した小さな録音機をテーブルに置いた。

透は手袋を脱ぎ、マフラーを両手で広げる。糸目に沿って指先を這わせると、かすかな温度の残滓が返ってきた。触覚が途切れ、ほんの一瞬だけ、茜の吐息や笑い声、怒りの波が押し寄せる――それは確かに“残り香”だった。透は胸が高鳴るのを押さえられなかった。

しかし、確かめたいという気持ちが、知らぬうちに押し寄せる。透は心の中で言い切ろうとした。「茜は謝っている」「茜はあの日のことを後悔している」。意思が、事実を宰領しようとする。その瞬間、残滓はサラリと指の間を抜けていったように、するりと消えた。紙が破れるような音はしない。だが、マフラーは急に頼りなく薄く、軽くなった。糸目がほつれ、指先に残っていた温度は冷めていく。

「何をした?」海斗が叫んだ。リオは眉を吊り上げ、透の顔を見た。

「決めつけたな……」リオの声は静かだが、震えが混じっていた。「『そうだ』って決めると、残るものが逃げるんだよ。透、君はいつも──」

言葉はそこで止まった。透の胸を手で押さえたような重さがあった。彼は能力のルールを頭では知っていた。共同制作の物にだけ痕跡が残る。だが、その痕跡は観た人の意志に敏感で、強く『これだ』と決めつけるほど、記憶は逃げていく。急ぎ、結論を急ごうとするほど、共同のものは壊れる。

「すまない」透は謝った。謝罪は声の上滑りで、彼自身にも響かなかった。視界の端で、窓のはためく評価表がゆっくりと転がった。外の風が冷たく、粉がゆっくりと空中を舞う。スローモーションのように見えた。その光景に、彼は過去の断片を思い出す。ここで、演劇科の評価基準が決められていたこと。ここで、誰かが線を引き、誰かの名を切り捨てたこと。パン屋の二階は、ただの避難所ではなかった。制度の会議室でもあった。

「ここで決められてた、って本当に?」海斗の声は小さく、疑いと怒りが混じる。

リオは押入れの脇に立ち、壁の隅を指差した。そこには薄く、鉛筆で書かれた文字が残っている。『評価基準会議記録―平成二十九年度』。紙の端が塵に埋もれていたが、確かに誰かが鉛筆で書いた線が見える。透は息を呑んだ。手が震える。彼はすぐに立ち上がり、埃を払ってページを引き出した。

中身は予想以上に具体的だった。演技の“指標”や得点配分、そして「評定のための共同制作物の証明」についての細かいルール。共同制作物であることを示す“痕跡”を持つ者は評価を得やすい、と明記されている。更に、どのような物が“正当な共同制作”になるのか、その方法まで細かく規定されていた。――審議の場にいた数人の氏名。生徒会役員、顧問教員、そしてパン屋の主人の名札まで。なにより、そこには「マニュアル」「評価の均質化に向けた指示」など、個人の感情を数値化して取り扱うための仕組みが書かれていた。

「あのマフラーですら、評価の一部にされていたってことか……」海斗が震えた声で呟く。

「ここが、始まりだったんだ」リオの目が光る。「ここで『どう作れば評価されるか』を擦り合わせて、評価の基準が外に出て行った。誰が正解かを決めるために、共同制作が規格化されていったんだよ。共同制作そのものが、制度の道具になった。」

透は自分が触れたマフラーを再び見つめる。そこに残っていた温度は、彼自身の熱意を重ねた瞬間に消えた。彼は能力を“使って”真実を掴もうとした。けれどその「使う」行為が、共同で残された痕跡を壊してしまった。目の前にあるのは、壊れた物と、制度の痕跡。彼が正そうとしたものは、彼の手で脆くなった。

「君、気づかなかったのか?」リオが訊く。問いは責めるようで、それでいてどこか哀しみを含んでいた。「自分がどれだけ“解決役”になろうとしてたか。全部見えるからといって、君が正義になれるわけじゃない。それに、制度を壊すのは君一人じゃない。」

透は肩を震わせた。言葉が見つからない。自分の能力は証拠を掴むための道具だと思っていた。けれどそれが、誰かの選択を奪ったり、共同の創作を制度に巻き込ませる危険を孕んでいることは、まだ深く理解できていなかった。

「でも、これがあれば――」海斗が紙を指で追う。「これを晒せば、こんな基準で人を評価することの不当さを暴ける。茜は、ちゃんと説明を受けるはずだ。」

「晒すことが正義かどうかはわからない」リオは冷ややかに言った。「晒すことで誰かの生活が壊れる。茜の進路にも影響が出るかもしれない。私たちの手で“救済”するつもりなら、まず茜の意思を聞くべきだ。」

透は胸の中で二つの矛盾する衝動がぶつかるのを感じた。真実を暴いて茜を守るという衝動と、彼女の選択を尊重するという衝動。どちらも正しい。どちらも、彼一人の力では決められない。

そのとき、箱の隅で何か光った。透がそれに手を伸ばすと、小さなボイスレコーダーが出てきた。妙に古い機種で、電池の切れかけた赤いランプが点滅している。リオが眉を上げる。「これ……ここでの会議を録ってたんだ。誰かが証拠として残したらしい。」

透は裏面のラベルに指を當てた。そこには、生徒会の小さなハンコと教員の名前が並んでいる。手が震える。もしこれを誰かの前で再生すれば、会議で交わされた言葉がそのまま再現される。声には、意図した冷たさや算段の匂いが含まれているはずだ。だが同時に、そこに登場する名前の一人一人の生活が、騒ぎの中で揺らぐだろう。

「これを流すか、まずは茜に聞くか」海斗の言葉が、静寂の中で大きく響いた。

透はマフラーを膝に抱え、ゆっくりと息を吐いた。自分の能力が万能だと思っていた錯覚が剥がれ落ちる感触。彼の手はまだ粉で白く、指先に残る温度は消えかけている。共同制作は守るべきものでもあり、暴くための道具でもある。彼はここで一つの決断を迫られている。

「僕一人で決めない」透は低く言った。言葉は震えていたが