パン屋の二階で演技が苦手な役者は卒業までに仲直りする 第27話「第二部幕間」
夕暮れの光が、二階の小さな窓を粉っぽく染めていた。窓枠の塗装はところどころ剥げ、ガラスに細かい指紋がくっきりと残っている。森山颯はテーブルに肘をつき、粘着の乾いた糊の塊を爪先でこそげ落とした。指先にまだ残る小麦粉の薄い粉が、灯りに舞って虹をつくる。
夕暮れの光が、二階の小さな窓を粉っぽく染めていた。窓枠の塗装はところどころ剥げ、ガラスに細かい指紋がくっきりと残っている。森山颯はテーブルに肘をつき、粘着の乾いた糊の塊を爪先でこそげ落とした。指先にまだ残る小麦粉の薄い粉が、灯りに舞って虹をつくる。
「まだいるのか」
階段の音が聞こえ、三島里英が広げたエコバッグを肩にかけて顔を覗かせた。彼女の息は外の冷たい空気で白くなっていた。白井透は頭から谷折りの脚立を外して、いつものように間抜けな笑顔を作る。
「ごめん、練習が長引いて。脚本のとこ、また噛んだ」
颯は肩をすくめ、笑いを作る。声が震えるのを必死で抑える。棚の隅に折りたたまれた古いポスターがある。かつて高瀬奈央と一緒に描いたやつだ。色あせた紙の縁に指の跡がついている。その跡を見ると、胸の奥がざわつく。
颯はそっとポスターを引き出した。表面のインクの光り方が、いつもより少しだけ違って見える。彼は手のひらをポスターの上にかざし、静かに息を吸った。気配が、わずかに膨らむ。色の中で、薄い音が鳴るような感覚。言葉ではない、雰囲気の残滓だ。
「見える?」里英が身体を寄せる。彼女の目は遠慮なく好奇心を向ける。
颯は首を横に振った。言葉にすると壊れそうで、いつも慎重になる。
「うん。ただ、…これ、前と違う。何かが——」透が言いかけて、言葉を切る。彼は作品の端を指でなぞり、そこに残る温度のようなものを指先で探る。
颯は集中を強めた。思考を絞って、感触を拾おうとする。それはいつもどこか手触りのようで、色の奥に揺れる人間の時差で——湧く思いを拾う作業だ。だが、今回それを「解釈」しようとすると、じりじりと波が引く感覚があった。まるで覗き込む強さに呼応して、軽くそよいだ風が消えるみたいに。
「……待って」颯は心の中で自分を止めた。これまで何度も学んだはずの感覚が、変なプレッシャーに反応して薄まる。彼の顔に小さな青ざめが走った。見ようとしすぎると、細い線がちらついて消え、分からないままになってしまう。翻訳にこそしないが、これがいつものルールだ。
里英は眉を寄せ、透は腕組みをする。「それでも、何か言えるだろ?」
「うん、ただ——」颯が言葉を探していると、彼の指がポスターの端をつまんだ。紙はわずかに湿っていて、手にくっつく。彼は無意識に、その湿りを糸のように引っ張る感触を確かめた。すると、紙の繊維が軋む音とともに、一筋の縫い目のようなものが見えた。見えるというより、記憶の一かけらが物理的に露出したような感触だ。
「そ、それは——」透が先に口を開くと、颯は強く息を吐いた。問い詰められるような気持ちになると、その感触は薄れていった。頬が熱くなる。彼はすぐにポスターを元に戻そうとしたが、そのさい手が滑り、角がテーブルの端に引っかかる。紙の端が浅く裂け、白い繊維がほつれた。
「ちょっと、慎重にしろよ」里英が咄嗟に遮る。彼女は裂け目を指でなぞり、眉根を深く寄せる。ぽろりと落ちた小さな紙片が床に落ち、ふわりと浮かんだ粉が舞う。店の下からは、閉店間際のパンの匂いが階段を上ってきて、甘い香りが二階を満たす。
颯は胸が痛んだ。裂けた部分は取り返しがつかない。共同で作ったものに残る痕跡は、ただ見るだけでなく「守る」時間も含んでいる。その時間を乱すような行為は、関係の形を物に残さない。彼はそれを自分の手で示してしまったことに、羞恥と恐れを感じる。
「ごめん」颯の声は小さかった。里英が自分のバッグから小さな糊を出し、手早く裂け目を補修しようとする。透は落ちた紙片を拾って、指先で形を合わせる。三人の手の作業は、無言の連携になった。
「ほら、こうすればまだ使える」里英が笑ってみせる。だが彼女の笑顔の奥に、心配がちらついているのは颯だけが見逃さない。共同制作は修理で続けられるが、欠けたところの痕跡は完全には戻らない。跡は残る。それが、彼にとって胸を締めつける。
そのとき、階下のドアが軋んで開く音がした。小池早苗さんだ。彼女は包みを抱えてゆっくりと階段を上がってきた。彼女のエプロンには粉がついていて、髪には小麦粉の白い点が残っている。颯はいつもと違うノートが小池さんの手の中にあることに気づいた。
「すまないね、今ごろになって。配達の合間に寄ったんだよ」小池さんはにっこり笑いながら、包みをテーブルに置いた。包みの隙間から、温かいパンの香りがして、三人の緊張が少し解ける。小池さんはついでに薄い封筒を出した。薄紙の封筒には、大学のロゴとともに大きな文字で予定表が印刷されている。
「学内の演劇連絡だよ。掲示用の分が届いたの。ほら、名前もあるわ」小池さんは封筒を開いて紙を広げた。灯りの下で、印刷された文字がくっきりと浮かんだ。颯の視線は無意識にある行へと寄る。そこに、見たくないのに避けられない文字があった。
「高瀬 奈央——外部公演合格。来月より三週間、外部研修のため不在」
空気が一瞬止まった。里英が肩をすくめ、透が紙を読み返す。颯の呼吸は浅く、胸がきしむ。三週間。卒業公演の前に、奈央がキャンパスを離れる可能性。もし離れてしまえば、直接会って話せる機会がぐっと減る。
「外部研修かあ。それは良いことなんだろうけど……」里英が言った。声の先に期待と焦りが混じっている。
「来月って、もうすぐじゃないか」透が紙を指で押し返す。「この日程だと、前にすれ違ってた時間がもっと減る。早く手を打たないと」
颯は封筒をしっかり握った。指の先に、小さな裂け目の痛みが残る。ポスターのほつれと同じように、時間もまた薄く裂け目をつくっている。彼はふと、床に落ちた紙片を見た。あの裂け目を直す時間はあるのだろうか。
「どうする、颯?」里英が顔を上げる。彼女の目が真っ直ぐだ。透も同調するように頷いた。二人は自分たちの判断を主体にして動き始める準備ができている。そこに、颯の選択だけが残る。
颯は一度深く息を吸い、ポスターの裂け目に視線を戻した。破損を修理したばかりの繊維が、まだ少しほつれている。彼の力は、共同で成したものにだけ残ることを知っている。だが共同性は、作らねば生まれない。待っているだけでは、痕跡は薄れていく。見ようと焦って決めつければ、また壊すだろう。
しかし、奈央が来月いなくなることは、時間の枠を急に狭めた。選択はシンプルだ。待つか、動くか。能力に頼らず直に向き合うか、共同制作で痕跡を残す方法を急ぐか。どちらにも代償はある。
颯はゆっくりと顔を上げた。窓の外、パン屋の看板が風に揺れている。小池さんの香りと、里英の期待、透の落ち着きが混ざる。彼の手の中の薄い封筒が、冷たく重く感じられた。
「俺、やるよ」颯は言った。声は細かったが、確かだった。「奈央に、会いたい。直接、と言える時間を作る。共同で何かを作って、痕跡を残す。おれ一人じゃダメかもしれないけど……やらないよりはいい」
里英がにんまり笑って、透がぱちんと手を打った。小池さんが微笑んで頷く。三人の目が真っ直ぐに彼を見つめた。共同の作業が始まる可能性と、奈央の離脱という新しい障壁が同時に提示された。颯は裂けかけのポスターを両手で抱えながら、次の行動を決める瞬間が来たことを知っ