パン屋の二階で演技が苦手な役者は卒業までに仲直りする 第28話「終章」
窓から差す朝の光が、二階の床に粉の粒を浮かび上がらせていた。高橋さんが焼いたパンの匂いはまだ残り、板張りの床は稽古の靴跡でつやつやと光る。柊透は、掌に小さな折り鶴を包んだまま、窓辺に立っていた。紙の角には以前、七瀬うたと一緒に貼ったセロハンテープの跡が光る。折り鶴は薄く暖かく、二人で夜遅くまで折った記憶を内包しているように感じられた。
窓から差す朝の光が、二階の床に粉の粒を浮かび上がらせていた。高橋さんが焼いたパンの匂いはまだ残り、板張りの床は稽古の靴跡でつやつやと光る。柊透は、掌に小さな折り鶴を包んだまま、窓辺に立っていた。紙の角には以前、七瀬うたと一緒に貼ったセロハンテープの跡が光る。折り鶴は薄く暖かく、二人で夜遅くまで折った記憶を内包しているように感じられた。
「来たよ」
戸の開く音、足音。うたの声は震えていたが、すぐに抑えられた。透は折り鶴をそっと差し出した。目の前でうたは振り向き、笑おうとして笑えない顔をした。彼女の頬に残るパン粉が、二階の灯りにきらりと光った。
「こんなところで会うなんてね」うたが言った。言葉の端に、遠い公演場や、評価表の名前がちらつく。不穏な空気が二階の梁にまとわりついた。
背後から佐々木真琴が押し入ってきた。真琴の手には大きな厚紙とマジック、陣内航はスマートフォンで拍手を送るように画面を掲げた。二人の表情は堅いが、どこか決意に満ちている。
「もう、評価に振り回されるのはやめようって話をしたくて」真琴が言う。彼女の声は平板だが芯がある。「クラスの半分が賛同してくれた。ランキングで優劣をつけるんじゃなくて、全員で一つの舞台を作る。ここ、二階をそのまま舞台にするの。形式は自由。成績表に依存しない、私たちの卒業公演をやる。どう?」
息が止まる。透は指先の折り鶴が熱くなるのを感じた。自分が持つ力の感触――共同で作られたものにだけ残る「痕跡」が、紙の薄さの向こうで微かに震えた。じっと見れば見える。そう教えられてきた能力のルールが、鰓のように彼の背中でざわつく。
「うた、どう思う?」透が言う。問いは優しくするつもりだったが、声に食い違いがあった。うたの瞳が細くなる。何かを決めかねている様子が、折り鶴の紙の皺に、匂いに、温度に滲む――透はそれを拾おうとした。
だが、思い直す瞬間があった。能力の癖。見ようと握りしめるほど、痕跡はすり抜ける。決めつければ決めつけるほど、ものは白く曇り、真実は彼の手の中で消えるのだ。それを知っているからこそ、彼はなんとなく手を後ろに引いた。だが心は揺れ、透はそれでも試した。
指先に力を込め、紙を覗き込む。痕跡を「読む」つもりだった。だが、目を細めた瞬間、折り鶴の温度はすっと引き、端のテープの光が消えた。鶴はただの紙になった。透の胸から、冷たい空気が抜けた。
「透?」うたの声が震える。彼女は目を伏せ、掌で袖を擦る。空気がぎくりと動く。見ようとする行為が、二人のあいだに壁を作ったのだと、透は確かに知った。彼は息を吐いて、折り鶴をそのままテーブルに置いた。
「ごめん。ごめん、無理だ」透は言った。声が小さすぎて自分でも聞き返した。真琴が一歩踏み出す。陣内が、窓の外にいるクラスメイトたちを指差す。窓の向こう、階段の下には仲間たちが群れていて、いくつもの顔がこちらを覗いている。
「だったら、ここで一緒に作ろう」真琴が言った。彼女は厚紙を広げ、そこに大きな円を描き始める。「強制はしない。ただ、今この場所にいる人全員で、同じものを作るの。ここに名前を刻んで、ここでだけ通用するルールを作る。共同制作。そうすれば、痕跡は消えないはず——透、あなたはそれが見えるんだろ?」
透はうなずいた。言葉が、彼の能力の条件を忘れさせるほどの重みを持つ。それでも、今回だけは試せるかもしれない。だが彼は心のどこかで、代償の影を感じていた。真琴は顔を上げ、目を光らせた。
「もし誰かに強いられて決めさせるようなシステムが敗れるなら、それはみんなの選択だってちゃんと見えるようにしたい。透の力を利用して、誰かの答えを掠め取ったりはしない。だけど、みんなが刻むものには、残る痕跡がある。見て、話して、決めて。そういう場を作る。」
紙に順番に名前が書かれていく。うたは書く手を一度止めて、透を見た。彼女の指先が震え、インクの雫がほんの少しだけ紙に落ちる。透の視界に、そこだけ温度のようなものが差した。微かな記憶の断片――二人で夜中に台詞を繰り返して笑ったこと、小さな諍い、そして、舞台の袖でうたが涙を拭ったこと。だがその断片は言葉にはならない。見れば見える程度の輪郭だけだ。
「私……」うたが口を開いた。「海外のワークショップの話が来てる。すごく大きい。行けば、私の演技が変わるって、誰もが言う。でも、今ここでみんなと作るのも、私が望んだことだった。どっちが“正しい”かって、分からないの」
その言葉は、紙の上に書かれた黒い線とは別の場所に、確かな痕跡を残した。透はそれを見てしまった。だが見るという行為の重みを理解している。決めつけると消える。彼は深く息を吸った。
「決めつけるのは僕じゃない」透は静かに言った。「決めるのは、うたさん。僕はその横で、どうしたいかを聞きたい。それだけでいい」
うたの目から大粒の涙が一つ、落ちた。紙に落ちた涙は、すぐに真琴が出したハンカチでぬぐわれる。周囲の雰囲気がほっと緩む。だが、その瞬間、窓の外で誰かが拍手を始めた。階段の人たちが笑い、初めてここで声を上げたのだ。仲間の声は、制度の壁に小石を投げるように、静かに響いた。
「ここに残す」陣内が言った。彼は厚紙の片隅に、短くだけれど熱を込めて言葉を書いた。「私たちは順位じゃなく、選択の仕方を選ぶ。だから、今を共にする。」
流れができた。少しずつ、誰かが何かを書き、折り、押し付けるように手を重ねる。共同制作が始まったのだ。透は自分の手を紙に添えた。誰かの指先が触り、匂いが混ざり、声が重なり合う。共同の行為は、危うさを孕みつつも力を産む。折り紙の角が重なり合い、ハギレが縫い合わされ、やがて一つの大きな旗が出来上がっていく。
その時、透の中で何かが決まった。長く抱えていた「知りたい」という渇望を消すこと。能力はずっと彼の救いであると同時に、枷でもあった。もし彼が最後にそれを使うなら、代償が必要だ――それはいつも、何かを失うことを意味していた。今回の代償は、自分自身の「見える力」を完全に手放すことかもしれない。見えることを止めれば、逆に人と同じ目線で向き合えるのではないか。透はそう考えた。
「やるよ」彼は言った。声は震えていたが、揺るがなかった。「最後に……使う。全部を、見せてほしい。代償が何であれ、僕が受け取る」
真琴が透を見た。驚きと不安が交差する。うたは固まったまま、透の顔をじっと見つめる。みんなの手が止まる。空気が一瞬、厚くなる。
透は深く息を吸い、両手を旗の上に重ねた。共同で作った布は、微かに暖かい。そこには誰かの笑い声、誰かの不安、誰かの誓いが織り込まれている。彼の内側で、能力が働いた。断片が一気に色鮮やかに立ち上がる——うたが夜中に悩んでいたこと、彼女が孤独に抱えていた焦り、同時に仲間たちを思う優しさ。彼女の選択は揺れていた。遠方でのワークショップは魅力的である一方、ここで作ること、ここで一緒に笑うことも彼女の本心にあった。
そして、代償が来た。透の胸の底を鋭く何かが削るような痛み。視界が揺れ、耳鳴りが高くなる。彼は旗の匂いを吸い込んだまま、意識の端で、何かが剥がれていくのを感じた。見えたものが、粒状の光