パン屋の二階で演技が苦手な役者は卒業までに仲直りする

パン屋の二階で演技が苦手な役者は卒業までに仲直りする 第26話「第24章」

窓ガラスに雨粒が小さく踊っていた。パンの香りは二階まで上ってくる。焼きたてのバゲットと、まだ温度を残したカスタードの匂いが混ざった室温が、ひどく現実味を帯びている。瀬良海斗は、掌に挟んだ木片を指先で確かめるように弄った。表面はざらつき、何度か削られた痕がある。真奈が手早く彫った顔の輪郭が、ぎこちなく笑っていた。

窓ガラスに雨粒が小さく踊っていた。パンの香りは二階まで上ってくる。焼きたてのバゲットと、まだ温度を残したカスタードの匂いが混ざった室温が、ひどく現実味を帯びている。瀬良海斗は、掌に挟んだ木片を指先で確かめるように弄った。表面はざらつき、何度か削られた痕がある。真奈が手早く彫った顔の輪郭が、ぎこちなく笑っていた。

「今日はどうする?」真奈がため息をつく。ギターを膝に抱えた中原淳平は、弦に指を置いて軽くひとつ、和音を鳴らした。田中梨子は小さな電灯を調整し、福井恵美は階下でパンの袋をふんわり置く音を返した。戸口の方から、階段の木材がぎしりと軋む。

水野葵が来た。濡れた傘はたたまれて、肩にかけられた古いコートからは煙るような湿り気が立つ。彼女は息を切らせながらも、顔を上げて笑おうとしたが、笑いは止まってしまった。「遅れてごめん」と小声で言い、木片を見た。

海斗は木片を差し出した。そこに残ったのは、海斗と葵が一緒に彫った「二人の目印」だ。大学祭のころから、彼らは何かを共作するたびに、そこに互いの痕跡が残ることを確かめあってきた。海斗はそれを能力の軸にして、自分の不器用な演技を繋ごうとしていた。

「触ってみて」と海斗は促した。葵は動かず、少し躊躇してから指先を木に当てる。温度が伝わった瞬間、海斗の中で何かが震えた。見える。ではなく、感じる。木の目の奥に、小さな波紋のようなものが広がる。葵が先に笑っていた午後、二人でこぼしたカフェラーンの泡、彼女が隠していた紙切れの端、全部が薄い層を成して重なっていた。

だが海斗は、その波紋を「確証」にしようとしてしまった。声が先走る。「ほら、葵――これ、君がまだ僕を恨んでるってことだよね? 言いたくないだけで」彼は木片を掲げる。自分の言葉で意味を固定すれば、迷路から抜け出せると信じていた。

指先の温度が、スッと引いた。波紋が、残像のように薄れていく。「え?」葵の顔が曇る。海斗の頭に鋭い痛みが差し込んだ。額の血管が脈打ち、視界の端に暗いノイズが立ちはだかる。決めつけると、痕跡は見えなくなる。いつもなら小さな警告で終わるはずのことが、今日は違った。海斗は木片を落としそうになって、それを必死で支えた。

「海斗、大丈夫?」梨子が近づき、手を伸ばす。だが海斗は目を閉じて、呼吸を整える。痛みは収まったが、代わりに胸の奥がぼんやりと冷えていた。さっき見えたものが、指の隙間から滑り落ちたように消えている。彼の内側にあった「確信」が抜かれて、空虚だけが残る。

そのとき、階段を上がってくる足音が急に速くなった。評議委員会の代理、山田教諭だ。彼は学校の式典に出す演目の審査を取り仕切っている。評議会の名刺を胸ポケットに押し込み、表情を整えたままドアを開けると、空気が変わる。

「お疲れ様。今日の通し、ちょっと見せてくれないか?」山田の声は穏やかだが、床に落ちると重く響く。彼の背後に、小さなメモとスコアの束が光っている。それは、彼らが「評価」という外の基準に従うことを求める象徴だった。

緊張が一斉に硬直する。海斗は木片を抱え直した。ここで評価に合わせるために作業を早めれば、共同制作は「量産」され、痕跡が薄まる可能性がある。焦れば壊れるという代償を、彼はまだ受け入れきれていない。

「手短にまとめられる?」山田は付け加えた。言外にあるのは「完成した、わかりやすい結末が欲しい」という要求だ。

真奈が唇を噛む。「私たち、急ぎで仕上げるのは無理だよ。いつもどおりにやりたい」

「でも、私たちの卒業がかかってる。評価が悪ければ、卒業公演の枠が縮小されるって聞いた」淳平が手を震わせる。彼の弦の音が、突然細くなった。

葵は海斗を見た。彼女の目は問いかけでもあり、懇願でもある。「海斗、私たち、どうする?」

海斗はその目を見て、真実を知ろうとする誘惑と戦った。知りたい。葵の本音を今確かめて、こちらの動きを決めたい。だけど――。先ほどの痛みを思い出すと、固定された意味が消えていく恐怖が蘇る。もしも今、強引に確証を手に入れようとすれば、それは彼女との共有物をひび割かせ、もっと大きな損失を招くだろう。

「やめよう」海斗は短く言った。「急いで固めるのは、駄目だ」

山田は眉をひそめる。「時間がない。審査は厳しい。すぐに適合する形を見せてくれないか」

だがそこで、想像もしなかった決断が出た。梨子が立ち上がった。「私たち、今日は通しをしません。代わりに、ここで小さな見せ物をします――審査に合わせるためじゃなくて、私たち自身のために。それで納得できなければ、評価を受けてもらって構いません」

山田は目を細めた。「それは審査の観点からいかがなものか」

「審査が私たちの関係を決めるんですか?」真奈が即座に返す。声に怒りはないが、冷たく研がれていた。「私たちの演技は、審査用のテンプレじゃない。急いで固めるほど、綻びが出るだけです。あなたたちが欲しいのは結果だけでしょうけど、私たちが守りたいのは――」

真奈の言葉はそこで途切れ、緊張が厚く重なった。海斗は胸の中で何かが動くのを感じた。仕組まれた評価というのは、恋愛をも消費し尽くす。噂は数字に、記録は評価に変わっていく。彼らの共同制作が痕跡を残すという能力は、その制度にとって都合の悪いものだった。

「わかった」山田は短く言った。外にいる別のメンバーに電話を入れると、しばらくして彼は「条件付きで」と付け加えた。「外部の基準に触れない小さな発表なら許可しよう。ただし、校内報告は必要だ」

仲間たちは互いに顔を見合わせた。決断の波紋が広がる。淳平が静かにギターを弾き始めると、音が部屋を満たしていく。木の床が震え、天井のランプの細かな埃まで踊るようだった。

彼らは一つの案を選んだ。急いで「完成させる」のではなく、当日までに小さな共同制作を複数作り、ばら撒くように展示していく。その多数の痕跡が、制度の一つの審査枠を超えて、関係の多様性を守る網になる――。そんな希望めいた理屈が、ひとりひとりの胸に灯った。

だが最初の共同制作が、早速壊れた。舞台で使う予定だった小さな人形を、時間に追われながら仕上げたとき、熱した接着剤の塊が均等に塗られず、継ぎ目が固まる前に力を入れすぎた。ぱきんと浅い音がして、人形の頭が半分割れた。亀裂が指先に引っかかり、尖った木片が海斗の掌を擦る。血がじわりと滲む。

「痛っ!」海斗は声を上げる。手のひらから熱い感触が伝わって、血の匂いが鼻に届いた。痛みは鋭かったが、それと同じくらい不安を誘うものがあった。急ぐと壊れるという喩えが、物理的な形で現れたのだ。彼の能動的な意思も、うっすらと薄れていく。先ほどの「確証」はどこへ行ったのか。

葵が駆け寄り、彼の掌をまず押さえる。彼女の指は冷たくて、心地よい。だが海斗の中で、途切れたはずの会話の痕跡が曖昧に消えていく。さっき彼女が自分に向けた言葉の一部を、どうしても思い出せなくなっていた。これは代償だ。共同制作を急いだことによって、海斗が得たものの一部が削られている。

「覚えてる?」葵が小さな声で尋ねる。「さっき、私が言おうとしたこと…」

海斗は首を振った。顔が真っ青になり、笑いを作る気力もなか