パン屋の二階で演技が苦手な役者は卒業までに仲直りする 第2話「第1章」
二階の窓から、粉の匂いが沈んだ午後の光に混じって入ってきた。下のパン屋はいつも通りに忙しい。鉄のオーブンが吐き出す蒸気と、焼きたての香り、客の話し声が薄い振動になって床を伝う。安っぽいラジオからは、昔流行ったミュージカルの一節がぽつんと零れてきた。吉沢杏樹はその振動に合わせて、長いリノリウムの上で足先を小刻みに動かした。稽古着の肘にバターの匂いがうっすら残っている。
二階の窓から、粉の匂いが沈んだ午後の光に混じって入ってきた。下のパン屋はいつも通りに忙しい。鉄のオーブンが吐き出す蒸気と、焼きたての香り、客の話し声が薄い振動になって床を伝う。安っぽいラジオからは、昔流行ったミュージカルの一節がぽつんと零れてきた。吉沢杏樹はその振動に合わせて、長いリノリウムの上で足先を小刻みに動かした。稽古着の肘にバターの匂いがうっすら残っている。
「杏樹、もう一回。今回はシーンの終わり、君の呼吸ひとつで場が変わるんだよ」
相馬監督は眼鏡の位置を直しながら、ペンを持ったまま眉間の皺を深くした。叱責はやさしい。やさしいからこそ重い——それを杏樹は人一倍知っていた。
「あ、はい……」
台本を開いた手が震える。ページの端には消しゴム跡と何度も書き直された演技メモ。杏樹は喉を深くして、相手役の声を想像してから台詞を出した。だが「君を信じている」はそこに落ちるべきところで噛んでしまい、言葉が半分になって床へ落ちた。
「噛んだ。間が欲しいんだ、間が」
相馬監督は肩をすくめ、椅子から立ち上がると窓辺へ行った。二階の窓は通りに面していて、揺れる看板や行き交う人の足元が小さく見える。向こう側の道を、黒いフードの学生が一人歩いていくのが見えた。黒谷凪。杏樹の視線は、無意識にその背中に吸い寄せられた。
「凪は別の班か」
と誰かが小声で漏らす。教室の隅で縫い物の針を持つ堂島梨央が、肩越しにちらりと黒谷の歩く方角を見た。
杏樹は胸の奥がちくりとするのを感じながら、机に置いた小箱に触れた。木の節だらけの、角がすり減った箱。ふたには、二人が学生のときに付けたとおぼしき小さな彫りがある——二人のイニシャルと、半分に割れた月の模様。彼女はその彫りを指先でなぞった。共同で作ったものには、いつだって彼の痕跡が残る。そういう力が、杏樹にはあった。
触れた瞬間、視界の端に小さな映像が差し込んだ。夏の体育館の匂い、凪の手が握った木の削りくずの感触、二人で笑った瞬間の湿った笑い声——それは確かな「残り」だった。感情は色を持っていて、凪の苛立ちは暗い緑、羨望は針のように細い白い光線で胸の辺りに刺さる。杏樹はそれを一つずつ拾い上げるようにして見た。
「何見てるんだ」
堂島がそっと覗き込む。杏樹は咄嗟に手を引っ込めた。痕跡は恥ずかしいほど生々しかった。彼の本音を覗くために使ったわけではない。二人が確かにここにいて、何かを作った事実を確認したかっただけだ。卒業までに、仲直りするための根拠が欲しかった。
「……古いんだよ、ただのプロップ。気にしないで」
口に出すと、言葉が薄く震えた。堂島はその答えを信じたように頷いたが、その瞳の隅に疑いが残った。周囲は、噂と評価の網目でできている。言葉ひとつで評価が決まり、噂がつけば居場所が変わる。そういう学校だ。杏樹は、それが主敵になることをうすうす知っていた。
稽古は続いた。音のない稽古場に息遣いだけが響くと、杏樹は時折、その小箱に手を伸ばしては、痕跡を探した。触れては喋らず、目を閉じて、流れ去る感情を指先で追う。凪が怒ったその夜、二人で作った台本のページを破ってしまったこと、凪が先に歩いて行ったこと、杏樹が言い出せなかったこと——断片が波のように揺れる。しかし、その断片たちは完全な答えをくれなかった。色はあるが、文にはならない。確信を持とうとすると、光はぼやけ、色はにじんだ。
「杏樹、台詞は身体で取れ」
相馬監督の指示に従って動いた瞬間、杏樹は無意識に小箱を握りしめてしまった。焦りが、決意のように手を締め付ける。彼と戻りたい——ただそれだけなのに、時間がない。卒業までの日数がひたひたと迫っている。
「今の、もうちょっと思い切って。自分で答えを持って」
監督の言葉が胸に刺さる。杏樹は、自分で答えを持ちたいと思った。だが彼の答えを自分で作ることは、彼の意思を奪うことだ。能力はそれを許さない。共同で作ったものにだけ痕跡は残る。誰かの心を無理やり読んだり、決めつけたりすることはできない。だが、急いで関係を結び直そうとすると、共同制作そのものが壊れる——杏樹はそのことを過去の失敗で学んでいた。
右手に力を込めた。小箱のふたを勢いよく閉めて、床に叩きつけるように置いた。決める、という行為はこれからの自分を変えると信じたかった。だがその瞬間、ふたの角にひびが入った。小さな亀裂が、木目を伝って広がる。中に入れてあった薄い共作メモの端がぱらりと落ちた。紙は、二人で書き込んだ最後の稽古の台詞書きだった。凪が最後に書いたと思しき小さな丸い印の周囲に、赤いインクで「もう少し距離を」と走り書きがある。紙は切れることなく、ただしわだらけになった。杏樹の胸も、一枚折れたように痛んだ。
「何やってんだ、杏樹!」
相馬監督の声が少し荒くなった。稽古場の空気が一瞬で冷える。小箱を拾い上げたとき、亀裂からこぼれ落ちた埃が日光に紛れて舞った。堂島が眉を寄せた。ほかの生徒たちが囁き始める。「彼女、また…」という声が耳に入る。噂はこうして生まれる。
「大丈夫か?」
隣の男役、橋本颯がそっと声をかける。杏樹は頭を横に振った。大丈夫ではない。決めつけようとして痕跡を追った結果、共同制作の一片が壊れた。その壊れ方は、物理的な亀裂だけではない。二人で育てた何かが、ひとつずつ剥がれていくような音が耳に残った。
稽古は一時中断となり、相馬監督はため息をついて教室のドアを押し開けた。下のパン屋のオーナーが顔を出して「すみません、焼きが詰まりまして」と軽く会釈をする。杏樹は窓の外、通りを渡る黒谷凪を見た。凪は立ち止まることなく、前に進んでいく。風がフードを揺らし、彼の肩に何か小さな紙片が触れた。それは舞い上がって、角を曲がる先で消えてしまった。
そのとき、相馬監督が稽古場のテーブルの上に掲示を置いた。紙には太い字で告知が書かれている——「卒業公演:班別編成」。拍手の練習や個人オーディションの予定がぎっしりと詰められていた。班で分かれて公演を作る。そこで評価が決まり、進路にも影響が出る。杏樹の胸が、より強く締め付けられた。班別の編成は、彼女にとって時間の砂場を前にして指をすり抜けていく砂のようだった。
「凪は……どっちだ?」
誰かが囁く。相馬監督は肩をすくめるだけで答えを濁した。だが、壇上に掲げられた紙が、すでに何かを確定しているように思えた。杏樹は小箱を膝に抱えた。亀裂は指先に刺さる。選択を迫られている。待つという選択をするならば、時間は減る。急ぐならば、また何かを壊すかもしれない。
杏樹はふと、箱の底に押し込まれていた小さな木の札に気づいた。そこには、消えかけたペンで「また作ろう」とだけ、書かれていた。筆跡は二つに見えた。上の細い線は凪の文字、下の丸い線は彼女のものかもしれない。触ると、痕跡がかすかにひらめいた——温かさ、そして迷い。だがそれは、今すぐに答えを出せとは言っていない。
相馬監督が顔を上げ、鉛筆を削った。生徒たちは互いに顔を見交わし、誰かが携帯を取り出しては告知の写真を撮った。教室の外ではパン屋のオーブンがまた爪弾くような音を立てる。杏樹は札を握り直