パン屋の二階で演技が苦手な役者は卒業までに仲直りする 第3話「第2章」
夜の二階は、いつもより湿度を帯びていた。下の店から漏れるパンの蒸気が階段の隙間からふわりと上り、古い梁には小麦の匂いとバターの甘さが染みついている。蛍光灯の輪郭が紙に当たってじわりと白くなり、宮本透は筆先を少し硬く握り直した。
夜の二階は、いつもより湿度を帯びていた。下の店から漏れるパンの蒸気が階段の隙間からふわりと上り、古い梁には小麦の匂いとバターの甘さが染みついている。蛍光灯の輪郭が紙に当たってじわりと白くなり、宮本透は筆先を少し硬く握り直した。
「もっと、字はこう、斜めに入れた方が目を引くよ」
箱崎奈津がリズムよく指示を出す。彼女の手はペンキで所々が青く染まり、指の爪の横にも小さな色の斑点がついていた。奈津は笑顔で、でもどこかぎこちない気配を残している。
透は息を吐き、二人で作っているポスターの端を指で押さえた。そこにはまだ乾いていない糊の痕が白く光っている。透はいつの間にか、自分の掌が糊と紙の境目に触れていることに気づいた。彼の胸の奥で、ほんの一瞬だけ――紙の端に薄い光が差した。
光は音を立てず、色もはっきりしてはいない。透はそれを「見る」とすら言えないほどぼんやりした像として感じた。だが確かに、そこには何かがあった。奈津がポスターに込めた気持ちの余韻だ。彼女が右手で小さな花を書き加えたとき、その周りに温度のようなものが揺れた。甘さでも悲しみでもない、どこか重い期待のにおい。
「どうした、透? 手が冷たい?」 奈津がふざけて指先に息を吹きかける。彼女の声はいつもより少し高い。
透は首を振った。言葉にする代わりに、彼はゆっくりと喉を鳴らした。自分の中のせりあがる衝動に抗うためだった。仲直り。卒業までに。いまこの紙に残っている痕跡が、その手がかりになるかもしれない。だが、同時に、自分の不得手を埋めるためにそれを利用することへの恐さもあった。
「ねぇ、ここに『卒業公演』って大きく入れようよ。来週、キャスト発表でしょ。やっぱみんな注目するよ」 奈津が筆を止め、透の目を見た。
その言葉に透は急に焦りを感じた。来週。キャスト表が出て、評価の矢が一斉に向く。噂は一晩で街を駆ける。透は舞台の上で固まる自分が怖かった。演技が苦手で、声が震えて、目線が迷う。だからこそ、彼は「確かなもの」を欲していた。手作りの物にだけ残る痕跡――その薄い光を確かめれば、少しは踏み出せるのではないかと。
「ちょっと、手伝って」 透は言って、糊のついたローラーを取った。奈津の手と自分の手が同じ紙の上を横切る。接触は短く、しかし二つの手が紙を共有した瞬間、幻のようだった光が濃くなる。紙の端に沿って、淡い青が波打つ映像が浮かんだ。
透は息を飲む。今回ははっきりしている。青は、奈津が自分に見せる優しさの色なのか。あるいは、奈津が誰かもう一人のことを考えている色なのか。透は自分で勝手に物語を作りかける。勝手に詮索して、それを根拠に行動すれば、結果は早く得られる。けれどそれは――
「何か見えた?」 奈津が訊く。筆を持つ手が、ふと止まった。
透は言葉を選んだ。見えたものをそのまま伝えるのは危険だと、どこかで知っている。だが焦りが彼を押しやった。
「……うん。ここ、青い。誰かに対する未練みたいなものが、薄く残ってる気がする」 透は言葉を重ねるように、目の前の青を指さした。「多分、亮に対して――まだ気にしてるんだ。仲直りしたがってる。奈津、亮と話した方がいいよ。卒業までに、ちゃんとしないと後悔すると思う」
奈津の顔が微妙に変わった。一瞬、筆先が震える。紙の上の青い花は、まるでその声に反応するかのようにくすんだ。
「亮って……そんな簡単に言わないでよ」と奈津は低く言った。彼女の指がペンを強く握りすぎて、インクがにじむ。「透、あんたは私のこと――わかってるつもりでしょ? でも、そういうの止めて。勝手に決めつけないで」
透は咄嗟に笑おうとしたが、笑いは空気の中で冷たさを増した。彼が「見えた」と確定的に口にした瞬間、光は薄れ、青の縁がぼやけて消えていく。糊の匂いとペンキのにおいだけが残る。
「違うんだ、奈津。違う方法で――」 透は手を伸ばして紙に触れた。紙は予期せぬほど薄く、指先に伝わるのはただの紙の感触だけだ。二人で作っていたはずの何かが、今自分のせいで壊れた気がした。
奈津は立ち上がり、ポスターを手のひらで掴むと、払いのけるように折りたたんだ。紙の端が折れた音が乾いて階段まで響いた。糊が張り付いた端が、紙と一緒に裂ける。
「ごめん、透。今日はもういい。倉田さんにも迷惑かけたくないし」 奈津の声には怒りと悲しみが混ざっていた。彼女はバッグを取り、外套を羽織る。肩越しにちらりと透を見ると、目はうつろだった。
透は手の中に残った糊を見つめた。指に付いた粘りはいつまでも取れない。彼は自分が何をしたのかが、じわじわとわかってきた。共同制作の痕跡は、確かにそこにあった。でも、自分がそれを「確定」し、相手の気持ちを自分の言葉で押しつけた瞬間、その痕跡は消える。相手が自分の自由を奪われたと感じれば、物も関係も壊れる。急ぐほど、壊れる。
扉の外から下の店のベルが鳴った。倉田さんの優しい歌うような声が階段を上ってきて、続いて慌ただしい足音が近づく。
「何事かね、二人とも! 遅い時間に戸を叩くなって言ったのに」 倉田さんがのんびりした口調で言いながら、二階の薄暗い入口に顔を出した。彼女は中年の女性で、焼きたてのパンを包む手つきが神経質なくらい丁寧だ。彼女の前掛けには粉がはたかれ、髪は後ろで束ねられている。
奈津はじっと倉田さんを見て、こくりと息を吐いた。「ごめんなさい、倉田さん。今日はこれで終わりにします」
倉田さんの目は二人の顔を行き来したあと、透にゆっくりと向いた。彼女は小さな笑いを交えて言った。「若い子の言い争いは、夜のパンより熱いね。でも、ここは店の二階。君たちのことは応援してるけど、壊すために場所を使うんじゃないよ。作るために使いなさい」 その言葉は優しく、しかし透には締めつけるように重たかった。
奈津は「分かった」とだけ言って、階段を下りて行った。下る足音が小さくなり、月のように薄い影が階段の隙間に落ちた。
透は残った半張りのポスターをテーブルに押し付けた。裂けた角が指に刺さる。紙の断面は白く粉を吹いたように見え、ささいな傷が冷たく痛い。彼はもう一度、指で裂けた部分に触れた。触れた瞬間、何かが思い出される――奈津と亮が喧嘩した日のこと、亮が去った後に奈津が一人で雨の中を帰ったこと、自分が舞台で固まっていたあの日の景色。それらが同時に押し寄せ、透は息を詰めた。
「俺は、どうすればいいんだろう」 小さな声で自分に問いかける。答えは見つからない。だが、少しだけ見えた事実が透の内で形を作り始める。痕跡は確かに物に残る。でも、それを利用して相手の行動を無理やり変えると、物も関係も壊れる。相手の選択を奪うような使い方は、代償が大きい。
透はゆっくりと立ち上がり、裂けたポスターをテーブルに広げた。まだ半分は使える。夜明け前の静けさの中で、透は決める――自分は強引に答えを引き出すべきではない。だが、何もしなければ何も変わらない。どちらも恐ろしく、どちらも必要だった。
彼は携帯を取り出し、連絡先の一つに指を置いた。早見亮、の名前が画面に表示される。亮は奈津と袂を分かったあの友人だ。彼を誘って、三人で何かを作る。共同で作ることの意味を