パン屋の二階で演技が苦手な役者は卒業までに仲直りする

パン屋の二階で演技が苦手な役者は卒業までに仲直りする 第1話「序章」

二階へ続く木の階段を一段ずつ踏むたびに、粉の匂いが鼻をくすぐった。下の石窯からはまだ温度の名残りが伝わり、窓の外を通り過ぎる自転車のチェーンと――遠くで働くバイクの音。それらが混ざって、古いパン屋の二階はいつもより少しだけ居心地のいい雑音を作っていた。

二階へ続く木の階段を一段ずつ踏むたびに、粉の匂いが鼻をくすぐった。下の石窯からはまだ温度の名残りが伝わり、窓の外を通り過ぎる自転車のチェーンと――遠くで働くバイクの音。それらが混ざって、古いパン屋の二階はいつもより少しだけ居心地のいい雑音を作っていた。

高瀬悠里は、肩にかけたトートバッグの重みを確かめるように両手で紐を握った。薄いカーディガンの袖口に、いつのまにか薄く粉がついている。二年前、入学準備でここを見学したときはただの古い稽古場だと思っていた。だが、演劇科の全ての予定と噂はここで折り合いをつけられ、形を変え、捨てられていった。窓辺のポスターは角が黄色くなり、床板には足の跡が染みになって残っている。

「遅いよ、悠里」

佐久間涼が立っていて、半分笑って半分諦めた顔で彼女を見た。彼はいつも稽古には遅れない。影がさっと動き、涼の手には脚本の束と、細長い木箱が一本入っていた。木箱には鉛筆で走り書きのように「舞台小道具:共同制作」と書かれている。そこに指が触れた瞬間、悠里の胸の中が小さくひりついた。

「ごめん、バイトが…」悠里は言葉を探した。声が上ずるのを抑えるために、胸の前で拳を握る。稽古場の空気はいつもより緊張していた。もう一度演出家の芹沢先生が外部の審査員を呼ぶという話が出ている。SNSでの評価、学科としてのブランド、ってやつだ。芹沢先生は「統一感」を好んだ。噂という刃を振りかざすように、仲間の些細な欠点を切り捨てる空気が学内に充満していた。

「おお、今日は本番のつもり?」涼が箱をテーブルに置く。木の匂い、木工用ボンドの酸っぱい匂い。悠里は指先で木箱の縁に触れた。箱の表面には、指紋よりも柔らかい何かが残っている気がした。視界の端に、淡い色の粒が揺れる――それは誰かの残した感情の跡。悠里はそれを拾うために、いつものやり方をする。

彼女の力は、人の“今”を直接覗くものではない。とても限定された、厳格な約束がある。二人が同じ時間を使って、手を動かして、作り物に手触りを残したときだけ、その物質の組織に微細な「痕跡」が縫い込まれる。そこには声ではなく温度と手の圧、途切れた笑いの回路がうっすらと絡んでいる。悠里はそれを辿ることで、相手が何を思っていたかの断片を知ることができる。ただし、決して全てではない。しかも決定的な一語を読み上げれば、そのとたんに視界は白く混ざり、痕跡は灰色の塊になって消えてしまう——決めつけるほどに、見えなくなる。

悠里は息を吸って、箱の角を撫でた。最初に来た感覚は温かさだった。夏の午後、のんびりとした手つきでやすりをかける音、誰かが舌打ちをして「ここ、もうちょっと」と言う。視界に糸くずのように細い場面がいくつも浮かぶ。最後に、ほんの一瞬だけ、柔らかい笑い声が滲んだ。言葉らしいものはなかった。だがその笑いは、確かに「二人」で共有した時間の温度を伝えていた。

「これって――」悠里は口をつぐんだ。彼女がこうして痕跡を辿るとき、周囲の人間はただの好奇心で見ているが、深追いは禁物だ。あるいは――それは彼女自身がこれまでに身をもって学んだルールだ。断片を繋いで一つの物語にしてしまえば、痕跡は音を立てて崩れ、何も残らなくなる。だからいつも、悠里は一部を拾ってはしまい、語らない。そうしておけば、残りが次の機会まで温存されることがあった。

「北村凪のやつ、見た?」涼が言った。声に緊張が混じる。北村凪――かつて、悠里と最も深く関わった相手だ。二人は秋の公演で主役と準主役を張って接近し、けれど台詞の取り違えと誤解で仲違いしたまま半年が過ぎた。凪は言葉を省く人だった。悠里はそれが怖かった。

「来てないよ」悠里は答えた。声は小さかったが、部屋にいる誰もが微かに耳を澄ませた。彼女は木箱から手を離す。指に残った粉が、まるであの笑いの残像を拭い去るように床に落ちる。

稽古は始まった。芹沢先生が台本を手にして立ち、言葉を投げる。悠里の出番が近づくと、胸が締め付けられた。声を出すのが怖い。舞台上のセリフは、嘘を乗せる技術でもあるが、悠里の嘘は自分を守るための仮面だった。素の声が震えるのが彼女の致命傷だ。観客が拍手をもってそれを嘲笑に変えるのではないかという恐怖が、彼女を固くする。

「悠里、気持ちを作って。相手の目を見るんだよ」芹沢先生の声は冷静で、でも棘がある。周りのメンバーの視線が一点に集まる。悠里は深呼吸をした。心の中で、いつもの小さな儀式を繰り返す。目を閉じる。触った痕跡の温度を思い浮かべる。笑い声の端を拾う。だが、今回は違った。

出ていく瞬間、喉がからからになる。声を出したが、震えは止まらない。台詞の最後で言葉が震え、床の上の粉が踊った。誰かの小さな吐息が聞こえ、次いで鈍い沈黙。涼の顔に、ほんの一瞬だけ困惑が走った。

「あ、今の…」誰かが低く囁く。噂はすぐに増幅される。今日は外部の審査員の席がある。噂は卒業のために、評価として刈り取られる。

稽古が終わり、他の生徒たちがそれぞれの輪に戻る。悠里は一人、窓際の椅子に腰を下ろした。外の光が粉を金色に照らして、床に小さな星を撒いたようだ。彼女の手の中には、さっきの木箱の蓋がある。蓋の裏には、かすれた鉛筆で、小さく「二人で――」と書かれた文字がある。文字は途中で切れている。誰の筆跡か迷う。だが触れると、そこにほんのわずかに凪の指の温度を感じた気がした。

「ちょっと、試してみる?」佐久間が近づいてきて、にやりと笑った。彼は悠里の力を知っていて、心配でもあり興味でもある。二人で小さな試みをすることで、悠里の不安を和らげられるかもしれない。共同制作。能力の唯一の鍵だ。悠里は迷った。凪とではなくても、誰かと一緒に作ることで、痕跡は確かに残るのだろうか。

「ダメ、無理にやろうとしても壊れることもある」悠里は即座に首を振った。記憶は痛みと共にある。去年、卒業制作で期限に追われ、悠里は無理に誰かと『共同制作』の形式だけを整えようとした。時間を半分しか共有していないときの物は、痕跡として成立しなかった。あるいは、急いで決めつけたときは、残っていたはずの断片が消えてしまった。大事な場面を結論付けてしまえば、真実はただの灰になる。何より、共同制作のなかで自分が主導権を握ろうとするほど、相手の自主性を奪ってしまう危険がある。あの時の罰は、取り返しがつかなかった。

涼は静かに笑った。「分かってるよ。でもさ、少しでも匂いを確かめたら、気持ちが落ち着くかもって思っただけなんだ」

悠里は木箱の蓋を膝に押さえた。ふと、棚の陰にある折りたたんだ紙が目に入った。誰かが忘れたような、それでもきちんと折られた便箋だった。封はされていない。悠里はその紙を拾い上げ、そっと開く。中には短いメモが一枚――鉛筆の字で、「話がある。今晩、二階」とだけ書かれていた。署名はなかった。紙の端に小さな粉がついている。凪の持ち物につく粉のつき方は、いつもどこか雑で、不器用な均一性がある。

心臓が跳ねた。手が震える。周りの空気が一瞬だけ鈍くなる。悠里はメモを胸に押し当て、粉の感触を指先で確かめる。そこに――ほんの一瞬、誰かの指が触れたときの温度と、躊躇が残っているような気がした。しか