パン屋の二階で演技が苦手な役者は卒業までに仲直りする

パン屋の二階で演技が苦手な役者は卒業までに仲直りする 第14話「第一部幕間」

窓辺の光が粉の粒を切り取っていた。午前の光は柔らかく、だが二階の空気は焼きたての匂いと古い紙の匂いが混ざり合って重い。白石悠はその光の中で、指先に残った糊の感触を確かめるようにして、小さな紙片を撫でていた。紙片は、以前に高木彩音と二人で夜更けまで貼り合わせた舞台のプロモーションポスターの切れ端だ。糊の輪郭にだけ、かすかな温度のようなものが残っている――それが彼の見る「痕跡」だった。

窓辺の光が粉の粒を切り取っていた。午前の光は柔らかく、だが二階の空気は焼きたての匂いと古い紙の匂いが混ざり合って重い。白石悠はその光の中で、指先に残った糊の感触を確かめるようにして、小さな紙片を撫でていた。紙片は、以前に高木彩音と二人で夜更けまで貼り合わせた舞台のプロモーションポスターの切れ端だ。糊の輪郭にだけ、かすかな温度のようなものが残っている――それが彼の見る「痕跡」だった。

「ねえ、悠、まだそこにいるのか?」

扉の下から、宮田凛の声。彼女は肩にエプロンの紐を結びなおし、やることをやってから戻ってきたらしい。凛の足音が階段に反響する。悠は紙片を掌に押し付け、力なく首を振った。

「ずっと、ここにいるよ。ちょっと、確かめたいことがあって」

凛が二階に上がってくると、いつものように鼻で笑った。だが彼女の目には、心配が滲んでいた。

「今朝、管理の中島さんから電話が来て。前に苦情の出た騒音の件、二階の使用許可について再審査するって。学校からも、演出班の活動記録をまとめるようにって連絡があった。評価の数字で使い勝手を決められるらしい」

その言葉が、軽く二階の空気を震わせる。悠は一度深く息を吸い込み、ポスターの端をテーブルに滑らせた。光が紙の凹凸を拾って、かすかな影を落とす。彼はゆっくりと目を閉じ、いつものやり方で痕跡を探した――共同で作られたものにだけ、残るはずの気配を。

最初はいつも通りだった。色のにじみ、手の動きの残像、そして遠い声の断片。彩音の笑い声が一瞬、紙の縁で震えた。そこに触れた瞬間、悠は小さな温かさを感じた。胸の奥が締め付けられるように疼く。彼女と最後に言葉を交わしたときのこと、言葉に出来なかった匂い、手の甲に残った指紋の跡が一緒に揺れる。

「何が見える?」凛が覗き込む。その声に悠は反射的に答えた。

「……やさしい。笑い。けど、複雑な感じもする」

言葉にする。言葉で定義する。それはいつも禁忌のように思えて、だが彼は確かめたかった。彩音が何を思っているのか、どれくらい怒っているのか、どれほど自分を避けているのか――具体的に知りたかった。

言い切ったとたん、温かさは縮んだ。笑いの音は薄くなり、紙の縁に浮かんでいた彩色のにじみが、まるで手で払われたように消えた。悠の胸の中で、風船がしぼむように音がした。目を開けると、紙片はただの紙だった。糊の輪郭も、さっきまでの温度もない。

「消えた?」凛の声は落ち着かない。悠は両手で頭を抱える。目の前がざわつき、耳鳴りが走る。頭の片隅に、さっき覚えたはずの台詞が消えかけているのを感じた。台詞のリズム、次に踏むはずだった一拍。確かめようと指を口元に当てると、そこにあったはずの語の形が、ほろりとこぼれ落ちた砂のように指の間から消えた。

「決めつけるなって、いつも言ってたでしょ」凛が肩を叩く。声は優しいが、そこに含まれるのは苛立ちの影だ。「悠、あんた、それやりすぎ。痕跡は『見る』ものじゃなくて、『感じる』ものなんだよ。確かめたくなる気持ちは分かるけど——」

悠は口を挟もうとして、自分の決め付けた言葉が再び薄れていくのを感じた。確信が強ければ強いほど、痕跡は見えなくなる。それは彼がまだ完全に理解していない、能力の輪郭だった。言葉で囲ってしまえば、流れは止まる。押し込めれば押し込めるほど、そこに残る痕跡は痕跡でなくなる。

「でも、これが必要なんだ。彩音に届いているか、確かめたいんだ」悠の声は掠れていた。胃の中が重い。仲直りを期限にした自分の決意が、紙片の前で薄紙のように扱われるのが耐えられなかった。

「届くかどうかは、作るしかないんだよ」凛が低く言った。「共同で何かを作る。それしか残らない。あんた一人で見て満足しても、彩音の側に痕跡は残らない。覚えてるでしょ? 最初に一緒に貼ったポスター、紙の端が合わなくて二人で笑ったじゃない。あの時の方が、今よりよっぽど伝わってた」

凛の言葉は真っ直ぐで、悠の胸の奥に小さな光を灯した。だが、その光は同時に別の不安を照らす。共同で作るには彩音が必要だ。だが彩音は今、学生舞台の評価で注目を浴びている。学校のランキングが、彼女を更に遠くへ押し出す。評価は選択肢を奪い、瞬間を分断する。凛の言う「作る」ための時間が、制度によって奪われかねないのだ。

その時、廊下の外でドアが開く音がした。中島千冬の低い声が聞こえる。「あの、すいません。今日は学校の監査があるって聞いたんですけど、この二階の利用状況の記録、ちゃんと揃えておかないと……」

悠は紙片を丸めてポケットに押し込もうとした。だが手が震え、紙はぐしゃりと潰れてしまう。凛が慌ててそれを受け取り、形を戻そうとするが、紙の繊維は裂けた沿いに光を反射していた。共同で作ったものを、彼が一人で扱ったために傷めてしまった。慌てて修復しようと糊を出すと、糊の瓶の蓋が滑って床に落ち、音が大きく響く。すぐ下のパン屋から苦笑まじりの呟きが聞こえ、二階の温度が一段と下がる。

「悠、どうするの……?」凛の声が小さくなる。彼女は目を逸らし、裂けた紙を両手で包んだ。悠はその手の温度さえも、自分が壊したことへの罪悪のように感じた。

「ごめん。俺が……俺が確かめたかっただけなんだ」悠はどぎまぎとした笑いを浮かべ、言い訳を探す。だが、言葉にすればするほど、痕跡は消えるという恐れが彼の喉を通った。言葉より行動だ。彼は思い切って、ポケットからスマートフォンを取り出した。

画面を開き、彩音の名前を探す。表示される連絡先の隣に、彼女の最近の活動を示す通知がポップアップしていた。演劇科の内輪の掲示板に、彩音の名前と共に「外部公演への推薦候補」と書かれている。推薦は評価に基づいて行われる。彩音が今、学校の外へ出る可能性が高まっているのだ。

指先が震え、悠は一瞬固まる。彼女が遠くへ行く――それは仲直りの機会を奪うことと同義だ。評価という制度が、個人の選択を奪い取り、時間を切り売りしている。悠は吐きそうになった。不安が、焦りが、またしても彼を決め付けに走らせそうになる。だが紙片が消えたこと、プロモーションポスターを無理に扱って壊したこと、そして凛の言葉がどれほど正しかったかが、同時に彼の頭の中で繋がっていく。

「俺、訊くよ。直接。話をしたいって」悠は決めるように言った。言葉にするのは危うかったが、行動は言葉を越える。悠はスクリーンに向かって指を滑らせ、彩音へ短いメッセージを打ち込んだ――けれど、送信ボタンは押さないでおいた。言葉で説明しようとすると、痕跡は消える。だから行動で示す。作ることで示す。

「一緒に、何か作らないか。二人でしか作れないものを。会えるなら、パン屋の二階で待ってる」

送信を躊躇した瞬間、不意に背後で声がした。「それでいいのか? 直接会うリスクはあるぞ。学校の監査もあるし、彩音は忙しい。無理をするとまた壊すかもしれない」

高瀬海斗が扉から顔だけ出していた。彼の目は真剣だ。悠は小さく頷く。壊すかもしれない。だが、壊さないで済む方法を探るより、壊した先に何が残るかを選ぶ方が重要だと、どこかで知っている。

悠はスマートフォンの画面に指を置いたまま、次の二つの選択肢が頭