パン屋の二階で演技が苦手な役者は卒業までに仲直りする 第13話「第12章」
釜の中でパチンと小さな音が鳴り、窓から差し込む午前の日差しが粉の微粒子を金色に染めた。二階の稽古場の隅に置かれた古い掛け時計の秒針が、いつもより早く跳ねるように見える。葉山想は両手を粉だらけにして、冷たい木のテーブルに押しつけた生地を何度も折りたたんだ。指の腹が生地に馴染む感触。暖かい鼓動。時計の針。すべてが卒業までの残り日数を数えているようだった。
釜の中でパチンと小さな音が鳴り、窓から差し込む午前の日差しが粉の微粒子を金色に染めた。二階の稽古場の隅に置かれた古い掛け時計の秒針が、いつもより早く跳ねるように見える。葉山想は両手を粉だらけにして、冷たい木のテーブルに押しつけた生地を何度も折りたたんだ。指の腹が生地に馴染む感触。暖かい鼓動。時計の針。すべてが卒業までの残り日数を数えているようだった。
「まだ、焦るなって言ったのは誰だよ」と想は自嘲気味に呟き、余分な粉を袖で拭いながら振り返った。丸山佳代がコーヒーのカップを差し出す。彼女の眼差しはいつも通り穏やかで、しかし芯のあるものがある。
「時間はないけど、急ぐ理由はないでしょ。急ぐと壊れるのよ、粉でも人の関係でも」
想は笑いを返したが、その笑顔は嘘を含んでいた。階下からは学生たちの囁き声とスマートフォンの通知音が絶え間なく聞こえる。噂の波は目に見えないが確実に彼らを囲んでいた。想の手の内にあるのは、自分たちだけが刻める「痕跡」を呼び出す方法。それは万能ではなかった。決めつければ見えなくなり、急げば共同制作は壊れる——それを身を以て知っているから、彼は慎重にならざるをえなかった。
「風花、来るかも」河合結がドアのところで小声で告げる。彼女はいつも通りに無造作なポニーテールを揺らし、電話を握りしめている。島田颯斗は肩をすくめ、紙の袋を抱えて入り口に立った。二人とも自分の判断でここへ来た。想はその主体的な選択を見て胸が熱くなる。彼の周囲の人間は、制度や噂に流されずに動いてくれている。だが肝心の相手、宮本風花はまだ来ていない。
想の心臓が秒針の音と同期する。彼は頭の中で何度も台詞をリハーサルした。だがその度に「決めつけ」の誘惑が襲ってきた。彼女が何を考えているか、どんな言葉を待っているかを先に把握してしまえば、楽になる。だが、その瞬間、痕跡は消える。過去の失敗がそのことを証明していた。
リズムを整えるように、想は生地を丸めては伸ばした。今日は「二人で作る」ものを用意した。パン屋の二階で、二人が一緒に成形するパン。最初にここでふたりで笑い合った日と同じやり方で、ただ一緒に手を動かす。言葉は最低限でいい。触れること。混ぜること。そこで生まれるものだけが、彼の感覚を確かにするはずだった。
「来た」河合の声が震えた。ドアが静かに開き、風花が入ってきた。彼女はいつもの黒いベレー帽を被り、表情はどこか硬かった。視線が想に向く。彼女の瞳には、過去の不協和音がまだ残っている。想は呼吸を止めた。秒針が三回、四回と鳴る。
「風花、ここに来てくれてありがとう」想の声は震えていたが、敢えて何も決めつけない。彼は背中の奥からこみ上げる説明の衝動を抑え、生地をひとつ彼女の前に差し出した。「一緒に、これを作らない?」
風花はしばらく見つめ、そしてゆっくりと手を伸ばした。その手の温度。指先が生地に触れた瞬間、想の胸にひどく小さな震えが走った。痕跡——ではあるが、まだ確信ではない。彼は自分の力を使おうとして、手のひらに集中した。しかし即座に後悔が襲った。先に意味を決めてしまうと、見えなくなる。想は目を閉じ、意図的に言葉をつくらず、ただ風花と同じテンポで生地を畳んだ。
「急がないでいい?」風花の声は低く、震えていた。
「急がなくていい。焼き上がるのは明日でもいい」想は言った。嘘ではなかった。卒業式は迫っていたが、急いで壊してしまうよりは、余裕を持って正確な痕跡を残したかった。
生地を休ませる間、丸山が下からトレイを持って上がってきた。店の窓からは、評議会が用意した掲示板に新しい情報が張り出されるのが見える。誰かがその前で写真を撮り、即座に拡散する。島田は画面を睨んでいた。
「向こうがまた仕掛けようとしてる」と島田が低く言う。「"卒業公演の主演候補"ってタグを作って、風花を囲い込もうとしてる」
河合が立ち上がった。「私たちで、それを阻止する。ここで話すのは君と僕たちだけでいい。外の評価板に決めさせないって、みんなで決めよう」
彼らの選択は強制されていない。誰も「やれ」と命じてはいない。想はその主体性にまた、胸が締め付けられた。これが「対立構造」に対抗する方法のひとつだ。噂を消費する空気を、彼ら自身の判断で断ち切る。だがその決断も、風花の判断を奪ってはならない。想は自分の力が人の決断を用意し過ぎないように、何度も自分に言い聞かせた。
夕方になり、生地の一次発酵を終えた。三人で席につき、古いラジオから流れる曲に合わせて手を動かす。風花は時折笑い、時折目を逸らす。話すことはまだぎこちない。想は彼女の言葉を引き出そうとはしなかった。ただ、同じ呼吸をすること、それだけに集中した。
だが、急ぎたくなる瞬間は避けられない。想の中で「卒業までに仲直りしなければ」という目標が焦りを育てる。稽古場のドアが乱暴に開き、下級生が数人飛び込んできて帆布のボードを振った。表には評議会の新しいランキング表がコピーされており、そこに風花の名前が大きく赤く書かれていた。瞬間、空気が裂けるように変わった。
「これを出してよ。お前が主演に相応しいってみんなが言ってるんだ!」と下級生の一人が叫ぶ。彼らは善意でやっているのかもしれない。だがその善意が風花を囲ってしまう。風花は息を詰め、掌で顔を覆った。
想は心が煽られた。ここで「決めつけ」をしてしまえば、彼女の気持ちは彼の掌の中に収まるかもしれない。彼女が何を思っているかを確かめるために、自分の能力を使えばいい——しかしそれは禁じ手だ。想は深く息を吐き、生地を掴み直した。何も言わない。自分の力を試す誘惑を抑えることが、今最も大事だった。
「やめよう」と河合が言った。彼女はスマートフォンを取り出し、下級生たちに向かって軽く手を振る。「外の掲示板を見るのはやめて。私たちが決めることだから」
その言葉は小さな抵抗に見えたが、行動は大きかった。島田がボードを静かに引き寄せ、丸山がコーヒーをぶちまけたふりをして混乱を作った。下級生たちは戸惑い、評議会の策略をそのまま繰り返すのをやめた。外の視線を断つ。風花はゆっくりと顔を上げた。彼女の瞳に、ほんの少しだけ柔らかさが戻る。
「ごめん、ごめんね」と風花がつぶやいた。声の端にまだ枯れたものがある。想は生地に手を伸ばし、二人で形を作り始めた。共同制作は壊れかけていた空気を修復する作業でもあった。指が交差するたびに、どちらかが引っ張れば裂ける。だから互いに引かず、同じリズムを探す。彼らがゆっくりと、確実に触れ合うほど、生地はしなやかさを取り戻した。
そのとき、想の掌に小さな感覚が差し込んだ。風花の息づかい、手の圧、過去の言葉の残滓がまるで生地の層に染み込んでいるかのように伝わる。ただしそれは断片的で、確定的ではない。彼女の「本当」は彼女のものだ。想はそれを名称で押し込めない。感じるままに受け取り、ラベルを貼らないでおくことが、痕跡を保つ唯一の方法だとわかっている。
「やっぱり、あなたは……」風花の声が途切れる。彼女は想の目を見た。そこに好奇心と恐れが混じる。想は一歩前に出て、手を止めた。言葉は要らない。二人はそのまま、形を作り続けた。
夜が更