パン屋の二階で演技が苦手な役者は卒業までに仲直りする 第15話「第13章」
二階の窓から差し込む午後の光が、木のテーブルにうねる小麦粉の粉塵を金色に浮かび上がらせていた。下のパン屋からは、折り返し時間のベルが鈍く鳴り、オーブンの蒸気が階段の隙間から上ってくる。成瀬智也は両手に薄い原稿用紙を握りしめ、香ばしい匂いを前にしても胸のざわつきが治らなかった。
二階の窓から差し込む午後の光が、木のテーブルにうねる小麦粉の粉塵を金色に浮かび上がらせていた。下のパン屋からは、折り返し時間のベルが鈍く鳴り、オーブンの蒸気が階段の隙間から上ってくる。成瀬智也は両手に薄い原稿用紙を握りしめ、香ばしい匂いを前にしても胸のざわつきが治らなかった。
「遅れた?」
背後から声がした。宮原結が、紙袋を抱えて戸を閉めた。袋の中でクロワッサンがふるえている音が聞こえた。結の髪には粉はついていなかった。いつだって清潔で、けれど今はどこか冷えていた。
「大丈夫、来てくれてありがとう」
智也はぎこちない笑顔を作った。笑顔が自分の顔に似合わないのは俳優として致命的だと、いつもうすうすわかっている。だからこそ、言葉で埋めようとする。だが言葉は薄く、紙の上の文字も薄い。彼が頼みの綱にしているのは、彼と結が「一緒に作るもの」にだけ残る痕跡だった。共同で作られた物質に、二人の気持ちの痕跡が欠片として刻まれる──そういう不完全な力。万能ではない。条件と代償がある。
「何を作るつもり?」
結は机の上の原稿をじっと見た。智也はそれを突き出すように差し出し、答える前にもう言葉を選んでいた。「短い台本を。一緒に書いて。卒業までに、きちんと話をしておきたいんだ」
結は腕を組み、微かに首を傾げる。彼女の眉には、前の喧嘩で擦り切れたような慎重さが残っている。
「台本を作れば痕跡が見えるんだっけ? 本当にそういうの信じてる?」
「信じてる、って言ってくれるなら楽なんだけど……」智也は舌を噛むようにして笑った。「僕は役者だ。嘘はつける。でも、ここだけは嘘が効かない。僕らが同じ筆を動かしたときだけ、そこに僕らの息が残るんだ」
結がため息をついた。「息って。ちゃんと言葉にしてほしい。台本の行間に足りないものを埋めるための手段にされるのは嫌だよ」
彼女の言葉は正しく、鋭かった。智也はそれでも紙と鉛筆を机の中央に並べ、指で一本の線を引く。「だから、やり方は一つだけ。決めつけない、一歩ずつ。二人で同時に手を動かしてみよう」
結は渋々ペンを取り、智也も同時にペンを握った。二本のペン先が一つの行の上でぶつかりあうように、ぎこちない共同作業が始まった。呼吸を合わせる。言葉を決めない。だが智也の内面には、せっかちさという古い癖が息を潜めていた。卒業は近い。時間は残酷に流れている。彼は先回りしてしまう。
「──ごめん、って言う台詞で」
智也が小さくつぶやいた。結はその言葉を無視して、静かに次の行を伸ばした。智也は自分の筆跡を、少しだけ太くしようと力を入れる。彼は相手の気持ちを誘導して済ませたい、という弱さを自覚していた。痕跡を『こうであってほしい』と決めつけた瞬間、力の端がじりと熱を帯びた。
渦が出るような、頭蓋の奥の圧迫。智也の視界が一瞬綿のように曇った。ペン先が紙の上でつまずき、「んっ」と短く喉が鳴る。すぐに声が出なくなった。言葉は喉の奥で固まった。嘘で固めたら、本当に言葉が詰まったのだ。
「智也?」
結の声が遠くに聞こえる。彼は掠れた声で返そうとするが、喉は動かない。気がつくと、机の上の紙の行間が白く光り、どこにも『痕跡』の兆候がなかった。二人の文字は、透明な膜に覆われたように空虚だ。
「力を使ったの?」
背後から足音がして、遠藤蓮が上がってきた。蓮は大学の劇研仲間で、評議会側と現場を繋ぐような面倒見のいいタイプだ。彼の顔は心配で曇っていた。「昨晩、つぐみさんから聞いた。二階で何かするって」
智也は喉を押さえる。使うときには代償が伴うことを誰もが知っている。喉の渇き、声の消失。過去に一度、智也は声を一週間失い、主演オーディションを棒に振った。それが彼に刻んだのは、能力を安易に使うことの愚かさだった。だが今、彼はまたその愚かさを犯してしまった。
「決めつけたら見えなくなるんだ」と蓮は付け加えた。彼の口調には諦観と怒りが混ざっている。「誰かの気持ちを『ああだ』と決めてしまう。その瞬間、力は黙るんだ。で、もっと厄介なのは──」
その時、結が机から立ち上がった。彼女の手には紙の束ではなく、パン屋の小さな封筒があった。封筒に入ったのは、二人が以前作った『共同制作の小さな証』──紙に折り込まれた折り鶴だった。ふたりで折った鶴には、確かに淡い光の痕跡が宿っていた。だがその鶴は角が擦れて、羽の先が潰れていた。
「急ぐと壊れる。私、もう疲れたよ――」
結の声はついに切れた。彼女は扉の方を見ながら、智也を正面から見た。「あなたが私に『これがあなたの気持ちだ』って押し付けたら、私、どうやって選べばいいの? 評価されるための反応なんて、いらない。私が自分で選べることが欲しいだけ」
智也の胸に、見たことのない冷たさが落ちた。彼は自分が解決の英雄でありたいと願っていた。だが彼の力は、個別の解答を出すのではなく、目に見えない共同の痕跡を示すだけだ。しかも、その痕跡は「急ぎ」「決めつけ」があると消える。つまり、彼がやってきたのは、相手の選択を奪うような介入そのものだった。
下の階から、評議会の事務員を名乗る声が階段を上がってきた。「二階を使用許可した者です。公開リハーサルは今日の評価対象になりますので、準備はよろしいですか?」
その言葉は暗い注釈になった。外圧が入れば入るほど、関係は見せ物になる。智也は咄嗟に口を開けたが、声は出ない。代わりに、彼は封筒を取り出し、結に差し出した。そこには、彼が無理に書き足そうとした台本の一節が折りたたまれている。字は震えていた。
「これを読んでほしい。強要じゃなくて、一緒に読んで。ゆっくりでいい」
結は一拍置いてから封筒を受け取った。紙を開くと、そこに書かれていたのは謝罪でも説明でもない、二人のことを描いた短い情景描写だった。書かれているのは未来の断片──一緒に座って、窓の外の雨音を聞くという、何でもない瞬間。結の指先が震える。
「読みたい?」智也はその言葉を、心の底から出そうとして喉を押さえる。声はまだ戻っていない。結は紙を見つめ、ゆっくりと首を振った。
「今は、無理。私、評価されるための……舞台に立ちたくないの」
その選択は明確だった。智也の心臓がずしりと沈む。追いかけることはできる。だが追いかけるという行為自体が、結の選択肢を狭めるかもしれない。彼は過去の自分を思い出す。舞台で一人観客の反応にすがっていた日々。人の気持ちをポイント化する制度の中で、真実はいつも二の次にされた。
「選んで。あなたが選ぶなら、僕はそれをちゃんと受け止めたい」
智也は胸の内で誰かに叫ぶ。声は出ないが、目で結を見つめる。結はその瞳の奥で、迷っている自分を見つけたようだった。戸の外では、評議会の足音が近づく。
「私、来週から外部で実践プログラムに参加することにしたの。三週間くらい、戻らない」
その言葉は、告白でも宣言でもなかった。ただの事実の放置だ。結はその場から出るように荷物をまとめ始める。智也は走って止めるか、沈黙して見送るかの二択に震えた。声がない。だからこそ彼は、前とは違う方法で選ばなければならない。
蓮が鞄を肩にかけながら、短く言った。「選ぶのは結だ。た