パン屋の二階で演技が苦手な役者は卒業までに仲直りする 第11話「第10章」
二階の窓から差し込む午前の光は、パンの焼ける匂いを薄く白く溶かしていた。柳井咲がステンレスのトレーをかき回す音、下の客席から聞こえる新聞紙のめくれる音。床に落ちた小麦粉が指先にまとわりつき、足裏に心地よいざらつきを残す。俺はカウンターの端に座り、掌の中で紙切れをぐしゃりと折り畳んだ。紙切れには、即興上演のために皆で書き散らした短いせりふとスケッチが混ざっている。端に押された指の跡が何重にも重なり合って、まるで古い木目のように見えた。
二階の窓から差し込む午前の光は、パンの焼ける匂いを薄く白く溶かしていた。柳井咲がステンレスのトレーをかき回す音、下の客席から聞こえる新聞紙のめくれる音。床に落ちた小麦粉が指先にまとわりつき、足裏に心地よいざらつきを残す。俺はカウンターの端に座り、掌の中で紙切れをぐしゃりと折り畳んだ。紙切れには、即興上演のために皆で書き散らした短いせりふとスケッチが混ざっている。端に押された指の跡が何重にも重なり合って、まるで古い木目のように見えた。
「始めるよ」宮本結が静かに言った。彼女の声はいつも通り低く、確かな輪郭があった。結は演出の中心で、争いの前後も変わらなかった。黒沢奈央は窓際の椅子に肩を丸めて座っている。彼女の目は虜になったように窓の外の通りを見ていたが、時折こちらをちらりと見る。そのたびに胸がざわつく。
ドアが押し開かれ、佐伯望が四人の評価委員を連れて入ってきた。彼女は黒縁のメガネ越しに二階を一瞥し、背筋を伸ばした。「時間がないので手短に。貴方たちの行為が、『共同性を装った操作』に当たると複数の学生から申告がありました。関係者全員の説明を求めます。ここにあった小道具、記録媒体、関係者の自白を提示して下さい」
言い渡された瞬間、空気が一枚剥がれるように冷たくなった。柳井さんがトレーを床に下ろす音が、思ったよりも大きく響く。
「操作、ですか」結が答えた。「私たちは即興で、参加者全員の意思で上演しました。強制は一つもありません」
佐伯は紙の束をめくりながら眉を上げた。「説明は筋道立てて。『共同で作ったものにだけ痕跡が残る』という、いわゆる“特性”について話してください。もし第三者へ感情を植え付けることが可能なら、それは評価制度の根幹を揺るがします」
その言い方に、俺の胃の内側が冷たくなる。聴こえないふりをして、俺は紙切れを机の上に広げた。そこには皆の書き殴った文字、付箋、破れたセリフ、手の脂が残した丸い曇りが混ざっている。能力は事実だ。二人以上で共同した制作物には、関わった人間の感情の痕跡が残る。だが、痕跡は読むための文字ではない。曖昧で、層になっていて、俺が「これがこうだ」と断定するほど見えなくなる。口に出すたび、層が萎んでいく。急いで作れば、その形は壊れる。
「やってみればいい」佐伯が冷ややかに言った。「ここでその痕跡を示せ。客観的に、第三者が見て共同性があると認められるものを。できなければ、処分は避けられません」
結の顔が一瞬ひきつった。柳井さんは深く息を吐いてから、厨房へ下りていった。残ったのは俺と奈央と数人の仲間だ。手が震えた。俺を見つめる瞳の一つ一つが、期待と疑念の混ざった重さで胸にのしかかる。
「読んで、じゃない」奈央がぽつりと言った。「解釈を押し付けないで。私たちは自分たちの声で説明する」
彼女の声に励まされて、俺は紙を持ち上げただけで止めた。触れると、指紋の跡がふわりと際立つ。だが眺めれば眺めるほど、何が誰のものか決めつけたくなる。前にやった時、俺は一つの指紋を見て、『奈央は恐れている』と口にした。あの瞬間、彼女は怒り、俺たちはぎくしゃくした。言葉は痕跡を凝固させ、他の声を覆い隠した。能力の代償は、単に身体の痛みや疲労ではない。証言をひとつに固めるたび、見えなくなるものがある。
「じゃあ、私たちが話す」宮本が前へ出た。「この紙は、全員で書いた。さまざまな声が混ざっている。それをひとつの意味に押し込めるべきではない」
佐伯は顎を引いた。「では、皆でその共同性をここで作り直せ。私が第三者として監督する。短時間で構わない。共同で作った痕跡を示すこと」
そこだった。急いで“共同”を作り直すといわれた瞬間、体内に強い不協和が走る。制作は焦らされれば焦らされるほど、弱くなる。俺はそれを知っている。急ぐと手順の丁寧さが欠け、相互のすり合わせが省略される。共同性は薄れていく。だが動かなければ、奈央の単位、私たちの活動の認可を失うかもしれない。
「やらせてください」三田村渚が言った。彼女は音響の調整台から走って来て、背中のポーチを掴んだ。「私が、録音を切りっぱなしで流す。編集なんてしない。最初の上演の録画をそのまま見せる。それで…」
「編集疑惑を晴らせるか?」佐伯が問いを投げた。
「はい」渚は視線を逸らさなかった。「生の映像は、群衆の表情や関わり方を映します。共同作業は顔の切り替えに出る。私たちの即興は、民主的な声の重なりが原理です。それを見れば分かるはずだ」
有馬亮がバッグから小型のカメラを取り出し、まだ暖かいトリミングボタンを指で押した。モニタに流れ始めた映像は、先日の上演の未編集ファイルだ。画面が切り替わり、パン屋の階段を上る学生たち、緊張した笑い、指が合わさる瞬間、互いの目線の交換。カメラが群衆の顔を映すたびに、そこには多数の微表情があった。ある者の唇の震え、別の者の眉の上がり方。場面の雑踏の中で、単独の感情が突出せず、むしろ網目のように繋がっていることが視覚的に示された。
だが佐伯は顎を引き、カメラをじっと見た。「映像は印象です。彼らの行為が演出されているのか、自然発生なのかは編集で左右できる。直接の“痕跡”を示しなさい。ここで共同して作った物を。今」
俺は思わず立ち上がり、紙切れを再び広げようとした。そこへ奈央が立ち上がり、静かに歩み寄った。彼女は紙を取ると、自分の指で一つの角をなぞった。「これは、私たちが考えた断片で、私の文字もあるし、亮の字もある。渚のメモも、結の指の押し跡もある。交わる線を一つずつ説明することはできない。説明は個々がするべきだ」
それは優しい拒絶だった。俺はほっとし、でもどこかで焦りの火は消えなかった。結はテーブルに座り直し、深く息を吐く。「なら、共同で何かを作ろう。ここで。焦らず、でも期限がある。第三者が見ている。私たちは自分たちの方法で示す」
準備は整っていない。だが仲間たちは自然と手を動かし始めた。柳井さんが粉を計り、渚が計器を整え、有馬は録画の角度を調節した。共同制作は、演技でも、芝居でもない。パンを焼くという行為は、確かに“共同”の匂いを持っていた。手を洗い、捏ね、伸ばす動作のなかで、話は挟まる。それはゆっくりした会話で、互いのリズムを合わせる作業だ。
だが時間は無情に過ぎる。佐伯の腕時計が無造作に机の上で時を刻むたび、俺は胸が詰まるのを感じた。急ぐと生地はまとまらない。手の動きが目に見えて硬くなった。結が俺に小声で言った。「落ち着いて。急ぐと壊れる」
その言葉が、逆に追い詰める。俺は掌の汗を拭いて、ゆっくりと生地を折り込んだ。すると不思議に、周囲の手の動きが少しずつ柔らかくなっていく。奈央がある瞬間、小さく笑って生地を押し込み、俺の手に触れた。接触の感触は温かく、馴染みがあった。共同制作の時間が、俺たちの間に何かを取り戻す。でも、同時に背後で佐伯の顔は変わらない。
「いいでしょう」佐伯が言った。「だが、一つ付け加える。委員会は、学業評価の決定権を持っている。あなたたちの行為が『学業の妨げ』と判断されれば、単位の一部を取り消すことができる。特に中心的人物の卒業を阻む権限があります。私は理事会に報告する義務