市民プールで完璧主義の生徒会長は本音を言う練習をする 第9話「第8章」
陽が傾きかけた市民プールの端、コンクリートの縁は熱を帯びていた。塩素と古いゴムの匂いが混じった空気に、誰かの笑い声と水しぶきのリズムが溶けていく。澄は足首まで水に浸し、膝の上に布切れが載ったまま動かずにいた。布は昨夜から彼女の手の中にあり、縫い目に残る微かな温度が消えない。指先に伝わるのは、誰かと一緒に針を動かした痕跡だった。
陽が傾きかけた市民プールの端、コンクリートの縁は熱を帯びていた。塩素と古いゴムの匂いが混じった空気に、誰かの笑い声と水しぶきのリズムが溶けていく。澄は足首まで水に浸し、膝の上に布切れが載ったまま動かずにいた。布は昨夜から彼女の手の中にあり、縫い目に残る微かな温度が消えない。指先に伝わるのは、誰かと一緒に針を動かした痕跡だった。
「あの、澄さん」
比奈の声が近づき、手にはもう一つの浮き札があった。小さなコルクに麻布を巻き、二人で留めていったものだ。布の縁には不均一なステッチ。遠目には雑だが、澄には一目でどの部分が誰の時間なのかわかった。けれどそれを口に出すことは、未だに怖かった。
「どう?」比奈は肩越しに澄の手元を覗き込む。夕陽が布に沿って薄いオレンジを落とす。
「……温度はある。こことここが、比奈の。こっちは私の」澄は低く呟いた。声が震えるのを自覚する。見えたものを決めつけないで、という約束を思い出す。だが今日の比奈は、いつもより小さく、針目が細かった。澄の胸が、勝手に判断しようとした。
「ねえ、見えるんでしょ? だからって隠すの?」比奈が苛立ち混じりに言った。比奈は自分の不安を隠さないタイプだ。目を逸らせば強さに変わる、そんな人だ。
澄は息を吸い、口をつぐむ。胸の奥の鼓動が、針で刺されるようにしこりを作る。彼女は能力を使うとき、自分の内側が薄くなっていくのを感じる。見たいと思うほど、視界は遠ざかり、感覚は鈍る——それがいつもの代償だった。けれど今日はもう一つ、初めての感触があった。決めつける考えを成した瞬間、右手の感覚が一瞬だけ消えたのだ。ぬるりとした血のような熱が指先に残り、針先を落とした。
「ごめん、ちょっと待って」澄は布を膝に押し付け、背を伸ばした。手を振って血の巡りを戻そうとする。水面に落ちる風が冷たく、頬に当たって瞬間的に気が遠くなる。比奈が心配そうに近寄る。
「またなるの? 無理しないで。昨日も学校で無理してたでしょ」
「……大丈夫」澄は言葉を選びながらも、小さな嘘を重ねた。大丈夫ではなかった。代償は感覚だけでは済まない。決めつけるたびに、相手の痕跡はぼやけ、最後には何も残らなくなることを澄は知っていた。
そのとき、プールサイドの方で声が上がった。直人が他の生徒と一緒に、大きなビニールシートを広げている。彼は澄の生徒会のメンバーで、計画を先走るタイプだ。今日の活動は「共同で作る浮き札プロジェクト」を外に向けて公開する、小さなイベントだった。比奈が自主的に企画をまとめ、直人は当日運営を引き受けた。だが澄には何かが引っかかっていた。直人は「結果」を急ぐ男だ。やってしまえば形になる——それが彼のやり方だった。
「澄、こっち来て。これ、誰と誰のでもいいって掲示したいんだ。『公開ワークショップ、自由参加』って書いてくれれば、人も来る」直人が勢いよく手を振る。夕陽に彼の笑顔がまぶしい。だがその笑顔の下には、雑に済ませても構わないという緩みがある。
「自由参加なら、共同制作の時間を守らないと意味がない」澄は静かに言った。誰かと一緒に物を作る瞬間、その時間を削れば痕跡は残らない。それは直人が最も理解しにくいことだった。
「そんなの大げさだよ。やってみなきゃわからないだろ。やってみて、ダメなら直せばいい」直人は肩をすくめた。その言葉が、澄の胸に針を刺した。共同制作は直せるものじゃない。急かされて端を縫い合わせた物は、誰の声も聴けず、ただ擦り切れてしまう。
「比奈、見本をこちらで少し作って説明してくれない? 細かい部分は後でやるって流れにすれば参加しやすいよ」直人が提案する。彼の声には善意がある。だが善意が暴力になる場面があることを、澄は知っていた。善意の急き立ては、人の選ぶ余地を奪う。
比奈はしばらく考えてから、静かに首を縦に振った。「うん、いいよ。澄さん、短い説明で大丈夫?」彼女の声は澄に寄り添うようで、同時に澄から距離を取る選択でもあった。個人のペースを尊重すること。比奈のその返答が、澄には救いにも見えた。
その時、もう一つの出来事が起きた。隣のテーブルで、男女二人が急いで一つの浮き札を仕上げようとしていた。彼らは笑いながらも針を早く動かし、雑に結び目を作る。澄はつい、その布の縫い目を追った。見えたのは、指の形のような淡い痕跡と、渦巻くような不安。だが彼らは明らかに急いでいた。直人の言葉が耳に残っていたのだ。
澄は居ても立ってもいられず、その二人に近づいた。「少し、時間を——」と言いかけた瞬間、手の中の感覚が再び抜けた。針を持つ指がつるように力を失い、布がずれてコルクを落とした。コルクは水滴で濡れ、床に落ちてカラカラと小さな音を立てた。二人の顔が固まる。針目の一つが引き裂かれ、布の端が不自然に裂けた。
「やっちゃった」男の方が呟き、女の方は目を潤ませた。周りの生徒たちが一瞬で静まる。簡単に直せる裂け目ではない。共同で刻む痕跡は、切れれば元には戻らない。澄の胸が締め付けられた。自分が近づいたせいで相手の作業が乱れたのかもしれない。あるいは、自分の決めつけようとする意識が波紋を作り、二人の共同性を脆くしたのかもしれない。
「大丈夫、直せる」直人が前に出て、裂けた布を拾った。だがその言葉が空しく響く。かすかな違和感が澄の頭を覆う。自分の能力の代償が、ただ感覚を鈍らせるだけでないことを、彼女はようやく理解し始めていた。決めつければ、相手の痕跡は「消える」。急げば共同性は裂ける。だがその過程で、彼女自身の手が不確かになる——それはこれまでなかった変化だ。
比奈が小さく息を吐いた。「澄さん、無理しないで。私が手伝う」彼女は澄の手をとって針を握らせた。澄は戸惑いつつも、比奈の指と自分の指が重なる感触を確かめる。瞬間、布に薄い波紋のような色が現れた。淡い金色がステッチに沿って揺れて、作業台の光と混じった。澄はその色を食い入るように見たが、同時に心のどこかで踏みとどまった。言葉にする前に、比奈の目が澄を見て笑っていた。何も聞かず、何も決めつけずに、ただ一緒にいることを選んでいる。その無言の承諾が、澄には何より重かった。
「やっぱり、こういうのは急いじゃいけないんだね」直人が苦笑いをして針仕事を見守る。だが彼はすぐに別の案を口にした。「でも、明日の全校集会でこのプロジェクトを紹介して、参加希望者を募ろう。学校側も協力してくれるってさ」
澄はその言葉に反射的に拒否を示した。全校集会で何かを「紹介」することは、個人的な痕跡を公的な評価に晒すことと同義だ。共同で紡いだ何かが、制度の尺度に翻弄されれば、それは噂という刃にすり潰されてしまう。昨日までの彼女なら、学校側の協力は大きな前進と喜んだだろう。だが今は違った。
「簡単に『紹介』するのはやめてください」澄の声は冷たく、周囲の空気が一瞬凍った。直人の表情が曇る。
「澄……」比奈が間に入る。「私たちでルールを決めてからにしようよ。急がないって約束したじゃない?」
直人は眉を寄せたが、やがて大きく頷いた。「分かった。澄の言う通りにしよう。でも、学校側には…」彼は言葉を濁した。善意の推進者を前にして、制度はすでに興味を示