市民プールで完璧主義の生徒会長は本音を言う練習をする 第10話「第9章」
日差しがコンクリートを焼く午後、塩素の匂いが風に混じって鼻腔を刺した。市民プールは学校の授業時間が終わったばかりで、レーンのラインだけがゆっくりと波に揺れている。澄はプールサイドの縁に座り、足を膝まで水につけたまま、膝の上の小さな袋をいじっていた。袋の中には、色とりどりの細いロープと古いプール用のリングの切れ端、細い金具が入っている。彼女はそれをじっと見つめ、呼吸を整えるように一度だけ目を閉じた。
日差しがコンクリートを焼く午後、塩素の匂いが風に混じって鼻腔を刺した。市民プールは学校の授業時間が終わったばかりで、レーンのラインだけがゆっくりと波に揺れている。澄はプールサイドの縁に座り、足を膝まで水につけたまま、膝の上の小さな袋をいじっていた。袋の中には、色とりどりの細いロープと古いプール用のリングの切れ端、細い金具が入っている。彼女はそれをじっと見つめ、呼吸を整えるように一度だけ目を閉じた。
「練習、って言ったら本当に練習になるの?」結(ゆい)がプールのタイルをこすりながら、浮き輪を抱えて近づいてきた。濡れた髪が肩に張りついて、彼女の声は少しかすれていた。結は水泳部のエースで、澄とは幼馴染だ。彼女は澄の横に腰を下ろすと、袋の中身を覗き込んだ。
「これは私の、能力の訓練用。」澄が手に取ったロープを指先で撫でる。表面はざらっとしていて、乾いたときの匂いが残る。顔に汗がにじんでいるが、澄の表情は研ぎ澄まされていた。「二人で作った物だけに痕跡が残る、って知ってるでしょ。今日は、本音を口に出す練習と、それを物に残す訓練を同時にやろうと思うの」
結はふっと笑った。「市民プールで、友達の気持ちが見えるブレスレット作りか。なんだか映画みたいね」
澄はロープの端を結んだ。二人で作ること。そのためには同じペースで、手を合わせるようにして、一つの工程を共有することが必要だ。澄にとってそれは、完璧主義の外枠を崩す練習でもあった。計画して、完璧にやる。そうすることで彼女は「正しい自分」を保ってきた。しかし今は、完成の見た目よりも、その過程に刻まれる痕跡を優先しなければならない。痕跡は、触れ合いの圧や指の角度、ためらいの長さ、笑いの回数のようなものが微細に反映される。澄はそれを読み取り、本音の練習に用いる。
「じゃあ、最初の結びは一緒にやろう」澄が言った。結はすぐに手を伸ばし、二人はロープを交互に編んでいく。指先が触れるたびに、澄の胸の辺りがひりつくようにざわめいた。結の手は温かく、手首にある腕時計の跡が微かに残っている。澄はその温度差を確かめるように息を吐いた。
共同作業に入ると、澄の視界の片隅にわずかな変化が起きる。ロープの表面に、普通の目には見えない淡い色の筋が浮かび上がる。筋は結の性急な指運びの跡や、澄がためらって織り直した回数を描き出している。澄はいつもの癖で、それに「解釈」を与えたくなった。友情だ、信頼だ、仲間だ——そう名付ければ安心できる。
しかし彼女は思いとどまる。能力のルールは冷たく明確だ。痕跡を「これだ」と決めつけるほど、見えるものが蜃気楼のように崩れる。曖昧さを抱えたまま観察すること。そこに誠実な気持ちが宿る。澄は目を閉じ、指先の動きを続けた。
結はふっと笑って言った。「澄、変に力入ってるよ。いつもの澄はもっとリズムがあるのに」
「わかってる。だからこれも練習」澄の声は低かった。だが手だけは止まらず、二人の息づかいが一つのテンポになった。
途中、プール脇のシャワーが作動して、大粒の水がデッキに落ちた。結が顔をしかめ、動揺して編み方が速くなる。澄も反射的にペースを上げてしまった。急ぐと共同制作は傷つく。編み目が雑に重なり、糸の位置がずれてしまう。その瞬間、ロープに浮かんでいた色の筋がぶるりと震え、細い光がすっと消えた。澄の胸が凍る。
「ごめん」結が眉を寄せる。手を止め、二人の間に沈黙が落ちる。汗と塩素の香りだけが残る。澄は、自分が耐えていたものが一気に崩れるのを感じた。能力が示すのは、外から見えない"事実"ではない。共同した結果に現れる"痕跡"だ。急がせたことで、その痕跡が壊れたのだ。
澄は静かにロープを抱きしめると、結を見た。「もう一回、最初からやり直してもいい?」
結は答えながらも、視線の端でプールの方を見た。普段は明るい目元に影が差す。「ごめん、澄。私、コーチに呼ばれてる。今日の練習、ちょっと伸ばして欲しいって」
「わかった。じゃあ、また今度」澄は笑おうとしたが、笑いはどこかぎこちなかった。結は浮き輪を抱え、プールに戻っていった。水の音が立った。澄は一人、残されたロープを指先で弄る。編み目は崩れている。細い繊維がほつれ、金具が一つ外れかかっていた。手のひらに小さな切り傷ができる。急いだ代償は、物理的にも痛みとなって返ってきた。
その瞬間、影が差した。風間颯斗がフェンスの外から顔をのぞかせ、欄干を飛び越えてプールサイドに降り立った。颯斗はいつもより表情が険しかった。彼は生徒会の外部情報を知る者として、澄にとって重要な協力者だが、距離を置くこともある男だ。今日は両手に封筒を抱えている。
「澄、これ見て」颯斗は素早く封筒を差し出した。封筒の中には、カラーコピーされた数枚の資料と、小さなUSBメモリが入っていた。澄は指先で資料をめくる。見出しが冷たく目に刺さる。
『AQUA-RANK パイロット導入計画 — 市民プール公開日の実証実験』
「これは……」澄の声が震える。書類には、学校が文化祭のプール公開日に合わせ、参加者の"交流データ"を収集して恋愛評価のランキングを算出する試験運用を行う、とある。データ収集は腕に巻くリストバンド型のデバイスを通じ、会話量、距離、触れ合いの回数などを定量化して可視化する仕組みだ。生徒だけでなく来場者にも着用を求める案が含まれている。
「こんなことを公表するはずがない。どうしてこれが外に出てるんだ?」澄は資料を握りしめ、指の付け根が白くなる。
颯斗は目を伏せた。「中の人間が提供してくれた。親戚筋にいるって言っただろ、あの会社の接点。俺もこれが来るとは予想してなかった。表向きは"コミュニティ活性化"って言い分だけど、実際は個々の関係性をランキングにして露出させる。しかも、そのランキングの資料は保護者側の同意を取る形で運営資金に結び付けようとしてる」
澄はふっと息を吐いた。プールの水面に太陽が反射して、微細な光の粒がゆらゆらと揺れた。自分が今ここで試みようとしていたこと—本音を言う練習と、その痕跡を物に留めること—が、そのまま制度に利用されかねない。共同で物を作ることで生まれる微かな"痕跡"を、機械で大量に剥ぎ取られる図を思い描く。透明な数字に変換され、噂の燃料にされる。澄は背筋が寒くなった。
「しかも、これを使えば"同意"を形式で取りさえすれば、保護者も校側も責任を取らずに個人を評価できる。弱い立場の生徒たちの選択が消される」颯斗は封筒の角で地面を軽く叩いた。「俺の親がいる業界では、こういうツールは"効率"として喝采される。だが、君が言ってた通り、恋愛を評価で消費することになる」
澄は無言で資料を読み続けた。デバイスの写真は無機質で、プールの青さと相性が悪い。そこに写るリストバンドは冷たいプラスチックの輪に過ぎず、そこに数値が付されて、クリック一つで人の心が"判定"される。自分の能力は、不完全で曖昧で――だからこそ尊いと思っていた。それが数値に変えられれば、柔らかさは容赦なく切り取られる。
「颯斗、これを止めるには?」澄はようやく口を開いた。声は小さいが硬い。完璧主義の鎧の縫い目が、今にもほころびそうだった。
颯斗