小さな出版社で雨宿りの常連客は恋より先に自分を許す

小さな出版社で雨宿りの常連客は恋より先に自分を許す 第2話「第1章」

雨は、屋根を伝って小さな段差に落ちるたびに、紙の匂いを濃くした。

雨は、屋根を伝って小さな段差に落ちるたびに、紙の匂いを濃くした。

椿は薄く茶色くなった封筒を左手で押さえ、右手でドアの鍵を回した。雨宿りの常連が幾人か出入りする「雨待ち舎」は今日も窓ガラスの雫で世界をゆらしている。ドアを開けた瞬間に立ち込める紙とインク、古い煎れたてのコーヒーの匂いが、彼女の胸を軽くなでた。湿った布の匂いも混じっている。ポストから出したばかりの封筒を、棚に差し込まれた数冊の見本誌の隙間にそっと置いた。

「おかえり、椿さん」と、打ち合わせ机の向こうから声音が届いた。タイプライターのレバーが静かに戻る音がする。結城凪――この出版社に顔を出すようになってまだ三か月の、若い作家だ。黒いフードの裾に水滴が残り、髪が少しまとわりついている。彼はいつも原稿原稿といいながら、手を動かすのは紙を折ることばかりだ。

「凪くん、こんな日に濡れて」椿はエプロンの胸元を指で払った。封筒を棚にしまいながら、舌先で言葉を探す。雨待ち舎の守るものは本だけではない。手を止めて店内を見渡せば、背の高い本の山が微かな香を放ち、奥の製本機は休んでいる。小さな出版社は、いつもぎりぎりの呼吸で立っている。

凪は濡れた掌で椿の差し出したマグを受け取り、湯気を一息に吸った。「いつも、すみません」彼の声には申し訳なさと嬉しさが混じっている。椿はキーボードに指を置き、蛍光灯の下で字を打ち始めた。タイプの音が事務所のリズムを作る。郵便物の山の中で、ページ一枚の余白にも物語がうごめいているように思える。

封筒を開ける指先が少し震えた。紙が裂ける音は思ったより大きく、室内に一瞬の静寂を作った。中には赤いインクで「催告」とだけ打たれた紙切れが一枚。滞納家賃の数字が太く、控えめに突きつけられていた。椿は視線を上げられず、凪が差し出したコーヒーの湯気が顔に当たるのを感じた。

「……家賃が」凪が続きを察した。彼の手がふっと動いて、タイプの傍に置かれた紙片をつまみ上げる。彼は顔を真剣にした。「僕が、何か手伝います。フライヤー作って、配ります。栞も作って売るとか」

椿は小さく笑った。笑いは喉の奥で固まって戻ってきた。「栞ね。いいわね、手軽で、誰でも持っていける」でもその声の奥で、不安が波紋を描いた。どうやって金を作るか。どうやってここを守るか。椿は、自分が誰かを守ることを選ぶとき、いつも腰の辺りが冷たくなるのを知っている。それは、かつての失敗の痕だった。

「椿さん、本当に大丈夫ですか?」凪の視線がまっすぐで、恥ずかしそうな期待を含んでいた。彼は前に出て、大きな画用紙と色とりどりの紙束をテーブルに並べた。「小さな栞を作りましょう。限定版にして、表紙には私の短い掌握を入れて。雨待ち舎の名を入れて」

椿はふと、引き出しの一段を開いた。そこには、本の製作のためにとっておいた小さなスタンプと、インクパッド。年季の入った木のスタンプは、店のロゴを刻んでいる。椿は指先でその金属の輪郭をなぞった。手が覚えている。指の腹に、以前にやったことの感触が残っている。失敗の記憶は、火傷の跡のようにいつまでも疼いた。

「一緒に作るのね」椿は言った。言葉にするたびに心が少し軽くなる気がした。共同で物を作る。椿は、そのことにひそかな力を持っていることを知っている。だがそれは、人に聞かれても説明できない。誰かの心を覗く道具ではない。二人が手を合わせてものを作ったときだけ、紙は当日触れ合った気持ちの痕跡をわずかに残す。その温度は言葉にならない。だが、人の名を決めつけると消える。急ぐと壊れる。

彼女はそのことを凪に言えなかった。説明しそびれて、ただ笑ってスタンプにインクを落とした。凪も同じスタンプを手に取り、二人でそっと紙に押す。指先が触れ合う。木の感触、インクの匂い、紙の繊維が爪先に引っかかる感覚。二つの手が同じ運動をするだけで、一瞬、何かが生まれる気配がした。

出来上がった栞の端に、椿は暖かさを感じた。掌に吸い込まれるような、ほんの短い温度の波。触っても見てもそれは何の文字にもならないが、確かにそこにある。凪が顔を上げる。彼の瞳は不安と期待で揺れていた。椿はその温度を追うように指で栞の縁をなぞった。

「……ね?」凪が小声で言った。「これ、何かの気配ですか?」

椿は答えることができなかった。言葉にするのが怖かったのだ。言葉にしてしまえば、その気配は正体を与えられ、消えてしまうことを彼女は知っている。痕跡は曖昧であるからこそ、誰かと共有できる。決めつけるほど、それはくぐもっていく。

だが、封筒の中の数字は待ってくれない。小さな出版社の窮地はいつだって時間を測ってやってくる。凪は提案した。三日後の地元のブックフェアに出す。限定の栞と小冊子で出店する。成功したら少しは猶予ができるかもしれない。

「でも、急いだら駄目なんじゃないですか」凪の声に、椿の注意が戻った。彼はそっと栞をもう一枚手に取り、今度は息を整えてからスタンプを押した。彼らは互いに視線を合わせ、その瞬間だけ作業はゆっくりと流れた。出来た栞はさっきのものより薄く、でも角は揃っていた。椿はふと安心する。

しかしその午後、来客が増えた。噂話を求める隣家の主婦、仕事の依頼に来た編集者志望の若者、そして数人の雨宿り客。誰かがテーブルにひっかけた言葉で、凪の顔色が変わる。「連載があるって聞いたよ」と誰かが囁いた。店内の空気が一瞬ざわつく。恋だの噂だの、読み物の材料にされることがある。椿はそのざわめきが嫌いだった。恋はゴシップのネタになり、関係は評価で測られる。外の声が小さな出版社をもっと小さく、閉じられた箱にしてしまう。

「時間がない」と凪が言った。彼が急ぐのは、優秀でなくてもいいから結果を出したいからだ。椿は机の隅の封筒を見た。催告はまだ彼女の視界を忘れていない。彼女は自分の胸に小さな冷たいものがあるのを感じた。それは、かつて彼女が大切な原稿を台無しにしてしまった日の冷たさと同じだった。あの日、椿は自分を許せなかった。だから恋に踏み出すことを恐れていると、彼女は凪の前で初めて明言した。

「私、恋に踏み出せないの。自分を許せないの」声は小さかったが、確かに凪に届いた。彼は黙ったまま栞を見つめる。言葉が重く沈む。誰かの心を確かめることで安心したくもあるが、椿は同時にそれが禁じ手であるのも知っていた。決めつければ気配は霧散する。急げば栞は角から裂ける。

凪はゆっくりと顔を上げ、椿を見た。「じゃあ、急ぎませんか。三日後でも、いいものを作って出しましょう。噂や評価のためじゃなくて、ここにいる人たちのために」

椿は答えようとして、ふと手元の栞の温度がふっとひんやりと消えたのを感じた。彼女が「これは恋だ」と心の中で決めつけた瞬間、指の先を伝っていた温度は曖昧になり、見えなくなっていった。胸に走る軽い痛みと、頭の中の紙屑のような記憶の断片が散った。代償。覗くことを許すのなら、彼女は何かを失わなければならなかった。今回は数分間、言葉がまとまらなくなっただけだが、昔はもっと大きな代償があった。椿はそれを忘れてはいなかった。

「……ごめんなさい」椿は息を吐いた。言い訳めいた言葉を並べる代わりに、彼女は椿のくち