小さな出版社で雨宿りの常連客は恋より先に自分を許す 第1話「序章」
雨の午後は、町を音で切り取る。軒先を叩く規則正しいリズム、車のワイパーが描く銀の軌跡、遠くで誰かが落とした会話の欠片──そのすべてが、傘の屋根の下で複雑に溶け合っていく。雨宮椿は肩をすぼめ、濡れた長い髪を右手でかきあげながら、小さな看板を目指した。「雨待ち舎」。木製の引き戸に雨粒が踊り、擦り切れた活版の版木が店先に置かれている。扉を押すと、古い紙とインクの匂いがひとつになって彼女を包んだ。
雨の午後は、町を音で切り取る。軒先を叩く規則正しいリズム、車のワイパーが描く銀の軌跡、遠くで誰かが落とした会話の欠片──そのすべてが、傘の屋根の下で複雑に溶け合っていく。雨宮椿は肩をすぼめ、濡れた長い髪を右手でかきあげながら、小さな看板を目指した。「雨待ち舎」。木製の引き戸に雨粒が踊り、擦り切れた活版の版木が店先に置かれている。扉を押すと、古い紙とインクの匂いがひとつになって彼女を包んだ。
「遅かったな、椿。」
編集長の藤代が、いつもの革張りの椅子で半分身を乗り出して言う。彼の左手にはスマートフォン。外の世界は既に喧噪に染まりきっているらしく、藤代の画面には赤い丸が幾つも膨らんでいる。ドロップレットのように浮かぶ通知は、町の評判という名の小さな石を雨上がりの池に投げ続けた。
「今日も雨ですか」と椿は薄く笑いながら、コートの裾を払った。足元の床板が軋んだ。店の奥では、若手のデザイナーが活版印刷機の上で紙と向き合っていた。小さな出版社には常に何かを押し出す音がある。ページをめくる音、鉛の活字が金属音を立てる音、誰かが呟く声。外からはツイートが鱗のように降り注いでいるのが分かる。どうやら「恋を消費する大衆」の批判が、この出版社の最近の刊行物にまで向かってきているらしい。
藤代はスマホを見せるように差し出す。画面には見出しが並び、短く断定的な言葉が躍っていた。「〈作家Xの恋愛は売名だ〉」「〈小さな出版社が煽った〉」。椿の胸の奥に、針のような違和感が刺さる。世間の目はいつもいつでも簡単に物語を切り取って評価する。恋を喰いものにするか、愛を庇護するかなど、赤と白に分けるように単純化してしまう。
「噂は噂、でも売上は事実だ」と藤代は短く言った。「広告主が揺れてる。書店の返品も増えてる。あの作家の連載、読者は大事にしてくれてるが、炎上が本棚を押している。うちの規模じゃ、ひとつの嵐で傾きかねない」
椿は黙って頷いた。口を開けば言い訳になる。黙っていれば、また自分を責める材料が溜まる。彼女がここに来るのは、雨宿りだけが理由ではない。体の中に小さな欠落があって、それを埋めるためにここへ来る。自分を許すこと。恋より先に、自分の過ちやだらしなさを受け入れること。それが今の彼女の目的であり、同時に恐怖でもあった。
「椿、ちょっと手伝ってくれ」と藤代が言った。「短いパンフレットを作る。作家本人と我々の対話を簡潔に形にして、発売延期の理由と今後の姿勢を示す。それと──お前のことを頼みたいんだ」
藤代の目は、薄い眼鏡の向こうで真剣だった。椿はその視線を避けた。彼女がここ数年、人知れず続けてきたことを藤代は知っている。誰にも言わずに紙の端に指を押し当て、二人で作ったものにだけ残る「痕跡」を探ること。痕跡とは、共同で作業した物の表面にだけ現れる微かな変化のことだった。単に字を読んだり、顔を覗いたりするのではなく、同じ瞬間に同じ紙に触れ、互いの手の温度や動線を重ねたときだけ現れる。そこに込められた感情の痕は、言葉よりも曖昧で確度が低かったが、時に言い逃れのできない証しとなった。
「やるか?」藤代の声に、雨音が重なる。
椿は一度息を吐いた。もし彼女の能力を使えば、作家と出版社の共同作業が残す痕跡を確かめることができるかもしれない。しかし、彼女は自分のルールを知っている。痕跡は万能でない。決めつければ消え、急げば壊れる。過去にそれで痛い目に遭った。思い出すと、胸の奥で金属が鳴るように痛んだ。
数年前、椿は誰かに惹かれていた。言葉にしてしまえばそれは恋だろう。ある夜、彼女はその人と手分けして小さな装丁を作った。二人でインクを擦り、紙を折り、最後に版を組み直した。そのとき、少しだが確かに何かが紙に残った。微かな条線、普通の印刷とは違う、指紋のような模様。椿はそれを見て、相手の気持ちを確かめようとした。たった一言で終わらせるつもりで「好きだ」と決めつけた瞬間、その模様はするりと消えた。インクは滲み、紙は波打ち、装丁は崩れた。相手は怒り、彼らの間に入っていたものは音を立てて割れた。椿は自分の行為が相手の信頼を壊したと知り、それをずっと赦せなかった。
机の上の紙を指先で撫でると、乾いたざらつきが伝わってくる。彼女は藤代の顔を見た。藤代はため息をついて、奥の作業台を指差した。「森岡、来てる。彼と作家が明日ここで会う。共同で小冊子を作るつもりだ。お前にはその時、痕跡の確認を頼みたい。だが──急がないでくれ。時間をかけてやるんだ」
「急がせるなって、私にだけ?」椿は問い返す。外の世界は急かすのに。
「お前のやり方は、ここでは最大の武器でもあり最大のリスクだ」と藤代は静かに言う。「噂に乗って誰かを断罪するのは簡単だ。だが我々は人を断罪して金を稼ぐための出版社じゃない。だとしたら、真摯に共同制作を行うしかない。お前が見える痕跡は、そのときだけのものだ。使い方を間違えば、僕ら自身が壊れる」
椿の掌がほんの少し濡れた。彼女は自分が持つ力を「武器」と呼ばれるのをいつも嫌っていた。誰かの気持ちを確かめるために、道具めいた使い方をすれば、結局は自分を許せなくなるだけだ。彼女はいつも、自分を許すことを目標にしていた。恋より先に自分を許す。誰かの心を暴いたり、安心の代わりに安易な確定を得たりしないこと。それが彼女の決めた幾つかの掟のひとつだった。
そのとき、奥の作業台から紙を運ぶ足音がした。若い男、森岡が顔を出す。彼は額にインクの点をつけ、頬には眠気の残る赤みがあった。手に抱えた封筒には、作家からの原稿と、短い手紙が入っている。森岡の顔が見るからに疲れていて、それが椿の胸を押した。
「彼、来るって本当ですか?」森岡が訊いた。
「来る。明日の午後、短時間だけどここで一緒に小冊子を作る」と藤代。「椿、最初の校正を手伝ってくれ。できれば、紙を詰めるところまで一度やってみてくれないか?」
椿は封筒を受け取った。紙の端を見るだけで、ささやかな緊張が走る。封筒の裏には鉛筆で小さく「ごめんなさい」と走り書きがされている。字は揺れていて、それだけで痕跡の予感がした。だが椿は躊躇した。もし彼女が急いで結論づければ、その「ごめんなさい」は何の意味も残さない。もし彼女が相手の代わりに答えを出せば、共同作業の痕跡は消える。代わりに、また誰かを傷つけるかもしれない。
「もう一つだけ確認したいんだ」藤代が付け足す。「お前が見るものは、あくまで物の痕跡だ。人の心を聞くのではない。それをはっきり読めると言い切るのはお前の負担になる。分かってるな?」
椿は瞳を細め、ゆっくりと頷いた。紙を指先で撫でると、ざらつきの中に微かな滑りを感じた。まるで誰かの呼吸がページの中を通り抜けたように、そこには曖昧な温度が残っている。彼女の腹の底がひとつ、動いた。自分を許すための作業が、いつのまにか他人のための作業へと置き換わりかけていることを、自分は知っていた。
外でスマートフォンの通知が一斉に震え、店の窓をいくつかの光が一瞬照らした。藤代は封筒をテーブルの中央に置き、椿に向かって静かに言った。「まずは校正だ。時間をかけて、森岡と一緒に活版で表紙を組む。二人の手でゆっくり