小さな出版社で雨宿りの常連客は恋より先に自分を許す 第3話「第2章」
雨は細く、倉庫の窓に音を刻み続けていた。雨待ち舎の奥にある小さな作業机で、椿は震える指先を紙の端に触れさせた。古い活版の匂いと、長年積もった紙粉の甘さが鼻を突く。手元の原稿は、二人の名前が表紙に寄り添うように書かれていた――著者の「新城」と、装丁を手がけた「深町」。誰もがひと目で分かるほどに手垢と訂正の跡がいっぱいの一冊だ。
雨は細く、倉庫の窓に音を刻み続けていた。雨待ち舎の奥にある小さな作業机で、椿は震える指先を紙の端に触れさせた。古い活版の匂いと、長年積もった紙粉の甘さが鼻を突く。手元の原稿は、二人の名前が表紙に寄り添うように書かれていた――著者の「新城」と、装丁を手がけた「深町」。誰もがひと目で分かるほどに手垢と訂正の跡がいっぱいの一冊だ。
スマートフォンの通知が画面の隅で跳ねる。赤い数字が三つ、四つと増えていく。近所の書評サイトの記事が、雨待ち舎の在庫と売上をあげつらっていた。見出しは無遠慮で、字面だけでは済まない匂いがあった。クリック数、いいね、保存。数字は冷たく、だが同時に刺さるように生々しい。
「椿さん」と背後から呼ぶ声。社長の中原だった。眼鏡の端に水滴が光っている。彼の表情は曇り、いつにも増して小さく見えた。編集の緒方みのりは無理に笑って、紙束を抱えたまま入口に立っている。新人の里井はスマホを握りしめ、眉間にひびが入っていた。
「これ、どうするんですか」みのりが訊く。声は少し高い。彼女の視線は中原の顔から椿の方へと移り、まるで最後の望みを託すように止まった。
椿は手を紙から離し、掌の内の残像を確かめた。新城と深町が一緒に作ったものには、いつも何かが残る。インクの濃淡では測れない脈動。小さな躊躇や、夜更けの笑い声、二人がこっそり交わした言葉の切れ端。だがそれは、本音をそのまま教えてくれる魔法ではない。彼女はそれを知っているから、決めつけることが怖かった。
「この原稿には、二人で作った痕跡がある」椿は低く言った。「でも、はっきりした『答え』はない。共有された時間の匂いがするだけ。それをこちらが一言で説明すると――消えることがある」
里井が噎せたように笑う。「何それ、ドラマかよ。そんな都合のいい力があったら出版社なんて楽勝じゃないですか」
中原は腕組みをした。紙の山を見てから、スマホの数字に視線を戻す。彼の手に力が入るのが分かる。ここ数ヶ月で在庫は圧縮され、取引先の条件は厳しくなっていた。雨待ち舎は小さい。小さいゆえに、非常に折れやすい。
「うちを潰さないでくれよ」中原はぽつりと言った。「噂話で一夜で立て直せるなら苦労はしない。だが何か使える材料があるなら……。作者の私生活なんて暴くつもりはない。だけど、読者の関心を引く何かが欲しい」
みのりは両手を小さく握った。「作り手の側に選択肢を残す記事にしたいです。噂話じゃなくて、制作の〈過程〉を見せる企画。だけど、読者を惹きつけるには、やっぱり──」言葉を切った。彼女の目が濡れていた。それは屈託でも嫉妬でもなく、追い立てられる恐れだ。
椿は再び紙に手を置いた。冷たい紙の感触が指先を滑り、小さな振動が掌に伝わる。深町の繊細な線の勢い、新城の乱暴な訂正の跡。二人で交互にページをめくった夜のリズムが、かすかに残っている。そのリズムは彼女に言葉を喚起しない。だが、どういう呼吸でその夜があったかは分かる。
「彼らは互いを尊重して作ってきた」椿はそう言った。「でも、その尊重を商品化したら壊れる。共同で作る時間そのものが、痕跡を宿しているから」
里井は鼻で笑った。画面を指で叩き、数値を拡大する。「そんな理想論で売れます? 今の流れは速いんですよ。トレンド、バイラル、短時間での話題作り。こっちのやり方で一気に売れば、在庫も出ていく」
「じゃあ、それでやりますか」みのりが低く言う。「作り手を犠牲にしてでも、か?」
部屋の空気が張り詰める。雨の音が大きくなり、窓ガラスに雨滴が糸をひく。誰も動かなかった。椿の手の内で、原稿の温度がふっと冷えたように感じられた。
「やめてください」突然、深い声が入ってきた。決して怒鳴りではない、でも強い。入り口に立っていたのは、新城本人だった。雨帽子から滴が落ち、彼の襟が濡れている。新城はまるで台風の中心のように静かだった。
「持って来たんです。ここで出したい」彼は原稿を差し出した。だがそれと同時に、小さな冊子が彼の手から落ちた。手製のざらざらした紙で作ったジン。深町のイニシャルが表紙に押されている。二人で折り、切り、綴じた明らかに共同の手仕事だった。
椿は反射的にジンを拾い上げた。掌に込められた温度は、新城の懇願と深町の頑なさを同時に宿していた。紙の端に、二人が一緒に笑った夜の余韻が残る。だがそれは不安定なものでもあった。急かすような外圧を感知した瞬間、微かな亀裂が走る気配がした。
中原が眉をひそめる。「何がしたいんだ、持って来てあるなら話してくれ」
新城の目が深く揺れた。「内輪で出すだけにさせてくれ。大々的なプロモーションは要らない。でも、うちで出すなら──制作の段階を、作り手の手触りを失いたくないんです」
みのりが顔をあげた。「でも、うちの現状を考えたら、ゼロで出すわけにはいかない。どれくらいの規模で出せる?」
新城は首を振った。「小さくやりたい。それだけです」
里井の指先が震え、スマホのスクリーンが光った。数字がまた跳ねる。彼は大きく息を吸って言った。「小さく、じゃあ、売れる見込み薄いっす。うち、資金がないんです。だから……まあ、攻めるしかないですよね」
椿はジンを見つめた。二人の共同作業には確かに痕跡があった。だが彼女の中で、何かが警鐘を鳴らした。もし彼らの手から生まれたものをこちらが〈解釈〉して外に出すのなら、解釈はそれを変質させる。痕跡は商品になった瞬間、別の力に取り込まれ、もとの形を失う。
「お願いがある」新城が椿をまっすぐ見た。「椿さん、あなたにだけ頼める気がしたんです。このジンの声を、勝手に決めつけないで聞いてほしい。『恋している』とか『否定している』ってひとことでまとめないで。どうか、じっくりと、二人のやり方で一緒に出すかどうか、相談してもらえますか」
椿の胸に冷たい何かが落ちた。それは責任の重さだった。彼は雨待ち舎を救いたいのだろうが、同時に自分たちの創作を食い物にされることを恐れている。深町は入口の陰に立ち、顔を見せない。彼女の肩が小刻みに震えているのが見える。
「なるべく、外には出さない形で、小さく、でもきちんと流通させたい」中原が言った。社長の声はいつになく柔らかい。あきらめと希望が混じっている。「最小ロットで、地元の書店に回す。ウチの顧客も巻き込む。迷惑をかけたくないんだ、作り手に」
里井が吐き捨てるように言った。「そんな悠長なことやってたら……サイトにまた叩かれますよ。ここだけの話なんて守れない」
みのりは椿の横に来て、そっと肩に手を置いた。「椿さん、私たち、どうすればいいんだろう。数字がある限り、選択肢は狭まる。それでも、作り手の意思を守るべきだって思うんです」
椿はジンの表紙にそっと唇を寄せた。紙の繊維に触れると、二人の呼吸が一瞬だけ、明瞭になる。それは温度でも言葉でもない。共同で作った時間の“間”だ。それを誰かが「これが恋だ」と名付けた瞬間、間は綻びる。名付けは暴力だ、と彼女は思った。
「分かりました」椿は言った。「ただし、一つだけ条件があります。私に頼むなら、外向けの解釈を先に作ることはしないでください。外に出すとしたら、作り手の同意があってから