離島の診療所で離婚相談を受ける新人は故郷に帰る理由を探す 第15話「第13章」
潮の匂いが窓の桟にまとわりついている。診療所の待合室は午後の陽を受けて黄ばんだ古いポスターを透かし、ガラス越しに波がじっとりと光った。蒼はカウンターの縁に肘をつき、紙コップの冷めたコーヒーを見つめていた。眠気でも怠惰でもない。手の先が、いつもより乾いているのがわかる。
潮の匂いが窓の桟にまとわりついている。診療所の待合室は午後の陽を受けて黄ばんだ古いポスターを透かし、ガラス越しに波がじっとりと光った。蒼はカウンターの縁に肘をつき、紙コップの冷めたコーヒーを見つめていた。眠気でも怠惰でもない。手の先が、いつもより乾いているのがわかる。
「蒼君、今日の予約は二組ね」
受付の綾が背後で小声で言った。綾の声にはいつも、島で続いてきた秩序を守るような疲労がある。蒼は無言で頷き、ファイルの山に目を落とした時、ドアの開く音がした。足音が二つ、靴底が濡れている。
入ってきたのは結(ゆい)と隆(たかし)だった。どちらも島でよく見る顔だ。結の肩にはまだ潮が乾かないような匂いが残り、隆は腕に古い木のオール(漕ぎ手の櫂)を抱えていた。オールは端が割れ、テープでぐるぐる巻きにされている。子どもの落書きのような小さな傷が、刃のように白く食い込んでいた。
「すみません、予約してた結です。離婚の相談で…」結の声は平静を装っていたが、唇の震えがそれを裏切る。隆は言葉を付け足す代わりに、オールを診療所のテーブルにそっと置いた。木が低くきしんだ。
蒼は席を立ち、手袋をしないままオールに触れた。表面は潮風で荒れていて、指先にざらつきが残る。いつもの儀式のように、自分の能力を使う前に、蒼は確かめるように息を吸った。共同で作ったものだけに痕跡が残る——彼の術はそう告げるが、実際にそれを呼び出すには、二人が同じ行為をしていることが必要だった。
「これ、僕に見せてもらっていいですか」蒼は言葉を選び、できるだけ中立的に言った。だが内心は動いていた。役に立ちたいという焦りが、彼の判断を微妙に歪める。焦りは彼にとって最も危うい薬だ。蒼はそれをよく知っていたつもりだったが、手は先走った。
彼はオールをひとりで撫で回した。構造を確認するためだと言い訳をしながら、掌を滑らせる。だが何も見えなかった。木目はただの木目で、感触の中に誰かの小さな笑いも、誓いも宿ってはいない。蒼の胸に結果の空白が刺さる。
「……蒼君、どうだった?」結が尋ねる。目の端で、彼女の指先がオールの傷を追っているのが見えた。
「まだ……二人で、修理するところから始めませんか」蒼は即座に提案した。自分の無力さを隠すように、彼は言葉を急がせた。「共同作業をすることで、痕跡が浮かぶはずです。急いで決めるより、確かめてからの方が——」
その"確かめる"という言葉が、彼らの間に微かな針を落とした。隆が眉をひそめる。結の唇が一瞬ひきつる。診療所の空気が少し固くなる。
「急ぐよりって…でも、もう役所から通知が来てるんだよ」隆が言った。声に怒りはない。どこか諦めと重さが混じっている。「住民登録の件で、明後日までにどちらが家を継ぐか決めないと、市が一方的に手続きを始めるらしい。あの程度は役場の都合でどうにでもなるってさ。俺は仕事があるから…」
結の目が潤んだ。彼女はオールの柄を握り直すと、ぐっと力を入れた。二人の指先が触れ、古い絆が揺れるのが見えた。蒼は身体の中で、何かが反応するのを感じた。共同の手の動きが、彼の感覚を呼び覚ますはずだった。
「じゃあ、やりましょう」蒼は言った。だが先ほどとは違う静けさを意識して無理に笑った。「二人で、一緒に直してみて。接着して、削って、また塗る。作業の最中に出るものを見ます。決めつけはしません。蒼はただ、見るだけです」
結と隆は顔を見合わせ、そしてゆっくりと頷いた。隆がオールの割れた部分を持ち上げ、結がテープを剥がし始める。二人の動きはぎこちなく、それでも過去のリズムを探り合うように進む。蒼は手元に工具箱を置き、必要に応じて道具を差し出した。彼は支配しようとはしなかった。目は真剣に、しかし何かを押し付けないように努めた。
削りの音、布ヤスリが木を撫でる小さな擦過音、時折二人が交わす短い会話。木の粉が光の中で舞い、蒼の指先にやわらかな湿り気が付着する。彼の内側で、かすかな映像のようなものがよぎった。炎祭りの夜、子どもがオールで小舟を漕ぐ影、結が笑って髪を振る、隆がその後ろで手を振る。映像は言葉ではない。匂いだったり、温度だったり、遠い打楽器のような拍子だったりする。断片が、オールの木目に沿ってほのかに残っている。
だが一瞬、蒼は自分の頭の中で勝手に語り始めた。「これは家族のためのものだった。どちらかが出ていくべきではない」──そういう結論を、無意識に補強してしまったのだ。彼の内なる声は優しかった。だがそれは決めつけだ。決めつけるほど、術は見えなくなる。
蒼が心の中で言い切った瞬間、光景がぼやけた。温度が下がるような感覚が胸を遮り、蒼は思考の端が削られるのを感じた。結と隆の手の動きがぎこちなくなる。彼らの息遣いが合わない。削りのリズムが止まり、二人は顔を上げる。
「何か……言った?」結の声は細い。隆は蒼を睨んだわけではないが、冷たいものが含まれていた。
「ごめん、俺がつい」蒼は頭を振る。言葉を取り繕おうとしたが、祭りの映像を無理に線でつなげたことが裏目に出た。結の目に一瞬、怒りが灯る。「私たち、ここで決めなきゃいけない事情があるんです。外野の人にどうこう言われたくない」
隆がオールを抱え直すと、テーブルから立ち上がった。二人は互いに冷たく背を向け、診療所のドアに向かって歩き出した。蒼は体中から力が抜けるのを感じ、手首に震えが走った。視界の片隅が白くなる。彼はふと、昨夜の夢の断片を思い出すように、自分の故郷の家の階段を下りる感触を忘れていることに気づいた。記憶の端が、作業の代償として削られていく。これが彼の術の代償だ。誰かの気持ちに深く触れた分だけ、自分の中の何かが薄くなる。
「待ってください!」蒼は立ち上がり、声を張った。しかし二人は既に診療所の外に出て行った。ドアが閉まる前、結が振り返る。
「私たち、明日、市役所に行きます。あなたの"見る力"を使うべきかは別問題です。私たちのことは自分たちで決めます」その声に非難はなかった。ただ、蒼に委ねられないと言う線が引かれていた。
ドアが閉まり、受話器の上に海の余韻だけが残った。蒼は膝に手をつき、冷たい床の感触を確かめた。胸の中の空白が少し広がる。綾が静かに近づいてきて、蒼の隣に座った。
「無理に関わらない方がいい時もある」綾は柔らかく言った。だが彼女の言葉は慰めというより確認だった。「島の決まりごとが、もう動き始めてる。市からの通達、あれは強い。放っておくと、一方的に片方の権利が消えることもある」
蒼は口を開いた。言葉は喉に詰まり、砂のようだった。「それって、どういうことですか?」
綾がバッグから一枚の紙を取り出し、机の上に置いた。島の行政の見慣れた封筒。印字された文字が、冷たく告げる。『居住権の暫定処置に関する通知』。明快な罫線と数字と、署名欄。期限は「48時間」。
蒼の視線は紙の上を滑った。数字が意味を帯びて重く横たわる。結と隆が明日、市役所へ行く——では済まない。48時間以内にどちらかが「居住を継ぐ」と明確に登録しなければ、外部の手続きが優先され、家屋は競売もしくは第三者の管理に委ねられてしまう。二人の選択肢は、時間に追われて消え