離島の診療所で離婚相談を受ける新人は故郷に帰る理由を探す 第14話「第一部幕間」
潮風が診療所の背を撫でる。波の音に混じって、遠くで誰かの笑い声が途切れる。夏川蒼は受付の小さな木箱を掌に載せたまま、窓の外の漁港を見つめていた。木箱の表面には浅い擦り傷が幾筋も入り、指先がそこをなぞるとほんの僅かに塩の匂いと古い弁当の油の残り香が立ち上った。
潮風が診療所の背を撫でる。波の音に混じって、遠くで誰かの笑い声が途切れる。夏川蒼は受付の小さな木箱を掌に載せたまま、窓の外の漁港を見つめていた。木箱の表面には浅い擦り傷が幾筋も入り、指先がそこをなぞるとほんの僅かに塩の匂いと古い弁当の油の残り香が立ち上った。
「また触ってるのか、蒼くん」
看護師の石川真理が背後から声をかけ、コーヒーの入った紙コップを差し出す。真理の髪には潮がはねた白い糸が混ざっていて、彼女の着衣には朝の検温の跡が残っている。蒼は振り返り、木箱を机にそっと置いた。
「あ、ありがとう。眠くて……じゃない、手が冷えてて」
彼の言い訳は、真理にはすぐ見透かされた。真理は小さく笑って受け取ったコップの縁をつまんだ。診療所は午後の静けさの中でひんやりとしていた。窓際に積まれたファイル、古い胸像のレントゲン写真、午後の光が床に伸びる。海風が薄いカーテンを揺らし、カーテンが壁に当たるたびに紙の地図がふわりと震えた。
先ほど若い夫婦が帰っていった。玄関先で、二人はお互いの顔を見ずに小さな会釈を交わした。弁当箱を通して蒼が見たものは、ふわりと薄い光の層のように木箱の内側に残っていた。二人で蓋を押し合って笑った日、被せた布巾に残された煮物の匂い、次第に数が減っていく休日の写真。だが、それらは確定的な「答え」ではなかった。片方の手が深く寄せられた瞬間、もう片方の手が離れていく曖昧な折れ線が見えるだけだ。
蒼は能力を使うとき、いつも自分に言い聞かせる。決めつけてはいけない。読み取るのは痕跡の“葉書”だけ。差出人や朗読はしてはいけない。自分が決めるほど景色は濁る。そうでなければ、その痕跡は壊れる。
「どうだった?」院長の古川誠が診察室から出てきて、蒼の手元の木箱に視線を落とした。古川は診療所の扉を開けたまま、外の世界の光を診察室の中に引き込む。白いシャツの袖口にインクの染みが一つある。彼の視線はやわらかいが、現実的だ。
「特に問題はないと思います。二人とも、今すぐ怒鳴り合うような必要はないって……その、伝えました」
蒼は言葉を探しながら、真理の方をちらりと見る。真理は顎に小さな皺を寄せ、腕を組んでいた。古川は黙って頷く。
「いい判断だった。だが、この島じゃ噂は刃物よりも鋭い。気をつけろ」
古川がそう言うと、真理がため息をついた。診療所の外からは、夏の午後の漁具を扱う音、子供たちのはしゃぎ声、遠くで汽笛が一つ鳴った。
午後の巡回が終わった頃、老夫婦が診療所の古い自動ドアをゆっくり押して入ってきた。田中春夫と田中慶子。手には木のかけら——小さな船の舵の一部だと言った。舵の角は削れ、長年の海が刻んだ白い筋が残る。
「これを見てくれんかね。俺ら二人で直してきた船のな、ここの——ここが割れちまったんだ」
春夫の手が震える。慶子は手拭いで目元を押さえ、赤い指先がそっと舵を持ち替えた。二人の間にある沈黙は、診療所の空気に重くのしかかる。蒼は立ち上がり、舵のかけらを受け取った。木目に手を触れると、冷たさが掌を通じて伝わる。だが彼が見たのは、ただの冷たい木目ではなかった。
舵を共同で削った夜、二人は古い歌を口ずさんでいた。慶子が言葉を噛むたびに春夫が補い、指先が互いの傷に触れた跡。修理の合間に差し出されたおにぎり、塩と醤油の混じった素朴な味。けれどある折り、春夫が夜遅くまで港で飲んで帰った日の、慶子の一回り冷えた背中も見える。熱を持った会話と、冷えた布団の隙間が、同じ木片に重なっている。
「誰が悪いか、って言ってほしいのかね」蒼は穏やかに言葉を選んだ。自分の内側で、脳の奥の一部が薄く振動するのを感じる。能力を使うたびに、その振動は彼の夢にまで波及した。前夜、蒼は夢を断片的に失っていた。夜中に目覚めても色がない。幼いころに見たはずの凧の色すら思い出せない。
慶子が鼻を鳴らし、低く小さく笑った。
「そりゃあ、分かってんだよ。でも、せめて誰かに言ってもらいたい。俺の耳だけじゃ、もう真実ってやつが分かりゃあせん」
春夫が舵を持ち替え、目を伏せた。そこには深い疲労と、どうにも取り繕えない諦めが混ざっている。蒼は、決めつけないと誓っていた。だが、診療所の壁に貼られた「相談はここで」という紙が彼の胸を突く。誰かの選択を助けるための場だ。判断を促す場面で彼が曖昧に立ち去れば、二人は誰に相談すればよいのかを見失う。
「——私は、どちらも“悪い”とは言えないと思います。ただ、二人が一緒に作ってきたものの中には、直したい場所と壊れていった場所が混ざっている。それを、一緒に確認して、また直す形を探すのが一番現実的です」
蒼の声は震えていなかった。だが手のひらには熱が集まり、木の目がほんのわずかに白く瞬いた。彼は言葉を与えたつもりだった。だが、その「現実的」という言葉に、春夫は鋭く反応した。
「それじゃあ、誰も悪くないって言ってるように聞こえるじゃねえか! 俺は謝っただろうが!」
慶子の顔から一瞬の笑みが消え、二人の距離がぐっと開く。舵の断片がかすかに震え、木目に走っていた光の線が撚り合わさるようにして乱れる。蒼は胸の奥が冷たくなるのを感じた。何かが壊れ始めている。
「蒼くん、落ち着け」古川が診察室のドアを押し開け、低い声で二人を制した。「ここでは言い争いを続けても仕方ない。詳細は後で聞く。今はまず怪我や体調、そういうことだ」
だが二人の間の空気は、もう一度締めつけられるように凝り固まった。春夫が舵を床に落とし、木片の一端が欠けて小さな木屑が床に散った。慶子がそれを見て、顔をしかめ、指先で一つを弾いた。木屑は塩の結晶のように光り、蒼の視界がチラつく。
彼は自分の誓いを一つ破ったと直感した。決定の言葉を与えた瞬間、痕跡は抵抗を失った。共同制作物に残された記憶は、当人たちの語りによって形を得ていくものだ。第三者が「これだ」と結論づけるとき、共同性は一方的な解釈に押しつぶされ、痕跡は霧散する。さらに恐ろしいのは、その代償が必ず自分に跳ね返ってくることだ。
蒼は目の奥が熱くなるのを感じ、頭が重くなった。口の中から昔の甘いものの味がするはずなのに、それが何だったか思い出せない。夢から引き剥がされたように、夜に見たはずの色が薄れて消えかけている。石川がそっと腕を回し、彼を診察室の椅子に座らせた。
「大丈夫か?」石川の声は近くて暖かい。蒼は頷いた。だがその頷きは、自分の意思で取ったものではないとどこかで気づいていた。
晩になって診療所のドアから一台の車が滑り込んだ。市の調停担当、鷹野玲子が公用の封筒を胸にしていた。彼女はスーツの襟に小さな白い花のピンをつけ、脚を揃えて立っている。顔は柔らかいが、手には書類の束を抱えている。蒼は昔、資料室の奥で見つけた市の白書の活字の固さを思い出した。
「お邪魔します。先日はありがとうございました、蒼さん。古川先生、ちょっとお時間をいただけますか?」
古川が席を立ち、診察室へと向かった。蒼は彼女の手に包まれた封筒の端に視線を落とした。封筒には「島内調査に関する件」と印刷された便箋が見えた。鷹野は椅子に腰かけると、慎重に封筒を開けた。
「市は、離婚件数の増加を受