海辺の放送部で期限つきの恋人役は別々の未来を応援する 第2話「第1章」
窓の向こう、海がゆっくりと銀色に揺れていた。朝日が波の稜線をなぞるたびに、放送部の古いガラスに細かい光の筋が走る。プラスチックと古びた木の匂い、テープのほのかな油の匂いが混ざった部室の空気は、午後の教室とは違う時間を抱えていた。
窓の向こう、海がゆっくりと銀色に揺れていた。朝日が波の稜線をなぞるたびに、放送部の古いガラスに細かい光の筋が走る。プラスチックと古びた木の匂い、テープのほのかな油の匂いが混ざった部室の空気は、午後の教室とは違う時間を抱えていた。
「遅かったね、湊。」
部室の中央で首をかしげて立っていたのは川辺咲良。放送部の部長らしく、眼鏡の奥で半分笑って半分計算している顔だ。厚めのスケジュール帳を片手に、もう片方の手で窓の外をちらりと見やる。制服のネクタイはきちんと結んでいて、声には教師に見られているような落ち着きがある。
「すみません、寝坊しました。朝日がきれいで——」
湊はうまく言葉を切って、肩にかけたカバンを床に下ろす。ポケットから出したスマホは通知でぶるりと震えていたが、無視するように仕舞った。ここが自分の居場所になってほしい。そう願いながらも、まだ馴染めない気持ちが胸の奥でひりつく。
「じゃあ、今日の打ち合わせね。文化祭のテーマ、どうする?」咲良が手帳を開き、湊の方に向ける。紙には既にいくつかの案が書き込まれていた。校舎の屋上で電波を送った先に届く希望みたいな文字たちだ。
「未来祭はどうでしょう。放送で"未来"を見せるっていうのは、意外と見栄えがすると思います」湊は言葉を探すように小さく笑った。「ドキュメント、ラジオドラマ、街の人へのインタビュー──」
「未来祭、いいね」咲良の笑顔がぱっと広がる。「"未来"って言葉は、期待も不安も全部ひっくるめて映える。放送部っぽいテーマだし、何より湊の笑顔がそれっぽいよ」
湊の頰が熱くなる。咲良はすぐに今後のスケジュールや担当を割り振り始めた。カメラ係、編集、インタビュー班……話はすいすい進む。だが、そのとき、部屋のドアが静かに開いた。
「いた、いたー。」
扉の影から現れたのは、有村白雪――幼なじみで、白く透き通るような笑顔を持つ少女だった。肩までの髪は風に少し乱れていて、右手には小さな袋。白雪が部室に入ると、空気が少し軽くなるように感じられた。どこかの美術室から抜けて来たのか、指先には絵の具の跡がついている。
「あ、白雪。来てくれたんだ」咲良がすぐに椅子を引いた。
白雪は湊の顔を見て、目を細める。幼い頃に幾度も喧嘩した相手であり、またいつも一緒に海に行った相手でもある。だが今の彼女は違った。軽やかな決意のようなものがその目には宿っていた。
「文化祭のことで相談があって。お願いがあるんだけど、湊、手伝ってくれない?」
白雪の言葉は軽いが、耳に届いた瞬間に部室の空気が変わる。ふと、廊下で囁き合う声や、窓の外を見ている何人かの生徒の視線が湊たちに向いたのを感じた。放課後の校舎はいつもより好奇心で満ちている。
「何を?」咲良が眉を動かす。
白雪は袋から小さな古いカセットデッキを取り出した。表面には擦り傷があり、テープを入れる口にはひとつのカセットが半分見えている。デッキのスイッチは錆びつきかけた金属で、赤いRECランプは消えている。
「これを使って、文化祭で『二つの未来』っていう短いドキュメントを作りたいの。進学する未来と、海外に行って芸術を学ぶ未来。両方見せるために、"期限付きの恋人役"をしてほしいって、お願いしたいの。三ヶ月だけ、演じる相手が欲しいの」
湊は胸がしゃくりあげるように熱くなるのを感じた。白雪が三ヶ月後に海を渡る――そんな予感は、幼いころの読み合いから彼にとって既に半分正確な地図になっていた。だが彼はまだ言葉にできない。
「……ただの演技? 本気に見えるようにってこと?」咲良の声には冷静な計算が混じる。
「うん。本気に見える。だけど本当に恋をするってことじゃない。予定をはっきり見せたいから"期限"が必要なの」白雪が強く頷く。「湊なら、できると思った。昔みたいに私のこと、分かってくれるだろう?」
湊の喉が鳴る。幼い頃、白雪は彼の胸の内をことさらに当ててみせた。今でも彼は、いつでもそばにいるなら彼女のことを助けられると信じたい自分がいる。しかし、湊はただの観察者だけではない。彼には、人に残された「痕跡」を読むちょっと変わった能力がある。
「条件がある」湊は視線を落として、小さく言った。白雪はすぐに目を向ける。咲良も、手帳を閉じて二人を見比べる。
「……共同で作ったものにだけ、痕跡が残るんだ。僕はその痕跡を"読む"ことができる。だけど、いくつかルールがある」
湊はカセットデッキに手を伸ばす。冷たいプラスチックの感触が指先に伝わり、昔の旅先の匂いが蘇るような気がした。白雪が目を輝かせ、咲良は眉を寄せる。湊はゆっくりと説明を始める。
「まず、"共同"じゃないとダメだ。片方だけが作ったものには何も見えない。二人で紡がないと、痕跡は生まれない。二つ目は、僕が"これだ"って決めつけるほど見えなくなる。意味を先に固めちゃうと、痕跡は消える。あと、関係を急いで共同制作を壊すと、その作品自体が壊れることがある。たとえば、演出や台本で細かく決めすぎると、痕跡が反応しない。それが代償だ」
白雪が首を傾げる。「代償って?」
「読むと、体に負荷がくる。頭痛がしたり、数分だけ自分の記憶が曖昧になる。長くやると、そのぶん僕の"現在"も薄くなる気がするんだ。だから慎重に使わないと、君たちの選択を奪うことになる。僕はそれはしたくない」
言葉にした瞬間、湊は自分の言い方が脆いことに気づいた。自分の能力を"便利な道具"にしたくない。白雪の顔が真剣になる。
「奪いたくないって、どういうこと?」白雪の声は震えない。だが湊の胸には針が刺さるような重さが落ちた。
「痕跡を読めば、その作品に残った気持ちが見える。けどそれが"答え"じゃない。見えたものを根拠にして相手を動かすようなことは、絶対にしたくない。僕が見たから正しい、なんてことはない。君が選ぶのは、君自身であってほしい」
白雪はしばらく黙ってから、袋の中のカセットを指で回した。小さな紙のラベルには、慣れた字で「未来」と書かれている。目の奥にわずかな光が揺れて、彼女は笑った。
「大丈夫。私、自分のことは自分で決めるつもり。だけど、どっちの未来が"本当に私らしいか"っていうのは、外から見ただけじゃ分からない。湊の力って、もしかしたらその"らしさ"を見せるのに役立つかもしれない。私はそれを聞きたい。演技として見せるために、ほんの少し真実を混ぜてほしい」
咲良が手帳を胸に当て、二人を見比べる。彼女の目はまるで船をどこに繋ぐか決めかねている舵取りのようだった。
「では、条件を明確にしよう」咲良が口を開いた。「期限は文化祭まで。三ヶ月後、学校中がこれを見て、君の二つの未来のどちらかに拍手を送る。湊は使用を節制すること。自分の判断で相手の選択を左右しないこと。二人とも合意の上で共同制作をすること、それが守れないならこの企画は無し」
白雪が頷き、湊も肩を落として受け止める。三ヶ月。短くも、長くもない。白雪の目に見えるほどに決意が固まっている。だが放送部の窓の外では、すでに何人かの生徒が携帯で部室を覗き、窓越しに写真を撮っている。誰かが一言呟けば、それが噂になって身体を持ち始める。
「それ