海辺の放送部で期限つきの恋人役は別々の未来を応援する 第1話「序章」
屋上の柵越しに、海はじっと伸びていた。朝の光は銀色の鱗を作り、波がぶつかるたびに教室棟のガラスに跳ね返る。潮の匂いが鼻腔の奥をさらい、風がスピーカーのネットを揺らした。古びたスピーカーからは試験音が一拍ごとに伸び、マイクスタンドが風でカタカタと小さく鳴る。放送部の屋上はいつもより薄く、どこか儚い。
屋上の柵越しに、海はじっと伸びていた。朝の光は銀色の鱗を作り、波がぶつかるたびに教室棟のガラスに跳ね返る。潮の匂いが鼻腔の奥をさらい、風がスピーカーのネットを揺らした。古びたスピーカーからは試験音が一拍ごとに伸び、マイクスタンドが風でカタカタと小さく鳴る。放送部の屋上はいつもより薄く、どこか儚い。
「ピー――、……よし、入ってる。湊、ちょっと下げてみて」
声は結城海歌だった。細く硬質な声が朝の空気に溶ける。海歌は放送部の部長で、ギターを抱えていると大学のポスターみたいに見える。今日も屋上で、文化祭のライブ配信の音チェックをしていた。
潮野湊は、ケーブルに指を絡め直しながら笑った。「了解。高域はこれでいいかな」
指先に残るプラスチックの熱、長年使い込まれたミキサーのツマミのざらつき。湊は音を合わせるときの振動を肌で感じる。音は目に見えないが、共同で触った物には必ず、誰かの痕跡が残る。湊にはそれが見える——ただしその見え方は、いつだって不完全だった。
「今日のリハ、来客を入れての再現は無理かな。校長が五月蠅くてさ。視聴数が規定に達しなかったら部室取り上げるって、もう三回目の脅しよ」
海歌の指が弦に触れ、短いコードが屋上に鳴った。湊はその音の余韻と一緒に、小さな紙切れを取り出した。紙には放送部の告知用に湯気のような線で書かれたジングルの歌詞案。昨日、ふたりで思いついて書いたものだ。紙の端に海歌のインクと湊の指紋が混じっている。
湊は紙を撫で――視線の端に、ほんの薄い色彩が差した。作った者同士が触れ合った場所にだけ、湊の能力は痕跡を差し出す。痕跡は言葉ではなく、温度や手の震え、決意の硬さのようなものを示した。
「——ああ、やっぱり来てる」
湊は小さな独り言を零した。海歌の胸の内にある、放送部を残したいという焦り。彼女の音の立ち方はきっぱりしているが、紙に残る痕跡は、ライブの先にある別の出口を望む戸惑いも混ざっていた。海歌は音大のオーディションを控えている。彼女の笑い声が浮かぶたび、将来の栄光と今の部活動がわたり合う。
海歌は首をかしげて紙を覗き込む。「これ、なに?」
湊は視線をそらし、軽く笑ってごまかした。「ジングルの草案。もっとキャッチーにしたいなって」
「キャッチーね……湊、君、いつもそう打診ばっかりね」
隣でモニターをいじっていた田島蓮が顔を上げてきた。蓮はカメラ担当で、高校の中では珍しく朝に弱い。だが目の奥には獰猛な生存本能がひそんでいる。彼は放送部が消えることを、表向き以上に恐れていた。
「校長の脅しは本当だ。文化祭で配信の最大同時視聴が二千を切ったら、学校側が『活動実績不足』として動かすって。だから今回の目標は三千以上。大口がつけば、部は残る」
蓮の声は少し高ぶっていた。視聴数、評価、数字。放送部は外部の眼差しで生かされている。噂と評価が彼らの存在を左右する。湊はその言葉を聞きながら、能力の内側に冷たいものが走るのを感じた。自分の力は誰かの選択を奪うための道具ではない。けれど、外の世界は評価という名の刃を振るう。
「あのさ、今日は特別ゲストのテストもあるんだろ?」海歌が問いかける。彼女の手つきが少し緊張しているのが見てとれた。
「うん。昨日連絡来てね。出演依頼。ライブ配信のゲストとして、番組内でちょっと『特別企画』をやってみるって」湊は答えながら、ポケットの中でスマートフォンが震えたのを感じた。画面には見知らぬ番号からの着信通知と、短いメッセージのプレビューが出ている。
蓮が食いつくように身を乗り出した。「誰? 宣伝目的の枠取り?」
湊は画面を開き、メッセージを読む。送信者は企画会社の名前と、簡潔な依頼内容——「期限付き恋人役の出演依頼。文化祭当日に合わせた共演。好感度向上、SNS拡散に協力していただければ幸いです。出演料支払済み」。そして下に、依頼者の名前があった。
湊の胸の中で、なにかがつるりと落ちた。表示された名前は見覚えがあった。——結城海歌。
「な、なにこれ」海歌が声を裏返す。紙のジングルを握る手が少し強くなる。
「海歌が、依頼を出したわけじゃないだろ?」蓮が眉をひそめる。「誰かが海歌の名前で勝手に依頼したのか?」
湊の指はメッセージをスクロールしていった。差出人は外部の企画会社。海歌の連絡先がリストにあったというだけで、彼女が主導しているとは限らない。だが屋上に漂う空気は瞬間的に変わった。噂は、指一本で広がる。
「事情を説明する」海歌の声が低くなる。「私、そんなこと頼んでない。オーディションの話だって、まだ何も決めてないのに」
湊は紙をそっと海歌の前に差し出した。共同で作ったものは、彼の能力の対象だ。紙に残った彼女の痕跡を見れば、海歌の本音の輪郭が掴めるはずだ。だが、目の前の海歌は、眼差しを泳がせていた。焦りも怒りも混じっている。その混ざり具合が、去年のある夜を湧き上がらせる。
湊は呼吸を整え、ほんの一瞬だけ先に行動を決めた。紙をひと撫でする。痕跡が色づく——彼女は放送部を守りたい。だが、同時に自分の声をどこか別の場所で鳴らしたいという欲もある。それは濃い黒ではなく、潮の底に眠る蛍光のように、手触りは弱い。
そのとき、蓮が苛立ちも隠さずに言った。「だったらさ、利用すりゃいいじゃん。『期限付き恋人』って話題性あるし、視聴数稼げるだろ。海歌がやるってことにして、それで部を救う。海歌だって仕方なくやるフリしてくれればさ」
湊は頭の中で赤い文字がはねた。急いで結論を決めること——他人の痕跡を勝手に確定して、選択を代行すること。彼にはそれだけはできない。能力のルールはいつも、行為として現れる。決めつけるように痕跡を読むと、その痕跡は消える。人の選択を奪うほど追い詰めれば、共同で作るものが壊れる。湊は過去に一度、それをやってしまったことがある。その代償はまだ胸に刺さっている。
「蓮、待てよ。そう簡単に口にするな」海歌が鋭く返す。「私を商品にしないで。私だって自分の声で歩きたいのに、そんなふうに扱われるのは嫌よ」
屋上の隅で、風が二人の声をさらっていく。海歌の指先に、さっきのジングルの紙が震えていた。湊は自分の手を引き、紙をもう一度軽く触れた。痕跡はまだ残っている。だがそのとき、スマートフォンに別の通知が来て、湊の手がわずかにぶれる。風に揺れるマイクスタンドが金属音を立て、屋上に小さな不協和音が広がった。
「——やっぱり、やめた方がいい」湊はぼそりと言った。「誰かの選択を決めるために、僕の能力を使うつもりはない。海歌自身がどうしたいのか、それを奪いたくないんだ」
海歌はその言葉を聞いて、目に強さを取り戻していった。だが同時に、彼女の肩の力は抜けた。選択肢が増えたことに、恐れと解放が混じる。共同で作るものに残る痕跡は彼に真実の輪郭を示すだけで、答えそのものではない。湊はそれを噛みしめた。
「なら、外からの圧力をどうする?」蓮の声には焦りが募っていた。「視聴数が足りなかったら本当に終わるんだぞ。文化祭での一回きりで、放送部の未来が決まる。海歌の個人の選択だけで部全体が潰れるって、そんなの酷すぎる」
蓮の言葉はもっともだった