影走糸の研究員と緋色局 第8話「第7章」
倉庫の空気は、金属と古い油の匂いに支配されていた。外の街灯りは隙間から細い筋となって入り込み、埃の舞いがそれらを揺らす。影走糸はまだそこにあった。綾の掌から伸びた細い黒い縫い糸のようなものが、天井の鉄骨に絡まり、空気を裂くように空間に網目を描いている。糸は光を吸い込み、近くの裸電球を瞬かせた。カチリ、と小さな音。誰かの歯が、寒さでも驚きでもなく、噛みしめられている。
倉庫の空気は、金属と古い油の匂いに支配されていた。外の街灯りは隙間から細い筋となって入り込み、埃の舞いがそれらを揺らす。影走糸はまだそこにあった。綾の掌から伸びた細い黒い縫い糸のようなものが、天井の鉄骨に絡まり、空気を裂くように空間に網目を描いている。糸は光を吸い込み、近くの裸電球を瞬かせた。カチリ、と小さな音。誰かの歯が、寒さでも驚きでもなく、噛みしめられている。
「綾、聞こえてるか?」久住直人の声が低く割れる。彼は倉庫の出口に立ち、後ろには子どもを抱いた女性と、荷車に寄りかかる老人がいる。外では、巡回が増えたという噂が出ていた。直人は穏やかながらも焦燥を滲ませる。
綾は糸を見つめながら、ゆっくりと首を振った。「……聞こえる、でも、ずれる。耳の芯が、膜で覆われたみたい」
風間ミツキは手元の端末を覗き込み、眉間にしわを寄せる。画面のノイズは依然として消えず、通信帯域は歪んでいた。彼女の指が小刻みに震えている。ミツキはこの夜、緋色局の宣伝網を沈静化させるために情報路を切り崩す役目を買って出ていた。だが、綾が作った影走糸の影響で、街の通信全体にノイズが降りかかった。意図しない妨害。それはミツキの計画を狂わせ、彼女の信頼を揺るがした。
「お前だけの力じゃないって、わかってるだろう?」直人が低く言う。彼の手には簡易の懐中電灯。明かりは綾の糸を掠めてゆらぎ、影が揺れる。そのたびに綾の視界の端が、鋭く引き裂かれるようにぼやけた。
綾の胸がひりつく。前回、彼女は同意が不完全な状態で作戦を実行した。合意は、影走糸が「共有した作戦」を現実化するための鍵だったはずだ。合図としての同調はいつも静かな儀礼だった。誰かが糸に掌を添えて「行く」と言うだけで、糸は同意の温度を受け取り、蠢き始める。だが、あの夜――監視網が間に入り、正しい合図ができなかった。綾は間に合わせの決断をした。結果、通信ノイズが広域に広がり、遠巻きの監視ドローンまでをも巻き込んだ。
「それで子供たちが安全になったんだろう?」松園慧が綾の隣に歩み寄る。彼は衛生セットを肩にかけ、手袋の縫い目を掻く。彼の顔は疲労に染まり、しかし言葉は柔らかい。
綾は視界の糸を指で追いながら、唇を震わせた。「でも……あのドローンが墜ちて、誰かに当たった。壊れたカメラの破片で、路地の角にいた青年が怪我をしたって報告が。僕が――私が、ただ一人で決めたから」
直人の表情が僅かに崩れる。だが、彼はすぐに顔を戻した。「被害は出た。でも、避難は成功している。人が死んだわけじゃない」
「成功、ねぇ」ミツキの声は冷たかった。「それが許されるのは、線引きが明確なときだけ。綾、あなたは一回目は説明なしで動いた。だから今、ここにいる全員の選択肢が歪んだ。しかも通信のノイズで、俺の情報操作が——」
言葉は続かない。誰もがそれぞれの罪悪感を抱えている。綾はその罪悪感を握りしめ、喉の奥が苦しくなるのを感じた。影走糸は彼女にとって「仕事道具」であり、過去の彼女が現場で使った「命綱」だった。だがここでは、それが人々の生活を左右する道具になってしまった。
倉庫の外から、遠いうなりが近づいてきた。まばらな足音、車のエンジン音、鉄製の扉を蹴る鈍い衝撃。緋色局の巡視班だ。彼らは声を上げず、効率よく在り処を探る。訓練された静けさが、夜を切り裂く。
「待て」綾が急に声を上げた。「ここで止まってたら、みんなが見つかる。直人、行きの指示はまだ有効だよね?」
直人は一瞬ためらった。彼の目が倉庫の薄暗い出口と、糸が作った網を往復する。綾は糸を引き、指先に震えが伝わるのを感じた。それはいつもより冷たい。糸自体が空気を裂いたとき、周囲の電灯が細かく瞬き、馴染みのある金属の味が綾の口の中に広がった。彼女の心臓の鼓動が、手のひらで脈打つ糸に反応する。
「合意して」松園が低く言った。「俺が合図をする。ミツキは情報線を切って。直人は出口を押さえる。全員の同意が揃えば、綾の力は計画通りに動く」
四人が向かい合う。四つの視線が交差する。空気が硬い。綾は糸を見つめたまま、震える声で言った。「でもミツキ、あなたは情報作戦から離れるつもり?」
ミツキは一瞬戸惑ったようだった。だが、彼女の口元に小さく笑いが浮かぶ。「最悪のタイミングで最低の選択をするよりはマシだ。ここは私が手を引く。だが、条件がある。今回のノイズの原因と範囲を、全部洗い出す。綾、私のデータにアクセスさせなさい」
綾はうなずいた。掌を差し出す。影走糸が掌の輪郭に沿って震え、薄い青白い反射を見せる。四人の手がそれぞれ糸に触れる。その触感は温かく、鼓動にシンクロする。綾は合図を出す前に、喉が締め付けられる感覚を覚えた。合意の力は到底美しいものではない。力が歪んだときの代償が、綾の体に刻まれていた。
「行く」直人が短く言い、糸は一斉に振動した。網は空気を切って広がり、倉庫の出口へと道筋を縫うように形を変える。電灯はさらに瞬いて、影が鱗のように床に落ちる。綾は糸を送り出す感覚を享受する間もなく、何かが自分の内側に食い込み、神経を引っ張った。
耳鳴りが、破裂音のように左耳に響く。綾は咄嗟に手を耳に当てたが、音は薄絹を通すように遠く、そして近く感じられた。嗅覚が薄れていく。辺りの金属臭が、まるで閉じ込められた箱の中の空気のように遠ざかる。視界の端に黒い楔が落ち、そこから視野が欠けていく。痛みはない。だが、世界が何かを削られてゆく感触があった。
「綾!」ミツキの声が遠い。直人が肩を掴む感触は確かだが、言葉が届かない。網は確かに働いた。子どもたちと女性は糸の導きに従い、床に沿って滑るように出口へと運ばれていく。糸は彼らの動線を一度で確定させ、迷いを断ち切った。逃げるべき道が一瞬で現れ、群れは流れるように動いた。
その瞬間、外から破裂音がした。糸が糾合する先で、巡視ドローンの一機が不意に姿勢を崩し、倉庫の外壁に激しく擦れて落ちるのが見えた。破片が火花を散らし、暗い路地に小さな炎が走った。綾はそれを見て、吐き気がした。あのとき、自分が独断で作動させたときと同じ光景。だが今は違う。今は全員の同意があったはずなのに。
「誰だ、火を——!」遠くで管制の声が怒鳴る。巡視班の足音が急を告げ、鉄の扉が叩かれる音が近づく。逃げていた群れは出口で躊躇し、一瞬の混乱が生じた。綾は糸を引き直し、網を再編する。彼女の手は冷たかった。
外の騒音が、意識の端を引っ張る。直人が糸を外して一瞬で次の動きを指示し、松園が負傷者に向かって走る。ミツキは端末を取り出し、画面に飛び交うデータを振るように見つめる。だがミツキの目つきがふと硬くなる。彼女は何かを検出したようで、端末を綾に向けた。
「綾、見て。糸の残響が──このパターン、緋色局の『縫槍』のログに似てる」
「縫槍?」綾はその言葉に体が止まるのを感じた。緋色局が使うという、その言葉。ミツキは素早く説明を差し挟む。「公共管理の監縫設備。表向きは街のインフラ保全用。でも、緋色局はそれを情報統制と行動誘導に使ってる。もし糸の残響が縫槍のログと一致するなら——」
ミツキは言葉を切った。倉庫の中が急に寒くなった。綾の手に残る微かな振動が