影走糸の研究員と緋色局

影走糸の研究員と緋色局 第7話「第6章」

朝の光は薄く、焼けたアスファルトの上を低く滑っていた。緋色の糸が交差する広場の中央、輸送トラックはロープのように張られた細い線に囲まれ、動きを阻まれている。糸は風に揺れない。光を集めて艶を含み、壁や地面をなぞるようにして走っていた。宵野結は息を詰め、糸の走る方向を目で追う。糸と糸のつなぎ目が、ちょっとした結節のように見える。そこだけが微かに脈打ち、赤が深くなった。

朝の光は薄く、焼けたアスファルトの上を低く滑っていた。緋色の糸が交差する広場の中央、輸送トラックはロープのように張られた細い線に囲まれ、動きを阻まれている。糸は風に揺れない。光を集めて艶を含み、壁や地面をなぞるようにして走っていた。宵野結は息を詰め、糸の走る方向を目で追う。糸と糸のつなぎ目が、ちょっとした結節のように見える。そこだけが微かに脈打ち、赤が深くなった。

「時間はない。相澤、梓、準備は?」結は小さく呟き、拳を握った。相澤聡は額に塩の結晶のような汗を浮かべて、両手を開いた。風間梓は包帯をぎゅっと引き締めるしぐさをした。若葉は足元で小さく震えながらも、結の目を見て頷く。

「同意のサインを三つ取れば、あの糸を使った循環転換が一度だけ成立する。決められた作戦を全員の意思で共有して、同時に起動。糸は補助媒体になるだけだ。やり直しは——」梓の声が震え、言葉を切った。結はそのまま続ける。

「やり直しはきかない。一度だけだ。みんな、覚悟はある?」

三人は同時に手を差し出した。掌と掌が触れ、結の中にふっと冷たい確信が流れた。影走糸は媒介だ。結は研究室で、繊維と電磁の干渉を何度も計算した。だがそれは論文の数式ではない。ここで、今ここで、人の生命が絡まる実行だ。結はかつての自分の職務を思い出す。危険な現場を支えたあの手腕。手が震えたのは偶然ではない。だが皆の顔に浮かぶ期待に、結は応えるしかなかった。

合図として三人は同時に低く声を出した。息を合わせるリズムは、訓練ではなく慣れでもなく、あの時代の沈黙を埋めるためのものだった。結が最終トリガーに触れる直前、若葉が一声上げた。

「お母さんが……向こうに!」

結の視線は自然と向こう側に跳ねた。防護線の向こうで、審問台のように組まれた仮設ステージに、むき出しのライトが当たっている。そこに若葉の母親が据えられていた。緋色局の長靴を履いた職員が、彼女に向かって何かを読み上げる。周囲の影少ない群衆は、それを注視するように沈黙していた。

「審判だってさ。局がここで公開して、決定を示すんだって」若葉の声は震えていた。結の胸を何か硬いものが掴むように疼いた。審判という名の見せ物。糸が秩序を示すという演出。結はその演出を見たことがある。だがそれは、ただの演出では済まされない。人を黙らせ、選択を奪うための手口だ。

「やめるわけにはいかない。あの場で何かされたら、若葉たちは――」相澤が短く言った。梓は唇を噛み、視線を泳がせた。

結は、計画の最後の確認に目を落とすべきだった。だが目に入ったのは、若葉の母の手首に絡まれた透明の糸だった。普通の「影走糸」とは違う。政府の徽章を刻んだ小さな金具が結び目に付いている。金具の光は冷たかった。

「止められないのか?」結の声は思ったより低かった。答えはない。誰もが見ている。合意のトリガーは既に起動前の位置にある。だが心の中の秤が音を立てて傾く。彼女たちが手に入れようとしていた〝一度だけの転換〟は、若葉の母が審判にかけられる時間を縮めてしまう。結はその瞬間、選択肢が二つに見えた。計画を完成させて、後で被害者を助ける。あるいは——

あるいは単独で起動する。合意を無視してトリガーを引けば、今すぐにでも母を引き離せる。だがそれは、代償を伴う。結は自分の胸の奥にある記憶を引き上げる。研究ノートを閉じる直前の弧、同僚が実験のために失った嗅覚のこと。能力の反動が感覚を奪うという記述。合意の枠内ならば、いくらかは安全だと誰かが言った。だが合意を踏みにじれば、能力は予期しない向きへと伸び、敵にも作用するという——それがどう作用するかは断定できない。可能性は救出と破局の両端にあった。

「結、やるのか?」相澤が目を細める。梓は片手で薬箱を押さえ、顔を上げた。若葉の眼差しは震えている。結は一歩前に出た。糸の光が近づくように見え、胸の内が冷たくなる。

「……やる」結は言った。言葉に重みがあった。誰の同意も得ていない。掌のひらに冷たい汗が広がり、影走糸の感触が指先に走った。結は自分の心臓の鼓動を数え、頭の中で起動の符をなぞる。影走糸を媒介にするには、意志と具体的な作戦図を同時に固定する必要がある。結は瞬時に作戦を再定義した。若葉の母を引き抜き、審判の回路を混乱させる。その場で局の糸制御に乱れを生じさせれば、群衆の注視を分散できる――出血は抑えられるはずだ。

一瞬、世界が鋭い音に包まれた。耳鳴りのような高周波が結の奥底に突き刺さる。影走糸が結の皮膚をくすぐる。小さな触手のように糸が結に絡み付き、体の表面を滑っていく。生暖かい振動が背中を這う。結は抵抗しなかった。代償は受け入れることだと、どこかで秤を置いた。

糸は走った。彼女の意思と共振し、広場を這い回る。制服のポケットや装備箱を辿り、金具に触れると、赤い線がそこを締め上げるように引かれた。若葉の母の手首に絡んでいた金具が、ぴきりと引っ張られ、外れる。母は一瞬自由を取り戻し、崩れ落ちた。群衆の間から小さな叫びが上がる。

だが同時に、糸は別の方向へも走った。結が許可なく起動した瞬間、力は彼女の意図を越えて伸びた。緋色局の装備に取り付けられた回路の鎖、審判台のライト配線、制御ドローンのセンサーケース——それらに赤い糸が巻き付く。装置はぎしりと音を立て、止まった。ライトが一斉に暗くなり、スピーカーから流れていた局の声が途切れる。桜庭という名の局員がマイクに顔を寄せ、血の気を失った顔で命令を叫んだが、応答はなかった。

「効いたのか?」梓が叫ぶ。若葉が母の側に走る。相澤は結の肩を抱えて支える。結は空気の味が急に薄くなったのを感じた。うまく説明できない。口の中が平らに、情報を失ったように鈍い。味覚という小さな世界が、すうっと消えた。彼女はとっさに舌を噛み、焼けるような痛みに目をつぶった。

「結、大丈夫か!」相澤の声が遠い。結は目を開け、周囲を探る。色が薄くなったではないか。空の青が少し灰色を帯び、遠くの輪郭がざわつく。右手が自分の感覚から浮遊している。指先を触っている感触が、わずかに遅れて返ってくるのだ。まるで自分の手が別の誰かのもののように思える。

「やっぱり、反動か」梓は低く言った。結は三歩ほど腰を落とした。足元の震えを感じ、膝が抜けそうになる。若葉の母が泣きながら娘に抱きつく。群衆は混乱の中、助走するように離散し始めた。桜庭たちは指令端末を叩きながら、急いで代替回路を起動しようとしている。結の糸は彼らの機器に絡んだままだが、局員の一人がナイフのような工具を手に糸を切ろうとする。切断しようとした瞬間、糸が一瞬きらめき、切られたはずの部分から小さな光線が跳んだ。切断した側の装置が激しく揺れ、短い爆発音を立てて停止した。

「敵にも作用したのか……」相澤は小さく呟いた。梓は顔色を失っている。結は自分の行為が想像以上の波紋を広げたことを、まだ理解しきれなかった。合意を破って使った影走糸は、設計どおり味方の作戦を確実にするためのものだったはずだ。だがその枠を超えたことで、局の装置群を巻き込み、彼らの「決定」を物理的に揺さぶった。効果は救出だけではなかった。結の手は震え、感覚の齟齬はさらに広がる。視界