影走糸の研究員と緋色局

影走糸の研究員と緋色局 第9話「第8章」

雨はまだやまなかった。アスファルトの匂いに混じって、錆びた排水溝から上がる湿った金属のにおいが街を満たしている。街灯のオレンジが濡れた路面に伸び、そこだけがほんの少し色を取り戻したように光った。紅谷凪はその光をまともに見られず、片側の視界が薄いグレースケールになっていることを自覚したまま、肩をすくめてコートの襟を立てた。

雨はまだやまなかった。アスファルトの匂いに混じって、錆びた排水溝から上がる湿った金属のにおいが街を満たしている。街灯のオレンジが濡れた路面に伸び、そこだけがほんの少し色を取り戻したように光った。紅谷凪はその光をまともに見られず、片側の視界が薄いグレースケールになっていることを自覚したまま、肩をすくめてコートの襟を立てた。

「行けるか?」

大槻俊の声が背後から飛んだ。濁った呼吸音、ずっしりとしたブーツの音。俊はいつでも決め急ぐ。凪は短く首を振る。

「もう使えない。あれは——一度きりだった」

言葉にしてしまえば簡単だ。だが彼らは頼るように、期待するように凪を見た。里緒は濡れた髪をかき上げ、唇を噛んで肩を小さく震わせる。風祭結は後方の避難民の安否を確認しながらも、目が問いを投げてくる。椎名響だけはずっと画面を覗き込み、キーボードを叩く指を止めない。彼女は誰よりも事情を早く理解していたはずだが、今は沈黙している。

「俺たちでやる」俊が言った。「渋滞してる輸送路、一本潰せば緋色局も足止めできる。凪がいなくても動くしかない」

里緒は小さくうなずいた。返事はなかったが、彼女の目には一種の決然さが光っていた。凪はそれを見て、胸の奥が締め付けられるのを感じた。彼女たちは自律して選び、動く。凪が拒んでも、世界は止まらないのだ。

「気をつけろ」凪は言えた。だが、それ以上の干渉はできない。影走糸を介して作戦を"現実化"できるのは、味方が合意し、同じ作戦を共有したときだけ――それが凪の能力の中心だった。そして彼女は、すでにその"一度"を消費していた。だから今は、指示を出すことも援護の糸を編むこともできない。ただ、見ているだけだ。観測者としての無力さ。これほどまでに重いものがあるだろうか。

「先に行け」凪は決めた。避難民たちを守るための物資、幼い者たちの体力、救護のタイミング。優先順位がある。俊と里緒が夜の湿気に紛れて走り去るのを見送る。彼らは、港へ続く一本の狭い路地を選んだ。そこに緋色局の小隊が展開するという情報があったからだ。俊は地上の破壊を担当し、里緒は囮になる――その計画だけは凪に理解できた。

そして、数分も経たないうちに——

鋭い銃声がいくつも破裂した。弾丸が軒先に当たり、ガラスがぱりぱりと砕ける音。避難民の子供が泣き叫ぶ声。凪は足を固め、視界の右側に広がる薄いグレーの壁をかき集めるようにして走った。濡れた石畳が足裏に冷たく、心臓の鼓動が脈を打つ。雨が顔面に叩きつけ、視界の色をさらに奪った。

路地の入口で、里緒が伏せていた。血が右手の甲を染めている。俊は角に張り付いて敵の射線を切ろうとしているが、銃声の間隔が狭く、焦りが見て取れた。緋色局の追跡部隊だ。黒い装備に赤い徽章。機械音と低い指示の声。戦術ドローンが空を擦り、スポットライトが路地を裂いている。

「動け、里緒!」俊の声が叫びに変わった。「ここを抜けるんだ!」

凪は咄嗟に手を伸ばした。何かできるはずだ、いや、できるかもしれない——そう思った瞬間に、それが許されないことが全身を通してわかった。合意がない。作戦の共有がない。凪にはもう、"共有された一度"は残っていない。代わりに、触れられた糸は痛みを残していた。前回使ったときの代償が、左目の端に黒い影を残している。あのときの光景が、今も皮膚の裏側で疼く。

それでも銃声が止まない。里緒の息が浅くなった。俊が弾倉を替え、刹那の隙を見つけようとする。凪は考えた。声で合意を取る時間はない。合図も計測もできない。彼らは自律で動いた。裏切りではない。選択だ。だが選択はまた、人を危険に晒すことを含む。

「凪!」椎名の冷たい声が無線で飛んだ。彼女は局の通信を拾っている。情報が散ってくる。だが、干渉か、時間稼ぎか、今は無力だ。

凪は拳を固めた。やけくそに、条件を無視することはできない。だが身体が勝手に動いた。掌の下で、まだかすかに残っている糸の感触を探す。黒い細い手触り。布にも似た冷たさ。彼女はそれに触れ、指先で撫でるように引き出した。

「駄目だ!」自分でも驚くほど荒い声が出た。糸は、応えて伸びた。空気に描くように、スジが生まれていく。闇が糸を包み、雨の中でその存在を主張した。周囲の色が一瞬で抜け、まるでフィルムの一コマが切り替わるように、世界の一部がモノクロームに変わった。目の前の世界が薄れていく。左眼の影が更に広がる感触。痛みが視神経を叩く。

糸は通路を縫った。路地の内側から外側へと、一本の暗い道筋が伸びる。凪はその線の先を見た。そこに入れば、雨と銃撃から逃れられる——はずだった。

だが合意はない。彼女は単独で触媒になった。条件違反の行為には代価が伴う。凪の胸の奥で、前回とは異なる冷たい何かが崩れ落ちるのを感じた。世界の色が、より抜け落ちていく。視界はさらに狭まり、右目の端も悲鳴を上げる。痛み。それと同時に、糸が像を食い始めた。

そして、不可逆のことが起きた。糸が描いた通路は、味方だけでなく、そこに足を踏み入れたものすべてに同じ"安全経路"として機能し始めたのだ。凪はそれを望んだのか、恐ろしくてわからない。目の前を走る二人の緋色局の隊員が、無造作にその暗い通路をくぐり抜けた。彼らは小さな笑いを上げ、反対側から俊と里緒を狙う位置に着いていた。糸は味方と敵を区別しない。条件の欠如は、均質な通路を生んだだけだった。

「裏切られた……」里緒が低く言う。血の混じった呼吸。俊の背中が大きく揺れ、彼の銃弾が一度止む。敵が乱入し、背後を取った。凪の胸に重い後悔が波のように押し寄せる。彼女は自らの行為で、仲間を危険に晒したのか。あるいは、そもそも彼らの独断が無謀だったのか。

鼓膜に響くのは雨と叫び声と、断続的な銃声だけだった。凪は手を震わせ、冷たい糸を握りしめた。再び解こうとしたが、糸は抵抗した。まるで意志を持つかのように、道を守ろうとする。合意のない糸は暴走する。彼女の指先から、感覚が剥がれていく。

音が遠くなる。色が遠のく。眼前の世界は絵筆で削られるように消えていった。里緒の顔、俊の汗、雨に濡れた髪——それらはまだそこにあるはずなのに、凪には薄い影絵のようにしか見えない。痛みが走る。呼吸が辛くなる。彼女は自分が何をしたのかをはっきりと知った。代償は目だけではなかった。選択の重みは、彼女の中の複数の感覚を削り取っていった。

やがて戦闘は収束した。椎名の短波が通じ、結が即席の包帯で里緒の手を押さえる。俊は助けられた形で路地の反対側に押しやられていたが、致命傷は免れた。緋色局の隊員は撤退し、彼らはその場を辛うじて切り抜けた。だが勝利の色は薄い。誰も笑わなかった。避難民の一人が震えながら近づき、凪の前で手を差し伸べた。彼女の手は子どもの手の冷たさだった。凪はそれを握りしめることができなかった。視界が不安定で、細かな手の感触を認識できない。

「どうして……」里緒が囁く。両肩が小刻みに震えている。彼女は自分の行為が仲間を守ったと思いたかった。だが事実は混濁している。凪は静かに首を振った。言葉が出ない。彼女の内側で、ある種の線が引き裂かれた。

「聞け。通信を解析した」椎名が突然声を上げた。彼女はず