光を偽る占い師は夜明けを疑う 第5話「第4章」
夕闇がすり抜けて、路地の石畳に薄い蒼が差したとき、レイナは走った。靴底が返す湿った音、背後の屋根から落ちる雨粒の小さな拍手。呼吸は浅く、でも確かに鳴る。彼女の掌には、誰かが投げ捨てた編み物のスカーフが絡んでいた。そこに残る体温の痕跡を嗅ぎ取って、彼女はそれがまだ温かいことを知る――人が繋がれた時間は遠くない。
夕闇がすり抜けて、路地の石畳に薄い蒼が差したとき、レイナは走った。靴底が返す湿った音、背後の屋根から落ちる雨粒の小さな拍手。呼吸は浅く、でも確かに鳴る。彼女の掌には、誰かが投げ捨てた編み物のスカーフが絡んでいた。そこに残る体温の痕跡を嗅ぎ取って、彼女はそれがまだ温かいことを知る――人が繋がれた時間は遠くない。
「こっちだ」
カイルが低く声をかける。短い黒髪、鋭い目。彼はスカーフを指差し、路地の先を指した。暗がりの中で、暁誓院の白い車の跡が泥濘を縦に掘っている。車輪の端に刻まれた紋様が、月明かりにわずかに輝いた。紋様は『昇る光』――彼らがこの街で見たことのある、暖色の旗印を象っていた。
「鎮夜団じゃない。あれは院の車だ。外装が変わってるだけで、中身は同じだって噂だ」
カイルの声に混じって、向こうから笑い声が漏れ、交代の見張りが通りを横切る。制服の線は揃っているが、表情は無機質で冷たい。レイナはその冷たさを、手のひらで確かめるように感じた。
暁誓院の施療所は、城壁より少し外側にある小さな建物群だった。外観は民のための施しのように整えられ、扉の前には温かいランプがぶら下がっている。壁には「暁を誓う者は救われる」とほどこされた銘板。銘板の文字は金色のペイントで、夕陽を模したように柔らかい。だが、そこに立つ人間たちの瞳は、どこか光を欠いていた。
「中にはいるのね?」
ユエの声は震えていた。彼女は共同体の若い女性で、今日の公開証言会の準備係だった。誰かが消えた、その事実を受け止めきれないまま、ユエはレイナの背中を見つめる。彼女は殆ど叫びそうだったが、喉の中で何かが引っかかっている。
レイナは黙って頷いた。言葉はない。代わりに、彼女はスカーフをぎゅっと腕に巻きつける。編み目の隙間に、失われた人の息遣いが残っている。彼女の特殊なやり方――残酷な真実を、物や場や人の断片的な証言から縫い合わせる術。証言を束ねるとき、彼女は目の前に断片となった記憶を取り出し、音にして、他者の語りを紡ぎ直す。それは真実を「集める」行為だ。だが、いつだって代償が伴う。
スカーフに触れた瞬間、ふわりと小さな声が降ってきた。震える女の囁き、足音、薬の匂い。レイナは耳を傾ける。声は個別ではなく、そこに残る「場」が持つ断片的な感覚だった。彼女はそれらを、心の中で糸を通すように引き寄せていく。声は、欠けたパイプから漏れる水音のように、別々の高さで奏でられた。
「──『救われる』って言ってた。お母さんが、夜に光を見て。光が笑って、手を差し出したんだって。言葉が溶けるみたいに……」
その言葉が形になるたび、レイナの頭蓋の底で小さな欠落がぽろりと崩れ落ちる。最初はささいなこと――昨日の夕飯の味、通りで会った猫の模様――だが、紡ぎ続けるほどに大きなものが滑り落ちる。彼女は咄嗟に手を止めようとしたが、声がもっと知りたがる。欠片同士を結び付けてやれば、消えた人の行方がはっきりする可能性がある。だがその代わりに、彼女は何かを失う。
「何が見える?」
ユエが囁く。レイナは口を開ける。口内から出てきたのは、少し濡れた味のある言葉だった。
「あの人は、施療所の野外棟へ。夜の送迎で連れていかれた。そこで"宣誓"を立てさせられる。自分が望んでいるって証明するために、名前と日付を刻ませる。棄権は許されない――本当かどうかは、私の糸がまだ結い切れてない」
声を引き出すと同時に、レイナは自分の手元から幼い日の約束事を忘れていることに気づいた。誰に、何を約束したのか。忘れた記憶の欠片は、ぽっかり空いた穴のように心にある。焦りが冷たく喉を撫でるが、彼女はその焦りを見せないように息を整えた。
「やめるな。もっと引き出せるはずだ」
カイルの低い命令が緊張を増す。彼はレイナの背後に立ち、外側から扉の監視をする。だがユエは、手を固く握りしめている。彼女の指先は白い。
「でもその代償は……」
ユエの言葉が続かなかった。レイナも説明する余裕がない。代償はいつも不穏だ。だが今は時間が迫っている。
彼女は深く息を吸い、もう一度、声を糸に沿わせた。スカーフから、廊下を走る車輪の軋む音、扉を叩く人影、薬の匂い、そして――低く囁く"誓約"の合図。つなげると、はっきりした文章が浮かび上がる。
「……彼女は強制的に院の車に乗せられました。施療所の屋外棟、第三区、夜間の施療室。『救いを求める者』として記録が作られ、署名は院側が代筆した可能性があります。自発的ではない。声は怯えていました。『騙された』と何度も言っていた」
その瞬間、彼女の記憶のどこか――幼い日の匂い、白いセーターの袖口、誰かの笑い声――が消えた。レイナの胸に冷たい穴が空き、そこから風が吹き込む。彼女は息を止めそうになったが、我慢して目を瞬かせる。思い出せないはずの光景が、断片としてないのだ。
「それで、どこにいるんだ?」
カイルは顔をしかめる。彼の視線は前方の施療所へと向けられている。建物の窓からは、意図的に設えた暖色の光が漏れている。光は柔らかで、まるでどこかの家の居間のように人を誘った。だが廊下を覗くと、そこには異様な静けさがあった。人々は椅子に静かに座り、顔を壁に向けている者、膝を抱える者、閉じた瞳を片方だけ開けて遠くを見つめる者。暖かい光は皮膚の色を優しく照らしたが、目の奥にあるものは凍てついていた。
レイナはそのズレを感じた。光が人を包むとき、その光は同時に何かを奪っている。彼女の能力——証言を束ねる術は、真実を外に出すほどに、施療所の力を刺激するらしい。その場の光は、真実を覆い隠す偽りの布であり、光の下で「救われた」と証明された者は、社会的には保護されることになっている。だがその保護は、記憶と選択を差し出すことで成り立っているらしい。院はそれを制度として組み込んでいた。
「見るだけで危ない。外から情報を掠め取るだけなら、まだ……」
レイナは指先をスカーフに当て、もう一度ひとつの声を摘む。だが掬おうとする記憶の中に、小さな子供の泣き声が含まれていた。あの泣き声を取り出すと、彼女の頭が鋭く裂かれるように痛んだ。痛みは短いが烈しく、それと同時に誰かの顔が消えていく。彼女は口を噤んだ。もう一度味わう代償は、彼女が守ると言ったあの約束を擦り落とすかもしれない。
「やめろ!」
突然、背後で叫び声が上がった。響きは廊内にまで届く。レイナは体を翻して見ると、入口近くで一人の男が施療所の職員に押さえつけられていた。男は抵抗し、牢の鉄格子を叩く。その手首には緋色の印が浮かんでいる――施療所で見られる"誓約の紋"だ。印は火のように揺らぎ、触れた肌を微かに震わせている。
「この者が公の場で叫ぶのはまずい。静かにさせろ」
職員の声は冷たく、手先は確実に抑えにかかる。だが押さえつけられた男の顔には、怯えと怒りが混ざっていた。その眼差しは、外の世界をまだ諦めていない者のものだった。
「彼の叫びは"救い"の足音を乱す。禁止だ」
誰かが唇を結んでつぶやいた。院の規則書の薄い影が、領域を牛耳っているのがわかる。
レイナは思わず前に出る。彼女の声は意図せず強い。証言を束ねる術で見たことを、はっ