光を偽る占い師は夜明けを疑う

光を偽る占い師は夜明けを疑う 第6話「第5章」

施療所の壁は夜の油と汗で鈍く艶を帯びていた。レイナは冷えた金属片を掌に押し付け、息の奥でそれが震えるのを感じた。金属は小さな筒を繋ぐ継手で、表面に刻まれた細い溝は見覚えのある紋様へと続く。灯りは薄く、廊下の向こうから低い話し声と、周期的な機械の鼓動が届く。

施療所の壁は夜の油と汗で鈍く艶を帯びていた。レイナは冷えた金属片を掌に押し付け、息の奥でそれが震えるのを感じた。金属は小さな筒を繋ぐ継手で、表面に刻まれた細い溝は見覚えのある紋様へと続く。灯りは薄く、廊下の向こうから低い話し声と、周期的な機械の鼓動が届く。

「行くのか?」ミナトの声は短く、刀の鞘に当たる金属音のようだった。彼は夜間作戦で鍛えられた目をしている。壁に寄り添うルイは指先で紙片を挟み、枯れた風にページを揺らしていた。カレンは小さく震えながら、薬嚢の紐を確かめている。

「一人で抱えていても何も変わらない」レイナは声を出さずに言った。言葉は胃を掠める冷えと一緒に出てきた。彼女の能力——証綴りは、人々の痛みや記憶を繋ぎ合わせて“当事者の証言”を形にする。だが、証にするほど彼女自身の記憶が薄れる。救済を強制すれば呪いは増幅する。いつもその二つの代償が胸を締めつける。

扉の向こう、施療室の個室から断続的な泣き声が漏れた。そこにいるのは小柄な少女、ソラ。朝を演出する「偽光儀」の被検体になっていた。ルイが低く囁く。「予定は二時。儀は人工の夜明けを当てて、恐怖を和らげるという触れ込みだが、実際は反応を固定する。――つまり『選択させない』ための装置だ」

レイナはゆっくりと金属片に視線を戻した。刻まれた紋様は、彼女自身が長年紡いできた証綴りの端緒と酷似していた。施療所で見つけたそれは、制度が“光”を偽るために使っていたものだ。根は、同じだと彼女は悟った。だが悟るほど、自分の存在は危険に晒される。

ミナトが息を吐いた。「どうする?暴くか、救うか。両方は無理だろう」

「救う」カレンの声が震えながらも決然としていた。「目の前の一人を見殺しにできない」

ルイは書類を覗き込み、薄く笑ったように見えた。「小さな勝利が大きな波紋を作る。だが、記録を持ち帰れば外の人間は動ける。問題は、レイナの代償だ」

その時、レイナの胸の奥で何かが鳴った。証綴りを結ぶときの、針が貫くような鈍い痛み。彼女は掌の内側にかすかな刺青のように浮かぶ、もう一つの紋様を触った。皮膚に触れた指先が凍るようだった。記憶の一部が既に薄れていくのを感じる。幼い頃に歌っていたはずの歌詞の一行が、舌先からこぼれ落ちた。

「レイナ?」ミナトが手を伸ばす。だが彼女は振り払うようにその手を避け、静かに首を横に振った。選ぶべきは自分だと、身体が決めていた。

施療室への侵入は、思ったより簡単だった。深夜の看守は少なく、監視カメラの死角に入る技術はルイが持っている。だが部屋の中にある“偽光器”は想像していたより冷たく、工業的だった。筐体からは微かな嗅ぎ慣れた薬品の匂いと、金属の磨き粉の香りが混じる。機械の外殻に刻まれた溝は、彼女の掌の紋様と微妙に噛み合う。

ソラは布団に丸まっていた。薄い毛布の下で身体が小刻みに震え、眼は虚ろだ。儀は始まる寸前だった。看護師は手元の操作盤を弄りながら、準備の最終確認をしている。エリヤと名札にあった。白衣の袖口に、手が震える跡が微かに残っている。

レイナは息を整え、ゆっくりと前に進んだ。ルイが窓枠の陰から援護をする。ミナトが扉を押さえる。カレンは薬嚢から温めた布を取り出し、ソラの肩にかけた。動作は無言で、訓練されたチームワークが言葉よりも確実だった。

「ここまでだ」レイナの声は薄いが鋭かった。看護師が振り向く。エリヤが目を見開いた瞬間、レイナは証を綴り始める。空気が震えるような感覚、部屋の温度が微妙に下がる感覚。彼女の指先から光の糸が紡がれるわけではない。だが人々の心の奥底に結ばれた何かが、無言で縒り合わされていく。

ソラの視線が集まる。彼女の恐怖、薄く信じていた安全、看護師の躊躇、儀に呼応する機械の微かなノイズ――それらが結びつき、ひとつの言葉となって床に落ちた。『私たちは選ばされている』。その意味は揺るぎない証言として、看護師と機械の間に挟まれた真実を突きつけた。

だが、牙は同時に伸びてきた。証が整うたび、レイナの中の何かが剥がれていく。最初は煙のように、次に染みのように。ルイが封筒から出した小さな写真——そこに写る幼い兄アユムの笑顔が、指の隙間で滲んだ水彩画のように滲み始めた。レイナは咄嗟に写真を押し込んだが、その輪郭はぼんやりとしている。歌詞の一行。背中を預けた古い宿屋の匂い。そんな断片が次々と薄まっていく。

「やめろ、レイナ!」ミナトが叫んだ。だが声は届かない。彼女の耳は内側の波に飲まれそうだった。結ばれた証は重く、確固たる刃となって看護師の心を切り裂いた。エリヤは動きを止めた。手元の操作盤に表示されていた数値が跳ね上がり、偽光器が不安定な光を放ち始める。

ルイが素早く操作盤を奪い、筐体を止めた。光は滲んで消えた。ソラは大きく息をして、初めて涙を流した。カレンは膝をつき、その手でソラの小さな指を握った。成功した。小さな勝利だ。

だが成功の代償は冷酷だった。部屋の隅に置かれた古い鏡に、かすかな黒斑が広がっているのに気づいた。看護師の首筋、ミナトの手首、ソラの足首——皮膚の下で暗く蠢く模様が細く線を伸ばし、次第に血管のように浮かび上がった。呪いは“救済”の代償として局所的に増幅する。ルイの顔が青ざめた。

「やはり……」エリヤは両手を組んだまま、声を震わせた。「私たちは最善を尽くしている。更に悪い方法を強いる者たちに比べれば――」

「最善?」レイナの声は震えた。記憶の欠落が彼女の言葉を薄くした。それでも怒りは残る。「選択させないことが最善なら、これは救済と呼べないわ」

エリヤの目に何かが光った。そこには疲弊と、後悔が混じっていた。「あなたは……何かを失っている。私は、選べない人々を見るのが嫌だった。だから偽りの朝を作った。眠る者たちに、痛みを忘れさせるために」

「忘れさせることと、奪うことは違う」レイナは答えた。だが彼女は同時に、自分が何か大切なものを既に手放したことを知っていた。写真の角はぼんやりと丸まり、ポケットの中で存在を否定されている。

ルイが低くつぶやいた。「装置の刻印、見たか?あの溝。製造番号と紋様の位置が一致する。こいつらは同じ設計図を元にしている。王権の本部が関与している証拠はここにある。だが、公にすれば王権が動くだろう。レイナ、君の正体を突き止められるかもしれない」

「それでも」カレンは拳を握り締めた。「ソラは解放された。これだけでも意味がある」

部屋を出るとき、ソラが小さな声で言った。「ありがとう。朝が、本物だったらよかったのに」その無邪気な言葉に、レイナは胸が締めつけられた。自分が奪ったものが何だったのかを、改めて突きつけられるようだった。

施療所の外、薄暗い路地で四人は集まった。ルイは革袋の中から小さな帳面を差し出す。そこには製造記録の写しと配送先の一覧、そして不規則に押されたスタンプが並んでいた。スタンプの中には、見覚えのある紋様が繰り返されている。レイナは指先で一つのスタンプに触れた。触れた瞬間、痺れるような感覚が掌から走り、また一つ記憶が抜け落ちた。

「これは……王権の倉庫番号だ」とルイ。「ここを突けば流通経路に触れる。だが、レイナ。君が全ての証を