花を腐らせる画家は偽りの英雄を倒す

花を腐らせる画家は偽りの英雄を倒す 第9話「第8章」

夜は兵舎を薄く覆い、ランプの炎が油の匂いを放っていた。揺れる光は梁に影を落とし、カイの頬を引き裂くように細い影を作った。木の床は冷たく、足の裏に微かな振動が伝わる。彼は押し込められた小さな窓辺に寄りかかり、掌のすれた絵筆を握ったまま、沈黙のなかで仲間たちの話を聞いていた。

夜は兵舎を薄く覆い、ランプの炎が油の匂いを放っていた。揺れる光は梁に影を落とし、カイの頬を引き裂くように細い影を作った。木の床は冷たく、足の裏に微かな振動が伝わる。彼は押し込められた小さな窓辺に寄りかかり、掌のすれた絵筆を握ったまま、沈黙のなかで仲間たちの話を聞いていた。

「内部文書。軍の序列、英雄叙勲の手続き、礼賛のために渡された報告書の原本――。これがあれば、偽りの英雄像を糾せる」レオンが低く言う。声は抑えられているが、剣の柄を握った時のような堅さを含んでいた。

「でも、それを暴くには潜入だ。炙り出すには現場の記録を――」サラが机の上の古びた地図を指でなぞる。彼女の指先は冷たく、秘密を握る女狐のように細かった。

カイはボロボロになったパレットを膝に乗せる。そこにはかつて鮮やかだった花の絵が描かれていた。だが筆跡は酷く滲み、花弁は墨のように黒ずみ、花芯からは緑と黒の瘴気に似たものが浸み出していた。彼が力を使った痕だ。花が腐るとき、その匂いは思い出を喰らう──それを彼は知っていた。

「ミアはどうするつもりだ?」レオンの眼差しが一瞬、ミアに向く。ミアは白い包帯を腕に巻き、顔に疲労の影を落としていた。彼女はかつて病院で働き、治療と救済について身を以て学んだ女だった。

ミアはゆっくりと前に出て、ランプの光に顔をさらす。「潜入しても、誰かが傷つくなら私は行けない。文書を取ってくることが本当に『救済』なの? それを暴いた先に何が残るの?」

カイの指先がパレットの縁に食い込む。痛みの代わりに、彼の胸に小さな空洞ができる。ミアの言葉は、彼にとっていつも鋭い。彼は自分が何を守ろうとしているのか、誰のために記憶を捨てられるのかを、改めて問い直す必要があった。

「証言は必要だ。個人の証言が束ねられれば制度の嘘は壊せる」カイは静かに言った。「だが……俺のやり方は強引かもしれない。真実を武器にすれば、俺の記憶は薄れる。強制すれば、呪いは広がる。わかってる」

サラが鼻で笑った。「だからこそあなたには向いてないって言ったのよ。感情を抱えたまま真実を掴むと、真実そのものが武器になってしまう。武器は人を傷つける」

レオンがすぐに反論して前に出た。「今は躊躇う時じゃない。証拠が出れば民衆は目を覚ます。君の代償は、それに比べれば小さい――」

「小さい?」ミアの眼が焔のように尖った。「カイが代償を払うことで、周囲の人間が傷付く可能性がある。強制された救済で誰が幸福になるっていうの?」

空気が凍る。兵士たちの寝息が遠くで聞こえる。誰かが紙を丸める音が、木造の壁に響いた。

議論は結論を出さず、やがて分かれ道を残した。レオンとサラは潜入を続行する決意を固めた。彼らは夜の門の見張りの交代時刻を利用し、上層部の書庫へ忍び込む算段を整える。ミアは反対を続け、地域の避難計画を立てるために町へ戻ると宣言した。彼女は自分で選んだ責務を果たすことを主張した。それは仲間の自律的な選択だった。

「私は、直接誰かを救いたい。あなたたちは制度を暴きたい」ミアはカイを見据えた。「どちらも正しい。けれど方法は違う。私がいない方が、あなたたちのやり方は自由になるなら、行って」

カイは何も言わなかった。言葉は自分の記憶の隙間に落ちていきそうで、口を閉ざすほかなかった。

夜半。レオンとサラを露払いに、カイは兵舎の裏口から静かに抜け出した。瓦屋根にかかる月の光は冷たく、路地の石畳は濡れていて靴底に吸い付く。彼らは足音を殺し、見張りの縄張りをかいくぐっていく。カイの胸の奥で、腐った花の匂いがうすく立ち上る。彼が能力を使うたび、その匂いは鮮明になった。

目的地は軍の書庫。そこに保管された文書の一部に、「栄誉保全課」の封印があるという。表向きは英雄を守るための手続き書だが、内部には礼賛を作るための操作手段や、戦功の捏造、救済の名目で行われた秘密の儀式についての記録が隠されている——カイはその裏に「人々の選択を奪う仕組み」があると確信していた。

潜入は計画通りに進んだ。夜の書庫は薄暗く、紙の匂いと古い糊の香りが混ざっていた。カイは小さなランタンを持ち出し、棚と棚の間を這うように進む。サラは足元の鍵を外し、レオンは背後を警戒する。封筒がひとつ、ふたつ、手に入るごとに胸の鼓動が激しくなる。

だが、封印書庫の奥で、彼らは思いがけない人間に出会った。小柄な隊員が、本を抱えて震えていた。歳は若く、顔にはあの日の戦果を褒め称える花飾りの跡がまだ残っている。彼の名はホルム。軍内部の掲示板係をしている人物だ。口は堅いはずだった。

「な、なにをしているんだ」ホルムは震える声で言った。「ここは――ここは立ち入り禁止だ」

レオンが刃をチラつかせたが、ホルムの瞳には恐怖と混乱の色が渦巻いていた。サラはすぐに情報屋の嗅覚を働かせ、ホルムの懐に手を伸ばして薄い書類を取り出した。そこには、最近の「英雄行為」の詳細が記されている。日付、時間、関係者。そして、不可解な符号が花の紋様として押されていた。

カイの胸に、見覚えのある感覚が走った。符号は、彼がかつて自分の絵に刻んだ腐朽の印と同じだった。血のような朱と黒に塗り分けられた小さな図形。その図形を見た瞬間、彼の舌から記憶の一片が滑り落ちる。幼い日の母の名前が紙縒りのようにほどけて、どこかに消えた。

「な、何を見たんだ?」サラが低くつぶやく。ホルムは目を伏せ、震えながら小さな声で言った。「教えられたんだ。英雄の物語を織るために、生と死を調整する儀式がある。人を『救う』光景を作るために、回収と演出がある。みんなが拍手するために、誰かが苦しむ」

カイの手がパレットの端を押し込み、ひとつの花弁がぽとりと床に落ちた。目の前のホルムは、証言を無理に引き出されている。カイは無言で、ゆっくりと、彼の前に座り込む。耳障りな冷気の中で、彼は自分の能力を起動した。

黙示のように、彼の筆が空気に触れると、周囲の空気が重みを増す。ホルムの口から出た言葉が、だんだんと体系化されて、カイの心の中にこだまする。彼はそれらを一枚の絵のように束ね、花弁となってパレットに貼り付けていった。

だが力の代償は厳しかった。束ねるごとに、カイの胸の空洞は大きくなる。彼は最初に、幼いころに母と交わした約束を忘れた。次に、妹の笑い声のリズムが抜け落ちた。記憶が剥がれ落ちるたび、周囲の花の絵は一層黒く膨れていく。ホルムの顔に浮かぶ安堵の色は本物だったが、その安堵は強制的なものだ。彼の心は「救済」を与えられた代わりに、何かを差し出していた。

サラはそれを見て顔を強張らせた。「やめろ、強制だ。カイ、君は――」

だが既に遅かった。カイが最後の一片を絵皿に押し付けたとき、部屋の中の空気が腐敗し始め、紙の端が黒ずみ、そこからふわりと腐臭が立ち昇った。ホルムは咳き込み、顔色が悪くなる。サラが慌てて窓を開けたが、夜風は冷たく、匂いはゆっくりと彼らの喉を侵した。

「強制したら、呪いは増幅する」ミアの声が、突然背後から響いた。彼女は兵舎の入口に立っていた。町へ戻る道を断ち切るかと迷っていたはずなのに、彼女はここに戻ってきていた。ミアは息を切らし、手には薬袋を握っていた