花を腐らせる画家は偽りの英雄を倒す 第8話「第7章」
冷たい水が、指先の絵具を薄める。セイは指の腹で膠(にかわ)をすくい、乾きかけの絵具を掻き混ぜた。窓の向こう、夜の冷気が温室のガラスをつたう。外套を引き寄せる風の音が、薄暗い棚の間を通り抜けるたび、古い花器の影が揺れた。
冷たい水が、指先の絵具を薄める。セイは指の腹で膠(にかわ)をすくい、乾きかけの絵具を掻き混ぜた。窓の向こう、夜の冷気が温室のガラスをつたう。外套を引き寄せる風の音が、薄暗い棚の間を通り抜けるたび、古い花器の影が揺れた。
「これでいいのか……」
自分に言い聞かせるように呟いた。礼拝堂のように並べた空の鉢に、セイは慎重に花を置く。花はどれも生けられていない、偽の花。紙と絵具で作った花弁を、一枚ずつ、さも本物のように立たせていく。中心に据えたのは薄緑のカーネーション。彼が最後に母のために買った花を思い出して描いた色だ。だがそれは今、物質ではなく媒介に過ぎない。証人たちの記憶を「束ねる」ためのキャンバスだ。
ミラに教わった通り、彼は証言の糸をひとつずつ掛け替えていく。声の断片──市場での怒鳴り声、夜襲の槍音、犠牲者の名前──を口に出して、花の芯にそっと触れる。触れると、花弁がわずかに震え、絵具の縁がにじむ。絵の具の香りに混じって、腐った花の匂いが鼻腔をつく。セイは吐き気を堪えながら続けた。これで誰かが聞き、目を合わせ、嘘を隠す布が引き裂かれるはずだと信じたから。
「セイ、無理だけはしないで」
ミラの声は通信石越しに途切れ途切れに聞こえた。雑踏の音と交じり、彼女の世界は遠く火の匂いがする。セイは一瞬だけ窓の外を見た。色温度が違う映画のフレームのように、カイの場面は冷たく、ミラの場面は暖かく染められていた。分断された時間が、彼の胸を突く。
「わかってる。君たちがいなければ、どうにもならない」
彼は答えた。だが声は自分の耳に戻ってくると薄く、どこか遠い。彼は口に含んだ呪文をもう一度繰り返す。証言が重なり、薄紙のように重なっていく。その重なりを彼の絵が引き受け、ひとつの姿──偽りの英雄の輪郭──に貼り付ける。そうすることで、群衆はそれを共通の記憶として持ち、声を揃えて真実を呼べるはずだった。
最初の束ねは滑らかに入った。声は花の中でひとつの節になり、絵の具が乾くように定着した。花弁の縁が黒ずみ、中央からゆっくりと腐食が広がる。腐った匂いは、消えてほしい思い出を呼び出す。セイは目を閉じた。誰かの痛みがひとつになるたびに、彼の胸の奥から一つの像が薄れていく。幼い日の台所、母のハンカチを結んだ指先、母が夜に歌ってくれた子守唄の一行。思い出は糸切れのように切れていって、彼の指からするりと落ちる。
「止めて……」
誰かが叫ぶのではない。セイ自身の内側から声帯を通らない叫びが浮かんだ。だが束ねは止まらない。目の前の花々は証言を受け入れ、腐っていく。腐敗は消すべき嘘を象るための代償なのか。彼は筆先で花の中心をなぞり、もうひとつの声を呼んだ。
その瞬間、外から物音がした。鉄靴が石畳を刻む音、規則正しい呼吸のように。窓の向こうに、軍の巡察兵の影がふたり映った。彼らの胸章に刻まれた紋章は、偽りの英雄のガードの印だった。嗅ぎつけられたのだ——花の腐臭は嗅覚を刺激し、異端探知の嗅ぎ犬の代わりに働く。セイは背筋を凍らせた。ここは温室だ。屋外よりも匂いは籠る。もし見つかれば、すべてが焼かれる。
通信石が震え、カイの短い声が割り込んだ。「セイ、退いてくれ。俺が時間を作る。今、敵の門を割りにいく」
「カイ、来てくれるのか?」
答えは途切れた。「行けよ。君が集めた声は、外でこそ意味を持つ。俺が囮になる」
囮。セイはその言葉の重みを音声で感じた。カイはいつも抜け目なく計算していた。空気を読む男だ。だが囮になるということは、捕らえられるかもしれないということだ。彼の声は短く、でも顔は見えなかった。彼は、それでも自らを差し出した。
「駄目だ、カイ。そんなことは——」
言い終わらないうちに通信は切れた。カイの最後の音は、そこに確かな温度を残して消えた。セイは窓に近づき、手の甲で曇ったガラスを撫でた。彼の指跡は、腐食のように肉眼で見えるものではない。だが脳裏には、カイが門の前で振り返る表情が浮かんだ——冗談交じりの、壊れかけの笑い。
ミラの声が再び通信石から漏れた。彼女の息は荒く、背景に人の声が重なっている。「交渉は順調じゃない。証人たちの家族が怖がって——ある人は金と引き換えに黙るって。王政の金は、呪いの土台を潤す肥料みたいに浸透してる」
「出せる声は出してくれ。紙に残せる名前を――」
「名前は出すわ。でも、セイ。あなたが一人でそれをまとめるのは危険すぎる。力を使うたびに、何かが失われるのよね?」
ミラは遠慮なく核心を突いた。セイは半ば自嘲的に笑った。自分自身の喉を締めるような不快が胸を押し上げる。ミラの言う通りだ。力の代償は彼にとって痛手だった。だが代償は誰かの救いを買うために払われるべきだと、彼は自分を説得していた。
「母の顔が、ぼやけるんだ」──彼は小さな声で言った。「歌の一行が、喉元で切れる。具体的な顔が思い出せなくなる。覚悟はしてきたつもりだが……」
ミラは間をおいてから答えた。「それは……あなただけの記憶じゃない。私たちの重ねてきた時間も、戻ってこないかもしれない。もしあなたが全部奪われたら、代わりに誰が証言を紡ぐの?」
セイは肩をすくめた。答えは見つからない。彼は祭壇に戻り、濃く垂れた絵具を指の側面で掬い取った。花弁に触れるたび、指先が冷たくなる感覚がする。画材が凍るのではなく、自分の内側が冷えていくのだ。記憶が抜けた後の空洞を、手の感覚が埋めている——その代償は、絵筆と一緒に食いつくように残った。
温室の外では、何かが崩れる音がした。鉄扉に鈍いぶつかり音。カイの囮行動だ。セイはもう一度、束ねを続けた。小さな声が花の中で糸をなす。誰かの証言が、少しずつ一本の筋を描いた。軍の名簿、偽りの英雄の慈善事業の会計帳、教会に納められた献金の流れ。セイの内側を削る代わりに、外側の世界は少しずつ形を取り始める。
だが儀式は予期せぬ反応を示した。束ねられた証言が乾くたび、花の腐敗は急速に拡大した。最初は芯の周りに薄い黒い縁が生じるだけだった。やがて、そこから黒い斑点が広がり、花弁がねじれて落ちた。落ちた花弁は土に触れると、土の色まで変えてしまう。温室の床に落ちる花弁は、ささやかな黒い水たまりを作り、床の板に染み込んでいく。匂いは空気を満たした。腐敗の匂いは、フェロモンのように人を引き寄せる。
窓の外で銃声が上がる。カイの叫びではない。だが誰かが押し入った気配がする。セイは顔を上げ、温室の出入口に向かって走った。床に落ちた絵の具で滑りそうになりながら扉を開けると、影が細く伸び、軍の護衛が一列に立っていた。彼らの眉間には驚きではない冷たさがある。彼らは花の腐敗を鼻で嗅ぎ、互いに顔を見合わせた。匂いは彼らの命令系統を呼び覚ます。誰かがホイッスルを鳴らす音が耳に刺さった。
「止めろ。何をしている」
先頭の隊長が声を張った。金色の刺繍が彼の胸で夜光る。セイは反射的に手を上げた。話す時間を稼ごうとしたのだ。ここには証言がある。ここを焼けば証拠は消える。彼は一瞬で計算した。束ねた声をどうにかして外に出さねばならない。——でも方法がなかった。
隊長の手が鞭の柄に触れたとき、背後で悲鳴が上がった。カイだ。