花を腐らせる画家は偽りの英雄を倒す 第10話「第9章」
下水道の入口を隠す古い木戸の隙間から、湿った空気が冷たく這い出してきた。灯りは油皿に浮かべた小さな藁芯が一つだけ。机には押さえ込まれた書類の束と、まだ乾かないキャンバスが横たわっている。和泉蓮は指先でキャンバスの布地を確かめた。微かにざらつく糸目。寝不足で重い瞼の奥に、昨晩見た書類の行がちらつく。
下水道の入口を隠す古い木戸の隙間から、湿った空気が冷たく這い出してきた。灯りは油皿に浮かべた小さな藁芯が一つだけ。机には押さえ込まれた書類の束と、まだ乾かないキャンバスが横たわっている。和泉蓮は指先でキャンバスの布地を確かめた。微かにざらつく糸目。寝不足で重い瞼の奥に、昨晩見た書類の行がちらつく。
「やるのか、レン?」
ハヤトの声は低く、それでいて切実だった。軍装を脱ぎ捨て、今は革の上着を引っかけたままの彼は、テーブルの端に足をかけて documents の端をじっと見ている。ミレイは押し黙ってメモを指先で繰り、ソフィアは唇を噛んでいた。彼女は手の甲に小さな瘢痕があって、それを指でなぞるたびに目を伏せる癖がある。
「必要だ」蓮は言った。声は砂を噛んだようにざらついていた。「これをただ倉庫にしまっておくわけにはいかない。秩序省が制度として呪いを配っている証拠だ。公に出せば、流れを変えられるかもしれない」
ミレイが手帳を差し出すように文書に触れた。紙は薄く、隅には濃い朱の印影が押されている。一つは王権の紋、もう一つは聖護院の印、そして見慣れた軍章。だがそこに混じって、別の印があった。細い線で描かれた花の紋。花びらが十に裂けたような印影の中央に、一文字だけ刻まれている。
「『救』」とミレイが小さく呟いた。それは制度の名称でもあった。だが蓮は違う見方でそれを見た。印影の中に混じるもう一つの線、文章の端に押し付けられた薄い印。この文書は、誰が『救済』を受けるか、どの順序で、どの地域へと回されるかまでを書き綴った一覧だった。そして、その一覧を編纂した者の名がここにある。
蓮の指先が凍る。名札には見覚えがあった。子どもの頃、背負っていたランドセルの金具にぶら下げていたチャームの中に彫った名前。口の中でそれが音になろうとして、喉元でひっかかった。
「梓…」蓮は暗く笑った。「こんなところで、出てくるとはな」
ハヤトが眉を寄せる。「どういう意味だ? 梓って——」
「幼馴染だ」蓮は目をそらした。膝の上で握りしめた右手の関節が白くなっている。言葉は喉に残したまま、説明は膨らまなかった。彼がこの名を口にすること自体が、一つの裂け目を作るように感じられた。
「個人の因縁はともかく、手を打つべきだ」ミレイは即座に立ち上がり、机の上のキャンバスを指差した。「レンの術だ。証言を可視化して、当事者の声を一つに束ねれば、真実は否定できない。だが――」
言葉はそこで止まる。皆が、その「だが」を知っているからだ。蓮の能力は万能ではない。彼が真実を強く武器として振るうほど、彼自身の記憶は薄れていく。欠けるのはランダムではない。大切なものから消える、という噂(噂自体が彼らの活動を支えてきた)が彼らの間を流れている。
「今回の文書は規模が違う」ソフィアが静かに言った。「地方の名簿だけじゃない。王都全域。ここに名前があれば、その人は救済の対象だと印が押される。公開すれば大勢が真実を見る。でも…それが強制になるなら、救済が増幅するってことになるのか?」
蓮は息を吐いた。息の中に混じった油の匂いが、キャンバスに残る顔料の匂いと混ざる。自分の手がどの色を選ぶかはもはや慎重さではない。代償をどう取るかだ。
「試すしかない」蓮はそっとキャンバスに近づき、書類の一枚を上に置いた。紙の汚れがキャンバスに触れて、微かに埃が舞う。彼は刷毛を取る。刷毛は彼が十代のときにユミに貰ったものだ。ユミの顔は、蓮が一つずつ失ってきた記憶の温床だったはずだが、今朝の記憶の断片は薄れていて、ユミの笑い声の輪郭がぼやけている。
「レン、やめてくれ」ハヤトが掴む。「一度でもやれば追跡されるかもしれない。秩序省は芸術の劣化――いや、証言化の痕跡を追う術を持っている。文書に押された印が解除された形で転写されれば、出所を示す。公開するなら、それなりの覚悟が必要だ」
ミレイが静かに首を振った。「それに。覚悟だけじゃない。強制は被害を産む。救済を受けさせられた者が、呪いの媒介になり得る。かつて私が書庫で見た報告書にも、そんな事例があった。目の前で真実を突き付けられた者は、選択を奪われたと感じる。結果的に呪いの根が深くなる」
会話は石のように重く、空気を押しつぶした。ソフィアが顔を上げる。彼女の瞳の縁には赤味があり、その中に決意が滲んでいる。
「それでも見せなきゃいけない」彼女は静かに言った。「私は、私たちは、見ているだけでは変わらないって知ってる。強制って言うけど、彼らはいつも強制されてきたんだ。『救済』の受け手たちもそう。選ばれるかどうかを外側の者が決める。それを知れば、自分で拒否する人だって出てくるかもしれない」
蓮はソフィアの指先を見た。彼女は小さな花の刺青をしている。子どもの頃、母が庭で育てた花を思い出すような刺青だ。彼女が自分で手を差し出すのを見て、蓮の胸の中の何かが引き裂かれた。自らを差し出してまで真実を拡げようとする人間——彼女の主体性がそこにある。
「自分を使っていいのか?」ハヤトがソフィアに言った。疑問ではなく、最後の防壁だ。
ソフィアは首を振らなかった。「いい。私はもう奪われてきた。これくらいなら自分で差し出す。あなたたちは真実を守らなきゃいけない。レン、お願い」
蓮は刷毛を握る手に力を込めた。キャンバスの上に書類を置くと、文字の墨色が布地の繊維に吸われていく。蓮は息を止めた。彼はいつも、術を起動する前に小さなルールを自分に課した。まずは聞くこと。次に形にすること。最後に、それを渡すときに名前を呼ぶこと。名前は記憶の輪郭を留めるための合図だった。
刷毛を滑らせると、文字が波打つように踊り、インクの線が花弁の形を取り始めた。始まりは静かだった。だが刻一刻と、キャンバスの表面から微かな声が立ち上る。風鈴の音のように、微妙にずれて重なる声。それは牢屋の中の嗚咽、畑で祈る老婆の呟き、子供の奪われた笑い声の断片だった。声は当事者の声。蓮はそれらを一つに纏め、ソフィアの方向に押し出すようにした。
最初の波がソフィアに触れると、彼女の瞳孔が開き、唇が震えた。体温が一瞬上がったように見えた。彼女は床に膝をついて、両手で胸を押さえる。声が、体内にある見えない石を揺らすようだった。
「見える…」ソフィアが言う。声は遠くから聞こえるようだ。「花が…人の声が花になって、腐っていく…でも、これは私の声じゃない。あの夜の声だ。あの焼き場の声だ」
キャンバスの花びらが黒ずんでいく。白だった紙地から滲む黒は、文字を腐らせ、やがて匂いを伴った。腐った花が放つ匂い――それは甘酸っぱく、それでいて金属のように口の奥に鉄の味を残す。蓮はその匂いを吸い込んだとき、ユミの調理した煮込みの香りが一瞬だけよみがえる。そしてすぐに消えた。ユミの顔の輪郭が薄くなるのを感じる。目の端で、ある小さな手の形が溶けていく。
「レン!」ミレイが叫んだ。ハヤトは飛び掛かり、蓮の腕を掴んで刷毛を奪おうとした。だがそこにはもう遅れが生じていた。蓮の内部で何かが緩み、抜け落ちる音がした気がした。自分の名前を呼べない、という恐怖が突き上げる。ユミの名前の末尾が、砂のように指先から零