花を腐らせる画家は偽りの英雄を倒す

花を腐らせる画家は偽りの英雄を倒す 第24話「第22章」

黒布が街を覆っていた。薄曇りの夕闇の上に、王権が張り巡らせた戒厳令の黒い帷が斜めに張られ、街灯はところどころだけ点滅する。布の端が風になびくたびに、遠くの鐘楼が低く震えたように聞こえた。布の影が路地を長く伸ばして、花屋の看板も、子どもが描いた壁絵も、静かに溶け込んでいく。

黒布が街を覆っていた。薄曇りの夕闇の上に、王権が張り巡らせた戒厳令の黒い帷が斜めに張られ、街灯はところどころだけ点滅する。布の端が風になびくたびに、遠くの鐘楼が低く震えたように聞こえた。布の影が路地を長く伸ばして、花屋の看板も、子どもが描いた壁絵も、静かに溶け込んでいく。

「灯りはここだけだ」夏野真白が屋根裏の窓辺で囁く。彼女の目は紙資料と夜の街を交互に見ていた。窓の外に見えるのは、黒布の向こうに浮かぶ一つの明滅──あの一角だけを王権が無理やり残している。象徴だと真白は言った。安心の仮面。抑圧の目印。

橘蓮は床に広げた布の上で筆を拭った。油の匂いと油彩が混ざった、彼だけの匂いが胸に残る。手の指先にはまだ、昨夜集めた花の色が染みついていた。花を腐らせる筆。筆先をキャンバスに触れさせるだけで、花弁は黒い筋を引いて崩れ、そこに人の声が宿る。彼がそれを「束ねる」と呼んだ。

「昨日の証言、纏めたんだな?」蓮見颯が立ち上がり、粗い息を一つついた。彼はかつて王権の兵の制服を切り捨てた男だ。いまだに指先に金属の重みを覚えている。

「うん。十五人分、ばらばらの断片を下地に落とした」蓮は筆を握り直した。キャンバスの表面に、ぼやけた顔の輪郭がふたつ、みっつ、浮かんでいる。声はまだか細く、波紋のように重なっていた。耳に入るのは彼自身の息遣いと、窓に打ち付ける微かな雨音だけ。

「強行するなら、説明しておけ。代償があるんだろう?」真白の声には苛立ちが混じっていた。組織する側の人間は、常に最悪の可能性を先に言う。彼女は蓮の横に来て、キャンバスを覗き込む。濃淡の合間に、黒い筋が花びら状に広がっている。その内側で、ぼんやりと幼い男の声が「やめて」と言っているのがわかった。

蓮は小さく頷き、言葉を選んだ。「束ねるとき、そこにある『体験』が一枚の絵の中で重なる。見る者の前で真実が同時に出る。だけど──」彼は筆先に力を込めた。黒線が伸びると、キャンバスの一角の黄色がぐじゃりと崩れ、そこから合唱のように声が立ち上がった。十五の声。罵詈雑言も、呟きも、止まった鼓動も、全て重なって襲う。

「忘れる」蓮は続けた。「使うごとに、俺の中にある『誰かの断片』が薄れる。最初は匂い。次は歌。最後は──名前だ」

真白の指先がキャンバスに触れそうになって、止まった。「どれほど?」

「昨夜、子供の証言を入れた。俺は……台所の小さな火の匂いを、思い出せなくなった。今朝、寝床の縁のへこみの感触がわからなかった。記憶は段々、淡くなっていく。止め方はわからない。代償を払えば払うほど、呪いは増幅することもわかった。誰かに『救済』を強制すると、その呪いは周囲にも漏れる。花の腐り方が速まるんだ」

窓の外で、低い声が聞こえた。巡回の人間か、通報した者か。真白が頭を振る。「それでも、ここに置いておくよりは──」

「違う」颯が割り込んだ。「置いて見せるだけなんて、期待するな。見せればすぐに群衆が動く。王権の取り締まりだって動く。強制的な『救済』は、混乱を招く。だが、黙っているよりは可能性がある」

蓮は筆を置き、手を震わせながらそっと額に触れた。そこに浮かぶ暗い筋は、まるで刺青のように彼の胸の内を引っ張る。キャンバスの中の一つの顔が、彼を見返す。若い女性。名を言おうとするが声が割れている。蓮はその顔に自分の思い出を繋ぎ止めるように筆を走らせた。

「やるなら、やる。手短に済ませる。公共の掲示板で、短く、強烈に」真白が提案した。「長い説明は王権の餌になる。群衆の選択を作る。あなたの絵はそれを一つに束ねられる」

決行の日時は翌朝、王権が黒布の下で残した一角──「灯りの広場」と呼ばれる場所でのことになった。二十人の目と十本の足が吐息を合わせる。蓮は夜通しで絵を仕上げた。顔の輪郭は重なっていき、声は厚くなった。だが一枚一枚を重ねるたびに、蓮の指先から古い記憶が剥がれ落ちていった。

第一声を入れたとき、蓮は幼い頃に咲いていた庭の花の名前を忘れた。第二声で、祖母の歌の一節が消えた。五声目、彼は幼少期の友の顔を呼べなくなった。絵が重なるごとに、彼の胸の中のアルバムが抜け落ちていった。キャンバスの前の椅子に座った蓮は、最後に残っていたものを握りしめる──妹の写真。けれどその写真の縁取りの模様がぼやけ、名前だけが空白に変わる。

「名前くらいは……」蓮は低く呟いた。声が消えかかる。真白が彼の肩に手を置いた。冷たく、しかし確かな支え。

朝は冷たかった。灯りの広場には既に何人かの市民が集まっていた。王権の護衛も、目を光らせている。蓮と仲間たちは布袋に絵を入れ、人の波に紛れながら位置を取った。掲示板の前で、蓮は布袋を開け、キャンバスを引き出した。それは地図のように黒と色彩が混ざり合い、中心で一つの模様がうごめいた。

「見ろ」真白が囁く。蓮は息を吸い込み、筆に手をかける。声を放つように、キャンバスを掲げた。その瞬間、画面の上で十五の顔が揃って目を開け、広場にいる人々の耳に直接はっきりとした言葉が流れ込んだ。証言。異臭のする囁き。隠された命令。幼い子が叫んだ記憶。王の礼拝堂で行われる儀式の断片。群衆の息が止まる。

だが、同時に空気が変わった。周囲の花壇の花弁が、キャンバスから漏れたように黒ずみ、床を伝って腐汁のような液体が広がる。最初は小石を濡らす雨の跡のようだった。次の瞬間、近くに立っていた花売りの女子が両手で顔を押さえてひざまずいた。彼女の髪から、花びらが黒い粉になって落ちる。誰かの帽子に置かれた切り花が、音もなく萎れていく。人々の顔に、戸惑いと恐怖が浮かんだ。

「これは……」颯が叫んだ。画布の隅で、黒い筋が広がり街路樹へ触れ、枝から葉が鉛のように落ちた。叫び声が上がる。王権の護衛が一斉に前へ出ようとしたが、隊列の一人が手を顔に当てて倒れた。彼の瞳は一瞬、大きくなったが、そのあと虚無を湛えて開いた。味わったはずの誓いの言葉が、彼の胸から剥がれていくのが見えた。記憶が抜け落ち、行動の理由を失った男はそのまま崩れるように座り込んだ。

「お前は言った、強制が呪いを増幅すると……!」真白が怒鳴った。周囲の混乱に、誰もがつめ寄る。だが質問の答えは出ない。蓮の胸は氷のように冷えていた。絵は真実を暴き、同時に何かを喰らっていった。救済を強要した瞬間、世界が報復するかのように腐りを広げた。

そのとき、紫がかった滴が庁舎の壁に落ち、しみのように広がった。滴が描いた模様は、見慣れた紋章の一部をなしていた。蓮の目はそこに吸い寄せられた。壁に浮かんだのは、古い王家と宗教の紋章が絡まるように描かれた小さな印。だが、その端の曲線が、彼の記憶の中でうっすら見たあの模様と同じだった──子供のときに祖母が身に着けていた小さな金具の模様。蓮はその名を出そうとして、喉だけが動いたが、名前は出なかった。空白の穴がそこにあった。

「見ろ、あれを」真白が指差す。壁の紋章が薄れて、そこに隠された線画が現れる。線画をつないだ先に、何かがある。地図を示すように、壁には小さな突起が埋め込まれていた。王権が誤って露出させたのか、刻印がどこかで壊れてここまで来たのか──その突起には小さな錆の跡があり、そこに薄