花を腐らせる画家は偽りの英雄を倒す 第23話「第21章」
湿った風が回廊を抜け、花びらの裂ける音を運んだ。黒く浮いた斑点が次々に広がり、温室の一角に置かれた花器がぽたり、ぽたりと焦げた汁を床に落とす。白崎透(しらさき とおる)は膝を床につけ、キャンバスを抱えるようにしていた。指先には深い藍と、自分の血が混ざった色がにじんでいる。キャンバスの上で、記憶は絵具となって滴り落ち、にじみ、乾いていく。
湿った風が回廊を抜け、花びらの裂ける音を運んだ。黒く浮いた斑点が次々に広がり、温室の一角に置かれた花器がぽたり、ぽたりと焦げた汁を床に落とす。白崎透(しらさき とおる)は膝を床につけ、キャンバスを抱えるようにしていた。指先には深い藍と、自分の血が混ざった色がにじんでいる。キャンバスの上で、記憶は絵具となって滴り落ち、にじみ、乾いていく。
「声を寄せる。順に。逃がさないで――」透は小声で呟いた。彼の能力は、呪いが見せる残酷な断片を当事者の証言として束ねることだった。目の前の少年の手を彼の左手が握る。少年の掌は震え、爪の間に泥が詰まっている。少年は何度も振り返りながら、震える声で語る。
「……あの人が、英雄であるって。毎年、花冠に絵を投げ込めって——そうやって、選ばれた者の名前が紡がれるって……違うんだ。違うんだよ!」
透は筆を動かす。筆の先に触れた瞬間、少年の記憶がざあっと押し寄せる。透の頭の中で映像が展開される。礼拝堂のような空間、回る花冠、身体を縛られた人々の目。誰かが拍手する。誰かが泣く。言葉が断片となって飛んでくる。透はそれを平面に写し取った。
だが筆を引くたび、透の胸から小さな欠落が剥がれ落ちた。最初は些細な匂いだった。夏の終わりに祖母が作った煮込みの匂いが、彼の舌の端から消えた。次には、幼い日の夏祭りで見た花火の色。指先に鈍い冷たさが差し、思い出の縁が溶けていく。
「透、やりすぎるな!」陸斗(りくと)が低く叫び、鉄製の棒で見張りの兵を押しのける。陸斗の息は荒く、鎧のへりに脈打つ汗の匂いが混じっていた。傍らでミレイが静かに薬袋を開け、止血と麻酔の粉を手際よく混ぜる。彼女の目には決意と恐怖が同居していた。
「ここで止めたら、全てが元に戻るわけじゃない。真実を晒すんだ、透。聞かせろ、全部を」ミレイは短く言ったが、そこに抗議の色はなかった。自律した選択だ。彼女は誰にも強制されず、自分の意思で動いている。
透は筆を止めることができなかった。証言を集めることが、彼には唯一の武器だったのだ。だがそのたびに、自分が守りたいものの輪郭が薄れていく。守るべき名前、守るべき顔。彼の中の地図が部分的に消されていくのを感じながら、彼はさらに深く、少年の記憶の中へ爪を立てた。
絵が仕上がる。大きな一枚。そこには回転する花冠、そこに投げ込まれるキャンバス、拍手と涙、そして笑顔に装われた抑圧が描かれていた。だが透が筆を上げた瞬間、花の香りが一段と強くなり、周囲の生花が黒を深めた。床に落ちる花びらは燃える木のような匂いを放ち、誰かの咳が上がる。
「見——」透は言葉を飲み込む。能力のもう一つの条件が発動する。真実を「武器」にして他者へ示すとき、彼はその真実を強制的な救済へ変換してしまう。聞かされた者が目をそらせないほどの確証が現れると、呪いは驚くほどの勢いで拡張した。黒い斑点が花から町へ、町から水路へ、そして人々の手のひらへと広がる。
ざわめきが走る。控えの廊下から人の叫びが漏れ、遠くの鐘が不器用に何度も鳴った。透はキャンバスを掲げ、震える声で言った。
「見てくれ。これが真実だ。英雄は人々の選択を植え替えてきた。証言を束ねれば、彼らはもう英雄の幻想を背負えない——選べる!」
群衆は息を呑み、誰かが叫んだ。大勢の中の一人、薄笑いを浮かべた聖冠府の使者が花冠のふちから身を乗り出す。彼の眼差しは冷たい貴族のものだった。
「その『選択』という幻想を、今ここで剥ぎ取るのか。愚かだな、画師よ。真実を晒せば晒すほど、民は救いを求める。救いを与えれば呪いは感謝し、もっと多くを求めるのだ」
言葉は少しも嘘ではなかった。証としての絵が公になった瞬間、聴衆の心の一部がひるみ、誰かが慌てて聖冠へ駆け寄る。花冠は回転を早め、そこへ投入された新しいキャンバスから滴る黒い汁が、空気中で星屑のように煌めいて落ちる。落ちた黒い粒は触れたところの花を即座に朽ちさせ、黒い輪を広げた。
「やめろ!」陸斗が割って入る。だが遅い。透の左胸に冷たい疼きが走った。思い出の隙間が広がり、そこにぽっかりと、幼い妹の名前だけが消えた。透は咄嗟に手を嗅いだ。掌からは妹の笑い声のような記憶が溶けた感触が消えかけていた。彼はそれを掴もうとしたが、指先は空を切る。
「透!」ミレイが駆け寄り、彼を支える。彼女の指もまた、黒い粉で汚れている。後ろから、もう一つの声が聞こえた。ハナだ。村で透と同じ軒先を守ってきた少女。彼女は花冠に近づいていく。
「私が、止める。ここで見ているだけはできない」ハナの手には、古びた木の箱があった。箱の蓋には小さな刻印――個人の誓いを書き留めるためのものだ。ハナはそれを抱え、澄んだ声で続ける。「誰かが記憶を奪われるたび、この箱を開く。自分の名前を書き、花冠に捧げる。でも、私はただ守られるだけの人間じゃない。誰かが『救済』を受け入れることで呪いが膨らむなら、私が一つの選択を手放す。私が自らの名前を忘れて、英雄の枠を外れる」
透は首を振った。ハナの瞳は揺るがない。彼女の手が震えているのは明らかだが、その震えは恐怖ではなく決意の震えだった。仲間たちの顔が同時に変わる。ミレイの唇が白くなり、陸斗は歯を噛んだ。誰も彼女を止めなかった。止められないのだと、透は知っていた。
「それを……やると、どうなる?」透は問いながらも、わかっていた。誰かが名を捧げると、英雄の枠組みは一つ減る。だがその代償は重い。個人の記憶――守るための理由、名前、過去の断片を自ら手放すことで、呪いの伸長は逆向きに止まる可能性がある。だがその行為は、その人の「守られる理由」そのものを奪う。
ハナは箱を開けた。中には紙と筆と、薄い蝋のようなものが入っている。彼女は筆を取り、震える文字で書き留める。透の耳には文字を書く音が、雨粒のように聞こえた。筆先が紙を走り、最後に自分の名前を書き落とす。ハナの唇は一度だけ動いた。最後の確認のようだった。
「これでいいのね」ミレイが小さく囁く。
ハナは答えず、箱の中の紙を折り畳むと、口元へ寄せた。温かい息が紙に吹きかけられ、蝋が溶けるようにして封を終える。彼女は深呼吸をして、箱を花冠のふもとに置いた。黒い液が滴る隙間から、聖冠府の使者がその動きに気づいて目を剥いた。
「馬鹿なことを――!」彼は叫んで身を投げ出した。だが陸斗がその腕を掴む。押し問答の中で箱は花冠の周縁を転がり、光る何かに触れた瞬間、花冠の回転が一瞬だけ止まった。空気が切り立つように静まる。黒い汁の落下が止まり、黒斑が一つだけ縮こまった。
透はそれを見て、胸の底にある鋭い痛みが一瞬だけ鎮まるように感じた。だが同時に、彼の頭の中からまた一片の記憶が消えた。父の顔の輪郭、最初に抱いた筆の感触、幼い頃の約束のひとつ――なぜか彼の胸に残ったのは、ハナが彼に微笑んだときの明るさだけだった。輪郭はぼやけているが、暖かさは確かだった。
ハナは膝をつき、箱を抱えて震えながらも笑っていた。涙が頬を伝った。彼女の笑顔は、何かを失ってしまった人のそれだった。
「私は、覚えていなくてもいい。誰かが思い出を盾にされるのはもう嫌だったから」ハナの声は小さかったが、周囲に確かな波