花を腐らせる画家は偽りの英雄を倒す

花を腐らせる画家は偽りの英雄を倒す 第16話「第14章」

工房の窓は既に夜の黒を引き伸ばし、月光は薄い絵具の層に触れて冷たく反射していた。ユウはキャンバスの前に立ち、指先で濡れた絵の縁を撫でる。油彩の匂いと腐った花の生臭さが混じり合い、鼻腔を刺した。床には昨日拾ってきた花束が散らばっている。花びらはもはや柔らかくなく、紙のように折れ、指先に触れると粉のように崩れた。

工房の窓は既に夜の黒を引き伸ばし、月光は薄い絵具の層に触れて冷たく反射していた。ユウはキャンバスの前に立ち、指先で濡れた絵の縁を撫でる。油彩の匂いと腐った花の生臭さが混じり合い、鼻腔を刺した。床には昨日拾ってきた花束が散らばっている。花びらはもはや柔らかくなく、紙のように折れ、指先に触れると粉のように崩れた。

「準備はいい?」ミラが低く尋ねた。彼女の声にはいつもの気負いはなく、静かな決意がこもっている。彼女は防寒のコートのポケットから小さな木製の箱を取り出した。中には木片と、古い写真が一枚。写真には笑っている一人の女が映っていた──暗い瞳、少し欠けた前歯。ユウはその顔に見覚えがある気がしたが、指の先が震えて署名できない空白のように、その記憶はつかめなかった。

「この街の討論会場に持ち込むんだ。証言を『束ねる』には、いつもより強い触媒が必要になる。花の力で形を結べば、スクリーンで見せるだけで済む」セルムが言う。彼の声は冷静だが、背後に走る期待の色が見える。外では遠く、街灯の下でパレード用の太鼓が軽く鳴った。討論会の当該区域では明日、偽りの英雄団の代表と市民代表団の公開討論が行われる。そこに「真実」をぶつける計画だ。

ユウは筆を持ち上げた。ブラシの毛がキャンバスの上で溶けるように滑るたび、彼の能力が目を覚ます。彼の描くラインはただの形ではない。小さな記憶の断片、被害者たちの言葉、触れたものの怯えた息遣いが絵具に溶け込み、暗い層を成していく。彼が描き終えるたび、キャンバスからは低いうなりにも似たささやき声が漏れる──ぼそり、ぼそりと、誰かが長年胸に閉じ込めてきた断片的な真実が縫い合わされていく。

最初の一筆を置いた瞬間、工房の端に置いてあった花束の一輪が、ねずみ色の汁をにじませるように黒ずんだ。花弁が紙のように膨らみ、ほどなくしてへし折れた。ミラが顔をしかめ、鼻を抑える。「来るね……」

ユウは筆をさらに押し付ける。彼が引き出すのは、ただの声ではない。ここ数ヶ月、彼らが救おうとした者たちの選択の瞬間──医療を受けるか見捨てられるか、子を差し出すか抱き続けるか──そうした選択が、ひとまとまりになってキャンバスに凍りつく。そして同時に、彼自身の記憶が一枚、薄く、剥がれていった。最初は小さな穴のようで、瞬間的に消えた。幼い日の夕飯の匂い、右手にいつも巻いていた古い包帯の感覚、そうした何気ないものが、彼の内部からさらわれる。

「ユウ、顔が青いよ」ミラが囁いた。ユウは額に冷たい汗を感じながら首を振る。だが首を糸を引くように回すと、ふと手の甲に刻まれた小さな刺青が目に入った。そこには、薄く「SANA」と彫られているように見える。ユウは固まった。サナ──その名前がかすかに響くが、どんな人か、どうしてその名前がここにあるのかが掴めない。心の奥から消えた景色が、穴になって痛い。

「やめる?」セルムが真顔で尋ねる。ユウは数秒、筆を止めた。キャンバスは薄く波打ち、そこから新しい声が流れ出す。老婦人の震える告白。寄せ集められた幼児の泣き声。英雄団による「救済」の契約書類を読み上げる男の平然とした声。どれもが、彼らがこれまで集めてきた断片の延長線上にある。だが同時に、ユウははっきりと悟っていた:これを公の場でばら撒けば、確かに真実は強烈に伝わるだろう。だが力は代償を呼ぶ。彼が他人の選択を、被害者の代理として救済の方向へと押しやるとき、その「救済」の強制性が呪いを増幅し、見せた人々から選択の余地を奪う。英雄団が使ってきたのと同じ仕組みと、彼の能力はどこかで接続している。

「このまま放てば、あの討論場の花壇も──」ミラの言葉は詰まった。思い出されるのは、以前彼らが小さな街で仕組んだ公開暴露のとき、客席に置かれた手渡しの花が次々と萎え、人々の顔から色が消え、答えられなくなった光景だ。あれはユウの能力が引き起こした結果であり、同時に英雄団が編んだ支配の形だった。彼らの「救済」は表向き選択を残しているように見えて、実は選択の条件そのものを操作していた。ユウは初めて、自分の行為が制度と同じ根を持っていることを、身を裂かれるように感じた。

「選ばせるんだ」とミラが言った。だがその選択の仕方でさえ、二つに分かれていた。ひとつは、彼らが計画してきた「一斉暴露」。スクリーンにキャンバスの映像を大映しにして、被害者の声を一気に流す方法。真実が人々の胸を切り裂き、討論を強制的に動かす。もうひとつは、個別の接触。被害者自身が、ユウの描いた小さな断片を自らの意志で見ることで、花が一輪ずつ腐るのではなく、同時に癒える余地を作る方法。

「ユウ、あなたはどうしたいんだ」セルムが言葉尻を落とさずに問う。ユウは筆を指先で回しながら、キャンバスの濃淡に自分の瞳を合わせた。そこに映るのは、歪んだ花、笑っているはずの顔、そして消えかけた自分の幼い影。彼は気づく。自分が記憶を犠牲にして人の選択を押し戻す行為を続ければ、やがて誰も自分のことを覚えていない世界ができるだろう。救済は永遠に孤独な行為になる。

「一人ずつにしか見せられないなら、時間がかかる。だが、強制するよりは──」ユウの声はかすれていた。ミラが箱を開けて写真を差し出す。写真の女の瞳がユウを捕らえる。何かが胸を引っ張るように痛む。ユウは震える手で写真を受け取り、その紙の感触を確かめた。光沢のある顔の上に、彼の指紋がうっすらと残る。写真の裏には、夜の遠出の匂い、缶詰の音、彼が忘れかけていた小さな出来事の断片が引っ掻かれるように蘇る──しかしその記憶は同時に、薄れる。一つの思い出を掴むと、別の思い出がするりと抜け落ちる。

「サナ……」ユウは呟いた。声はほとんど届かない。ミラの眉がぴくりと動く。彼女は答えを出したように顔を上げる。「なら、私たちがやる。あなたは描いて。私は託す人々の元へ行く。セルムは広報を操る。強制的に流すのは最後の手段のみ。まずは、一人ずつ、自分で見ることを選ぶ余地を作る。誰かがそれを望めば、ユウの絵はその人の中で真実になる──ただし、それにはおまえの記憶が消える。それを覚悟できるか?」

その言葉を聞いた瞬間、ユウの内側がふるえる。覚悟とは何か。彼は自分が何を守りたいのかを思い出そうとする。守る対象は群れ──或いは一人の顔か。答えは輪郭だけが残り、色は洗い流される。ミラは手を伸ばし、ユウの肩をぎゅっと掴んだ。その温度は現実的で、彼を支えるためのものだと分かった。だが同時に、その手の温もりが、これから奪われるであろう記憶の冷たさを予告しているようでもあった。

セルムが不意に工房の窓の方を見た。「だが一つ、忘れてはいけないことがある」彼は言って、引き出しから黄ばんだ紙片を取り出した。そこには小さな印章と、列挙された名前の一覧があった。ユウは字面を追おうとしたが、文字が踊るように見えた。セルムは続ける。「これは──英雄団が使っている『選択簿』だ。人々が救済を選んだ証拠を記録している。だが我々の調査では、この簿は『選んだ人間の情報』を媒介に、呪いのネットワークを拡張する装置としても働いているらしい。つまり、我々が真実をばら撒いてその場で多くの『救済の選択』を生ませれば、簿はさ