花を腐らせる画家は偽りの英雄を倒す

花を腐らせる画家は偽りの英雄を倒す 第17話「第15章」

長机の上で、絵は途切れていた。中央で大きく描かれた花弁は、乾いた亀裂を刻むように黒ずみ、絵具の艶はすでに曇っている。匂いが立った。腐った花のような甘さと、鉄を噛むような味を口に含んだ時のような苦みが、会場の薄暗い空気を覆った。

長机の上で、絵は途切れていた。中央で大きく描かれた花弁は、乾いた亀裂を刻むように黒ずみ、絵具の艶はすでに曇っている。匂いが立った。腐った花のような甘さと、鉄を噛むような味を口に含んだ時のような苦みが、会場の薄暗い空気を覆った。

「ノアさん、本当に……これでいいのか」
航太が声を低く落とす。彼の手はテーブルの縁を掴んで白くなっていた。集まった町の人々は口々に囁き、子どもたちは床に座って足を組んでいた。室内には、午後の斜光が窓の格子から差し込み、埃を浮かせる。誰もが、その半完成の絵を見ていた。

ノアは筆を持つ手を止め、曖昧な笑いを一つ漏らした。手の内側に小さな痺れが走る。記憶の縁から、ふとした音が消えていく感覚。母が使っていた湯のみの柄、幼い頃に摘んだ青い花の名前――それらが、視界の端から薄れていく。

「これで、強制ではなく選べる場を作るんだ」ノアは低く言った。「全部を束ねれば真実は強くなる。でも──」言葉はそこで切れ、唇が震えた。「全部を縫い合わせると、私の中の欠片が消える。救済を強要するほど、この呪いは暴れる。花が、身体が、もっと腐るんだ」

弥生が前に出た。小柄だが目は鋭い。ノアと違って、彼女は言葉に迷いがない。「だから部分で、断片で。ここにいる一人一人が語れる余地を残すの。それが私たちの策略。ノアは“束ねる”絵を使うけれど、綺麗に閉じないでおく。皆が自分の言葉で繋げるの」

人々はざわめいた。誰かが差し出した布切れに、傷の跡や小さな木の欠片、押し花が載っている。これらが、証言の代わりだ。航太がそれを一つずつ並べると、弥生がゆっくりと語り始めた。彼女の声は最初は震え、しかし次第に確信を帯びていく。語られる断片が、テーブルの上でこまごまとした物語を作っていく。

ノアは筆を入れた。描くのは、あえて未完成の輪郭。花弁は互いに重なり合うが、縫い合わせられることはない。線は途切れ、ある部分は下地のまま残された。描くたび、彼の胸の奥で小さな穴が広がるように感じる。過去の一枚、友人の顔の輪郭が薄れていく。だがその代わりに、会場の空気は少しだけ静かになった。人々が自分の言葉を呑み込まず、互いに見つめ合っていた。

「それで、救済の選択はどうするんだ?」と、年老いた女が訊ねた。顔に刻まれた皺が深い。彼女の隣に立つ少年の目は怖れているが好奇心が勝っている。

奥の扉が急に開いた。黒革の外套を羽織った執行官が、静かに足を踏み入れた。執行官ロム。城から来る者の一人で、栄誉と秩序を唱える側の代表的な存在だ。彼の目は冷たく、笑わない。周囲の空気が緊張で引き締まる。

「集会は許可されているのか?」ロムは低く問うた。声は穏やかだが、鉄の一枚を持つ手つきが人を威圧する。弥生が前に出て、許可書を差し出す。ロムはそれを短く無視した。

「ノア・イサヤか。噂の画工。ここで何をするつもりだ?」彼は絵を一瞥し、その腐臭をすう、と鼻を鳴らしたように見せた。だがロムの表情が硬直したのは、絵の片隅に、まだ誰も気づいていなかった小さな痕跡が浮かび上がった時だった。薄く描かれた布片――それには見覚えのある刺繍の断片が描かれていた。空の紋章のように、三つの剣が交差した簡素な図形が、虚ろに描かれていた。

ロムの顔が一瞬、色を変えた。誰もそれを言葉にはしなかったが、会場の温度がぐっと下がった。彼はその刺繍を指先で触りたそうに眺めた。

「この紋は……」誰かがつぶやいた。子どもの一人が立ち上がり、近寄っていく。少年は無邪気に絵に指を伸ばし、絵具に触れた。指は黒く染まったが、少年の表情は驚きではなく確信だった。「おじさんの歌に出てくる紋だよ。英雄の旗」

会場中が静まり返った。英雄――王権が飼い上げた、民に讃えられる存在の象徴である。その紋章がここにあるということは、噂以上の意味を帯びる。ロムの手が震え、彼は急に冷たく笑った。

「それを証拠に変えるつもりか?」ロムが低く言った。「我らの名誉に泥を塗るなら、これには相応の代償がある」

彼の言葉に、ノアの胸が強く締めつけられた。強制的な救済、強制的な赦し――ロムの言葉はいつも、秩序を正当化するために個人の選択を奪う方法を含んでいる。ノアは以前、真実を全て束ねたとき、誰かの命を無理に「救済」する形で絵を使ってしまったことを思い出す。救済の言葉を使った日、会場の花は実際に枯れ、そこにいた数人の記憶が穴を開けるように消えた。呪いはその時、目に見える形で激しくなったのだ。

「もし私に全ての証言を束ねさせろと命じるなら、私はそれをしない」ノアは静かに答えた。「それをやれば、呪いはここにいる誰よりも強くなる。そして私は──私が大切にしているものを失う」

ロムはニヤリとした。「では、選択を与えると言うのか。市民に判断を委ねる?それで秩序は守れるのかね。英雄の名誉は、民心の安定に必要なのだ」

弥生が強く反論した。「安定のために嘘を垂れ流す制度こそが、この国を蝕んでいる!人々は自分で真実と向き合う術を奪われているだけ。今ここで、ノアさんはそれを取り戻す橋を作ろうとしている」

ロムは間を取ってから、ゆっくりと扉に向かった。だが扉の前で彼は立ち止まり、振り返る。「ただし一つ──もしこの集会が、某の名誉にかかわる証拠となりうるならば、私はそれを城へ持ち帰る。あなたたちがどれだけ小さな真実を残そうとも、我々はそれを全体へと繋げることができる。そうなれば──君は、自分の記憶と引き換えに何を守る?」

その言葉が放たれた瞬間、空気が絵の周辺に引き込まれるように冷たくなるのを、ノアは感じた。背筋がヒリヒリする。絵の花弁の黒い部分から、細い筋が生えていくように見え、床に置かれた本物のヒマワリが一枚、音もなくしなり始めた。会場の誰もそれに気づかなかったらしい。子どもの指先が、絵の縁に触れたことがきっかけかもしれない。ノアの中で、呪いが息を吸い込んだ。

「それならば」航太が前へ出て、胸のあたりに掲げた拳をぐっと握った。「僕が持っていく。城までは行かない。隣村の議会へ、これを持って行く。皆が自分で見て、話して判断するために。ノアはここで、描き続けてくれ」

航太の言葉に、会場の視線が移る。弥生の目が潤んでいるのをノアは見逃さなかった。航太は静かに笑った。「もし城がこれを奪おうとするなら、僕はその前に町の声を集めて回る。強制はできない。選択は、奪われている人たちの手で取り戻されるべきだ」

ノアは頷いた。選択の場を増やすことが、今の最善だと感じた。全てを一度に暴けば、彼自身が消える。誰かに代わって決める資格はない。だが──その決断の直後、ノアの胸に新しい空洞ができるのを感じた。母の笑い声が一片、名を失って消えた。替わりに、絵の中の刺繍が、わずかに色を変えた。花の黒ずみが、指の先から床へ、さらに外へとほんの一瞬だけ波紋を広げる。航太はそれに気づき、無言で頬を強張らせた。周囲の花瓶の水面に、油のような黒い膜が一瞬垂れて波紋を作った。

「それでもいいのか?」と、古い女がノアに向かって言った。「記憶を削ってまで、こんなことを続けるのか」

ノアは筆を置いた。手のひらに残る絵具が、冷たく乾き始めている。彼は自分からふるえ声