花を腐らせる画家は偽りの英雄を倒す 第15話「第13章」
夜の冷気が、舞台の裏手に立てられた控え幕の布地を震わせた。巨大な演壇を囲む金属の骨組みが、遠くで照明によって白く浮かび上がっている。観衆のざわめきはまだ届かない。だが表の広場にはすでに群衆が押し寄せ、明日の公開討論は祭りのように膨らんでいた。
夜の冷気が、舞台の裏手に立てられた控え幕の布地を震わせた。巨大な演壇を囲む金属の骨組みが、遠くで照明によって白く浮かび上がっている。観衆のざわめきはまだ届かない。だが表の広場にはすでに群衆が押し寄せ、明日の公開討論は祭りのように膨らんでいた。
「ここでやるのか、ほんとうに」
壁にもたれた小さなキャンバスに向かって、椿莉央(つばき・りお)は静かに問いかけた。手には細い筆、傍らには一束の白菊。菊は、かつては彼女が描くものの中で最も扱いやすかった花だ。だが今は、その白が影を帯びている。
「あなたがいなくては、私たちは」と言ったのは、仲間の一人、佐雪(さゆき)だった。佐雪は地域の人々のために奔走する若い活動家で、人前で声を出すことを厭わない。だがその顔には疲労と恐れが混ざっている。彼女は明日、議場で証言することを望んでいた。
莉央は筆先で菊の一枚目の花弁をなぞる。筆から出る色は、花の白さを追うようにして淡い灰色へと変わっていった。触れた瞬間、空気が変わる。紙の中で小さな振動が生まれ、花弁はやがてみずみずしさを失い、薄く茶色い斑点が広がった。菊は腐り始めたのではない。莉央の絵が、花そのものを「過去」として取り込み、変質させているのだ。
「いつもと違うわね」と、傍らにいた元軍人の三果(みか)が言った。三果は戦場を抜け出した腕っ節の強い女性で、表情を変えることが少ない。だが今は、その目が子供のように見開かれていた。
莉央は筆を止め、口を開いた。「あなたの証言、佐雪。――あなたが今日まで隠していた真実を、ここに載せる。私が描き上げれば、あの場で証言が『束ねられる』。人々は一つの形として見る。誰かの言葉ではなく、みんなのものとして認めるように。」
佐雪は息を吸った。手が少し震えている。「私の……家族のこと。英雄イルムがやったことのこと。明日言ったら、子どもたちが狙われるかもしれない。だけど、黙っているわけにもいかない」
莉央は俯き、白菊の中心に筆を落とした。三果が近づき、佐雪の腕を掴む。暖かい身体の感触が、莉央の指先を通じて波紋を伝えた。筆先が震え、絵の中の菊はさらに黒い脈を走らせた。描画の最中、菊からかすかな腐臭が立ち上った。鉄のような、湿った土のような匂いだ。佐雪は顔を顰めた。「何だ、その匂い……」
「呪いの匂いよ」と莉央は低く言った。「私が真実を帯びると、花は呼応する。だが――」彼女はそこで言葉を切った。胸に、ひりつくような痛みが走る。何かが胸の奥から削り取られていく感覚。頭の片隅にあったはずの、小さな日の記憶がふわりと宙に浮き、光を失った。
「何か忘れてる?」三果が訊ねる。声の色に警戒が混じる。
莉央は手を振った。「大丈夫。ちょっと今、風が強いだけ」本当のことは言えない。記憶の消失はいつも静かに来る。花弁一枚につき、彼女は何か一つの記憶を代償として渡していた。名前や匂い、誰かの笑い声――日常の細かなものから、時には自分の生い立ちに関わる重いものまで。使うたびに彼女の過去は薄く、そして深く擦り切れていく。
だが押し迫る時間。討論は明朝に迫っている。白河(しらかわ)徹という高官が提案した公開討論は、すでに王権と宗教が後押ししている大舞台になってしまった。白河は議場の光塔を動員して放送を全国へ流す手配をしているという。莉央はそれを聞いたとき、胸が跳ねた。もし自分の「束ね」が光塔を通じて一斉に放映されれば、真実は瞬時に拡散される。だが同時に、彼女の呪いもまた──拡散する。
「光塔で流すつもりらしい」と三果は低く言った。「あの装置はただの放送機械じゃない。人の感情を増幅する仕組みがある。島の中心にある遺物を利用している。知ってるよね?」
莉央はゆっくりと首を振った。ふとした瞬間、筆の感触が遠くなる。繊細な筆圧の感覚が薄れ、彼女は正確に線を引けなくなる。白い指先の先で、かつて慣れ親しんだ筆致が曖昧になった。彼女は自分の手に宿っていたある日の朝の香りを思い出そうとするが、そこにはただ空白があるだけだった。師匠の声、初めて絵を描いた屋根の瓦、幼い頃に守られた庭の名も――消えていた。
「莉央!」佐雪の声が彼女を引き戻す。顔色が青ざめている。三果が肩を叩き、落ち着かせた。「今は止めろ。明日は、他の方法があるかもしれない」
だが仲間たちの選択は分かれていた。芸術家でありながら真実を武器にする莉央を頼る者、彼女の代償を恐れて距離を置く者。その夜、控え室では議論が白熱した。
「私が出る」と言ったのは、小さな身長の女だった。千早(ちはや)。彼女は英雄イルムの名を最初に公開した一人で、息子を失った母である。千早の手は震えていたが、声は確かだった。「私の子は、イルムの軍がやった。私が証言しなければ、誰がするの?」
「だけど、あなたが公に出れば、報復は確実に来る」と佐雪が答える。「莉央が絵で真実を束ねたとしても、政府は受け入れないわ。むしろそれを理由に鎮圧を正当化するつもりよ」
千早は俯き、小さな手で胸元の布を握った。「私、待てない。待っていたら、消えてしまうものがあるの。息子の笑顔とか、名前とか。私はそれを忘れたくない。莉央さん、あなたが代わりに忘れてくれるなら、私は出るわ」
その言葉は、控え室の空気を凍らせた。忘れを代償にするということは、莉央が自分の大切な記憶を渡し、代わりに千早の証言を確かなものにするという意味でもある。それは救済の強要だ。彼女が他人の救いを自らの喪失で保証すれば、呪いは増幅する。増幅された呪いは、花の腐敗だけに留まらない。周囲の生き物に触れ、また光塔を通じて拡散し得る。
「私はそんな真似……」莉央は言いかけて、言葉を飲んだ。喉が刃で削られるように痛い。ここでの決断は、単なる個人の犠牲の問題ではない。制度がそれを利用し、さらに広げる可能性がある。
沈黙が流れ、三果が静かに立ち上がった。「選ぶのは千早さんだ。莉央、私たちはあなたを止めない。だけど、あなた一人に全部を背負わせる気はない。明日は、私も兵士としての経験を暴く。私の証言は物理的な傷が伴う。私はそれを共有する。ほかの者も、それぞれを出すか出さないか決めてくれ」
佐雪は額に手を当て、目を閉じた。「私も出るわ。だが放送には乗せないで。白河の計画を潰す方法を探す。私たちの言葉を選んで、外へ出す」
その時、控え室の扉が開き、青年が息を切らして入ってきた。名前は紗良(さら)。彼は技術屋で、裏方を担うことに慣れている。手に小さな装置を抱えていた。装置の外筐には、幾つものワイヤと小さな録音盤が露出している。
「見つけた」と紗良は荒い息で言った。「光塔の中継経路の一部にアクセスできる。通常なら放送だけど、録画に差し替えられる。放送を止めて、事前に録った『束ね』を流せば、白河は混乱する。だが、それは放送を奪うクーデターに等しい。成功すれば真実は拡散するが、失敗すれば全員が標的になる」
莉央は手に持った筆を見つめた。筆の先に、微かな腐臭が留まっている。胸の痛みは少しも和らいでいない。彼女は思い出そうとした。幼い日の庭、母の手、筆を握る幼い自分の感覚。だが砂嵐のように、それらは彼女の中から消え去っていた。代わりに、目の前の