花を腐らせる画家は偽りの英雄を倒す 第14話「第一部幕間」
アトリエの戸を押し開けると、湿った空気が頬をなでた。蒼く薄暗い午後の光が、床に散らばった絵具のチューブと縫い合わせたような布片を銀色に浮かび上がらせる。神代藍は、テーブルに置かれた小さなキャンバスをじっと見つめた。キャンバスの表面には、先週ここで突貫で縫い合わせた断片的な証言の色がまだ乾かないうちに層を成している。黒ずんだ花びら、子どもの指先についた土の色、兵の軍靴に映った青白い朝──それらが重なって、ひとつの「視界」を作っていた。
アトリエの戸を押し開けると、湿った空気が頬をなでた。蒼く薄暗い午後の光が、床に散らばった絵具のチューブと縫い合わせたような布片を銀色に浮かび上がらせる。神代藍は、テーブルに置かれた小さなキャンバスをじっと見つめた。キャンバスの表面には、先週ここで突貫で縫い合わせた断片的な証言の色がまだ乾かないうちに層を成している。黒ずんだ花びら、子どもの指先についた土の色、兵の軍靴に映った青白い朝──それらが重なって、ひとつの「視界」を作っていた。
「戻ったか」裏口から音を立てて入ってきたカイが、肩に載せた古い軍用のコートの裾で泥を払った。無造作な物言いだが、目は変わらず鋭い。続いてミラが荷物を下ろすと、小さな紙袋から蒸気の上がるスープを取り出した。三人の間に、昨夜通りで差し出された紙切れの山と官憲に押収されたあの大作の影が沈殿している。
「押収された絵は戻らないだろう。役所の倉庫は焼け石に水だ」カイが言った。彼の声には怒りが混じるが、疲労の粒も着いている。カイは自分の勝利の物語を語る時と同じ低さで言葉をつなぐ。軍にとって、物語は秩序の潤滑油だ。誇張と省略があればそれでいい。
神代はキャンバスに手を伸ばした。指先がまだ少しべたつく。彼がこの小さな作品でやろうとしていることは、例の大作をもう一度作り直すための鍵になるはずだった。被害者たちの断片を、最小単位に解してまた織り直す。だが、その作業にはいつも代償がつきまとう。
「やるのか?」ミラが訊く。彼女は目を伏せながらも、声に揺るぎはない。「もし……もう一度、誰かの記憶をここに縫うなら、その人は楽になるかもしれない。でもあなたは、何を失う?」
神代は唇をかんだ。思い出せないことが増えている。幼い頃に飼っていた猫の名が思い出せない。父の声の細部が霧の中で薄まって、代わりにキャンバスの中の景色が鮮明になる。呪いはいつもこうだ。記憶を渡せば、真実は光る。だがその光は、神代自身の周縁を塗り潰していく。
「一度だけ」神代は短く言った。「ソラの断片だけ。あの夜、門辺の植え込みで何が起きたかを。」ソラ──幼い女性は、まだ震えが残る顔で隣の小屋に座っていた。彼女の手は冷たく、掌には市の印の入った紙切れが焼き付いたように残っている。神代は彼女を見た。目の奥にある羞恥と恐怖を拾い上げると、自分の胸が締め付けられるような感覚を覚えた。記憶を「縫う」べきだという欲望が疼いた。真実を編み上げれば、白冠の英雄の光は曇るかもしれない。
筆を持つと、絵具の匂いが鼻腔にしみ込む。油の甘い匂い、樟脳の刺激、黒くなった花びらから立ち上る腐敗の匂いが混じって、ひとつの荒々しい香りになる。神代の掌に塗料が付き、キャンバスに触れるたびに小さな抵抗が手首に伝わる。彼はソラの言葉を思い出す。短く、断片的だった。「兵が……救われたのは、私たちじゃない。家を出ろ、と言われた。出て行かないと、忘れると。」言葉の端が破れている。そこを神代は糸針で繕うように、筆で掬い取った。
絵の中で門の影が滑り、泥が靴底に押し付けられる。ソラの視点がキャンバスの表面に広がる。神代は息をとめ、筆先の感覚を全身で受け止めた──すると同時に、視界の端が薄く溶けていった。左の耳にあったはずの、母の歌声が遠くなる。名前が口から滑り落ちる。神代は咄嗟に筆を止めたが、遅かった。
「神代、止めて!」ミラの声が割れた。彼女はソラの方へ駆け寄り、震える手を握った。だがキャンバスでは門の向こう側でできた光景が完結してしまった。ソラの顔、服の裾、兵の徽章の端──生々しい断片がそこにある。神代はその絵を見て、息を吐いた瞬間、自分の胸の中にあったはずの小さな肖像画の記憶が空白になっているのを感じた。母の顔の輪郭だけが、指先に残る粉みたいにこぼれ落ちた。
「何か、なくした?」カイが低く言う。神代は頭を振ってみせたが、確信が持てない。どこかに置き忘れたという感覚だけが残る。だが同時に、ソラの表情は変わった。口元にあった震えが止まり、まるで重い布が頭から外されたように、肩が落ちた。
「……思い出せる」ソラは目を閉じて息をついた。「あの夜、緑の布に印があった。局の印章。『救済局』って。」音は小さかったが、アトリエの壁にしっかりと刺さる。ミラとカイの顔が硬直する。救済局──それは州の手先で、栄誉と引き換えに記憶を削る公の制度を管理する存在だ。噂はあったが、確証はなかった。
その瞬間、外から人々のざわめきが届いた。窓の外、村の中央広場に立つ花壇の上で、幾重にも植えられた花びらが一斉に黒ずみ、ぽたりと落ちていく。音は小さいが、連続するそれは不協和音のように冷たかった。誰かの叫びが続き、戻ってきた村人が走り込んだ。花が腐る――神代が筆を置いたことで、呪いの振幅が辺りに波を作ったのだ。
「救済局の印章?」カイが唇を噛む。「それを示せるのか?」
神代はソラの絵の片隅に小さな、濃い紋様があるのを見つけた。それは、彼が知らずに拾い上げた断片の一つだ。印章の輪郭に似た黒い点が、絵の中で光を吸っていた。だが同時に彼の意識の隅にあるものがぽろりと抜け落ち、幼い頃に教わった屋根の瓦の配列が消え去った。記憶の代償は確かに払われている。
ミラが立ち上がる。「私が行く。村人たちには、選ぶ時間を与える。強制はしないと約束する。誰も強制されるべきじゃない」彼女の手が固い。ミラは自分の家族を危険に晒したが、それでも彼女は人々の主体を信じようとしている。彼女の瞳に揺るぎはなかった。
カイは違った。彼は拳を握ると、海のように深い決意で言った。「俺はあの倉庫へ行く。絵を取り戻す。力を見せつけられたところで黙ってはいられない」カイの背中には軍の頃の習性が残っている。問題は、押収された大作が公の場で「英雄の栄光」を増強するために利用されるかもしれないということだ。取り戻すという行為は、直接的な対決を意味する。
ソラはしばらく沈黙して、それからかすれた声で言った。「私……忘れられたくない。もしあの印章が本当に救済局のものなら、私の名前を消される日が来るかもしれない」彼女の目に決意が生まれた。誰かが自分の記憶を削り取る前に、自分の言葉を他の人にも触れさせたい。記憶を分かち合うことが、自分の安らぎだと理解した。
神代は二人を交互に見た。ミラは共同体に戻って人々の選択を助けるだろう。カイは単独で倉庫に向かい、取るべきものを取り返そうとする。ソラは名を残したいと望む。彼自身は、もう一度大作に挑むべきかどうかで足がすくむ。筆を置いた瞬間、花壇の腐敗の広がりは小さな波紋となって村の外へ広がり始めていた。呪いの増幅が制御されない限り、被害は大きくなる。
神代はそっと手を握った。指先にはまだ乾きかけの黒い粒が残っている。記憶の欠落が増えるたびに、自分が守ろうとしている人々の顔が遠ざかる危険と、真実を明かすことで彼らが選べる手段を得る可能性が天秤の両端で揺れている。
「二つを選べ」カイが低く言った。外套の縁に付いた泥を叩き落としながら、彼は続ける。「一つは絵を取り戻す。もう一つは、ここに残って、ソラたちを助ける。どちらかを選べ。だがどちらも、お前一人の仕事じゃない。覚えておけ」
その言葉