花を腐らせる画家は偽りの英雄を倒す 第13話「第12章」
大広間の空気は、最後の鐘が鳴り止んだかのように静寂を保っていた。 vaultedな天井から下がる金糸の飾りが揺れ、壁面に刻まれた月桂樹の彫像が同情を忘れた石の目でこちらを見下ろす。中央の大理石の床に広げられた一枚の粗布──宗像海斗の描く「掲示の画」が、それ自体が嵐の目になっていた。
大広間の空気は、最後の鐘が鳴り止んだかのように静寂を保っていた。 vaultedな天井から下がる金糸の飾りが揺れ、壁面に刻まれた月桂樹の彫像が同情を忘れた石の目でこちらを見下ろす。中央の大理石の床に広げられた一枚の粗布──宗像海斗の描く「掲示の画」が、それ自体が嵐の目になっていた。
布の上には黒ずんだ花弁が山のように積まれている。腐臭が鼻孔を刺し、喉が渇く。海斗はその花弁を水で溶き、筆を握った。筆先が布に触れると、音がした。粟立つような小さな音。筆先が描線を引くごとに、布の表面から淡い光が滲む。光は花の色を奪うのではなく、誰かの声を拾うように震えた。
「ここで止めるべきだ、海斗」――厚い鎧をまとった男、聖将ヴァレンがゆっくりと歩み出る。彼の背後には式服を着た司祭たちと、王旗を振る衛兵の列が続いた。軍装も祭服も、長年にわたる勝利礼讃の油で光っている。ヴァレンの顔は疲れているが、それ以上に演じられた優しさで形作られていた。
海斗は振り向かない。筆は止まらない。布の上に描かれていくのは、昨夜ここを逃げ出した村人の手のひら、宗教施設の地下に押し込まれた証言、そして子どもたちの震える声だった。結(ゆい)が布のそばに跪き、震える声で付け加えた。
「私は見た。聖将が救ったと言われる夜、扉は閉ざされていなかった。人々は自ら出て行くことを許されなかった。『英雄』の名のもとに、選択の自由が削がれていったのを。」
布に吐き出された言葉は、海斗の筆が吸い込み、ひとつの景色に集まっていく。能力はいつもと同じように働いた。「証言」を絵に束ねると、その中の声は一つになり、触れる者に同時に伝わる装置となる──だが代償はすぐ隣にあり、既に海斗の額の汗となって滲んでいた。
最初の一筆の後、海斗の胸の中で何かが薄れていった。微かな記憶の糸が切れる感覚──母が編んでくれた青い手袋の匂い、八歳の冬に鼻をかんだ紙のしわ。彼は手を止めるが、布は描き続けられる。結が海斗の手に触れて「大丈夫?」と囁く。海斗は答えようとしたが、言葉が珠になって崩れ落ちた。代わりに筆がひと撫でしただけで、古い写真の輪郭が風化したように彼の記憶が溶けた。
「海斗、覚えてる?」結の声が割れる。「私たちが初めて出会った日のこと、まだ——」
海斗の返事は、空白だった。代わりに、布に描かれた一組の影がはっきりし、触った者の胸を締めつけた。広間の端で見守る群衆の顔が、少しずつ変わる。装飾の陰に隠れていた人々が、指先を布に当て始める。触れるたびにその人の眼の中に別の景色が差し込む。誰もが一度に見るわけではない。見ようとした者だけが、真実を受け入れる。
ヴァレンは歩み寄り、声を抑えて言った。「これは愚行だ。真実を曝すだけで人は救われるのか。選ばれぬ者はどうする?あなたのやり方は、強制だろう?」
海斗は筆を布に沈め、答えた。「強制はしない。触れた者が選ぶ。触れぬ者は触れぬ自由を持つ。」
ヴァレンの目は、怒りと戸惑いが混じる。彼は衛兵に命じた。強引に人々を布に連れて来るように。衛兵が群衆の腕を掴んだ瞬間、布の周囲に植えてあった飾り皿の中の花が、ぱさりと黒く崩れ落ちた。空気が重くなり、群衆がむせ返る。誰かが嗚咽を漏らした。
海斗は叫んだ。「やめて! 強制すると、呪いが増幅されるんだ!」
呪い──花を腐らせる力はただの視覚効果ではない。強制によって受け手の意思が折られる瞬間、呪いは膨張し、肉体的な害も引き起こす。海斗は知っている。以前、救おうと無理に真実を押しつけた町で、それが一瞬で疫病のように広がった。今、この場で同じことが起ころうとしている。
だが命令は続く。衛兵が一人の老女を布に引き寄せる。老女の顔から笑みが消え、目が真っ赤になった。布の黒い花粉が彼女の唇に触れたとたん、彼女は咳き込み、床に崩れ落ちる。周囲の花々が一斉に萎れていく。誰かが叫び声を上げ、群衆は慌てて後退した。
海斗は身体を折り、顔を布に寄せた。筆を置き、両手で布を押さえた。筆先の黒色は、まるで記憶を吸い取る泉のように振る舞い、彼の胸の奥から最後の確かなものを引きずり出していく。それは幼い妹の名前だった。彼は指先に残る熱を追って探したが、名前は泡のように弾けて消えた。
その時、結が立ち上がる。顔には決意があった。彼女は海斗の手のひらを覆い、ゆっくりと自分の額に手を当てた。息を深く吸い、低く言った。「私は、あなたがその代償を一人で負うべきだとは思わない。私も、この記憶の一部を受け取る。」
結が自らの記憶を布の中に差し出すという行為は、単なる寄付ではなかった。彼女は自らも少しずつ忘れることを選んだのだ。私はこうしたという確かな印象、笑い声の節々、海斗と交わした小さな約束。結はそれらを布へと流し込み、海斗の負担を薄める。筆は結の手に渡らずとも、彼女の声は布に刻まれた。
「強制はしない。だが、私たちが責任を取る。触れるか触れないかは、お前たち自身が決めなさい。」結の声は広間に吐き出され、静かに広がる。首長たち、民衆、衛兵の間に小さな波紋がひろがる。
その瞬間、衛兵の一人の肩口が震えた。若い衛士、深沢一樹だ。彼は剣を下ろし、穏やかな怯えを帯びた顔で布に近づいた。指先が布に触れる。深沢の顔が色を変え、目に涙が溜まる。彼は小さな声で言った。「見ろ、これが——選ぶことの意味だ。」
人々は少しずつ、自分で触れ、見ることを選び始めた。触れた者は自分の胸の痛みと向き合い、受け入れた者だけが真実を内に据える。強制ではなく、受諾。海斗と結、深沢の連帯は、それを可能にした。
しかし勝利は容易くは来なかった。ヴァレンは舌打ちし、最後の賭けに出た。彼は胸から小さな銀の器を取り出し、そこに入った薄い銀糸を振るようにした。銀糸は振動し、空気が震えた。大広間の壁に飾られた古い絵巻の隅にあった紋様と、その振動が共鳴する。ヴァレンの技――記憶を瘤(こぶ)にして付け替える術は、王家と教団の統治を維持してきた方法だった。それは海斗の力と同じ根を持つものだと、誰もが気づいた。
「そうだ」とヴァレンは言った。「我らは秩序のために書き換えを行った。混乱を避けるために英雄を創り、痛みを和らげるために声を消してきた。お前たちのやり方は、無秩序を招く。」
海斗は刃のように冷たい声で返す。「救済の名で人の選択を奪い、虚像を押し付けるのが秩序か。俺はそれを終わらせる。」
ヴァレンが器を掲げると、布から吸い上げられた黒い花粉が一瞬、空へと吸い上げられた。その瞬間、海斗は強い引き裂かれる痛みを感じた。最後に残っていた少女時代の笑い声が切り裂かれるように消え、彼の視界が白く揺れた。立っていられないほどにふらついた。
だが、海斗の側に誰かの手があった。結の手。深沢の手。そして群衆の中から、幼い声が一つ聞こえた。「触ってみたい!」その声は小さく、不安げでありながら真っ直ぐだった。子供の母親が一瞬逡巡した後、子の手を取り、布へと向かう。
海斗は目を閉じ、耳に残った音を拾った。布に触れた子の瞳が光る。子は問いもせずに選んだ。画の力は、誰かを強制するのではなく、触れた者にだけ真実を渡す。受け取るのは恐ろしいことだが、受け取るかどうかを決