夢を税にする司祭は愛した人を裁く 第27話「第二部幕間」
冷えた地下の湿気が、唇の端に金属の味を残した。薄明かりのランプが縦に並ぶ鉄格子の向こうで、夢の抽出機が低い唸りを上げている。歯車の合間を通る油の匂いと、古い紙の焦げたにおいが混ざり合うその場所で、司祭アラトは静かに立っていた。右手の掌はまだ黒い糸の跡で痺れている。昨夜、彼が編んだ結帯(けったい)が焼き付けた痕だ。
冷えた地下の湿気が、唇の端に金属の味を残した。薄明かりのランプが縦に並ぶ鉄格子の向こうで、夢の抽出機が低い唸りを上げている。歯車の合間を通る油の匂いと、古い紙の焦げたにおいが混ざり合うその場所で、司祭アラトは静かに立っていた。右手の掌はまだ黒い糸の跡で痺れている。昨夜、彼が編んだ結帯(けったい)が焼き付けた痕だ。
「やるなら、早いうちに終わらせろ」と、ハルが言った。元税務補佐の彼はコートの裾をしぼめ、息の白さで言葉を包んだ。鋭い眼差しには、怒りと焦燥が混じっている。
「強行するな」と、イオが低く続ける。元軍師のイオは壁にもたれ、時計の針のように冷静だった。「徴収機構の監視が厚い。無差別に結帯を使えば、ただの犯罪者扱いだ。しかも――」
イオは言葉を切った。声の余白に、昨夜の罰の残響が落ちる。アラトは掌を見つめた。掌から伸びていた光の糸が、夜の間に何本か消えた気がする。消えたのは――彼は必死に思い出そうとしたが、そこにあるはずの一つの名が、砂のように指の間を滑り落ちた。
「名前が……」アラトは声を震わせて唇の先に残る空白を探した。音節が、頭の中で湿った布のように沈んでいく。形はわかるのに、音がついてこない。それは痛みだった。記憶が削がれる感触は、冷たい刃で胸の奥をなぞられるように鋭い。
「無理に救済を与えるな」とマユリが歌うように言った。夢売りの街角芸人、マユリは薄化粧のまま、指で小さな人形を弄っている。人形の瞳がほんの一秒だけ光り、すぐに消えた。彼女の目には、昨夜、結帯が生んだもの――増幅した苦痛の映像がまだ焼き付いている。
「対象は、子供の巣食う南区の工場だ。今日、徴収が入る。徴収機が持っていく前に証言を結帯で纏められれば、被告予備の手がかりになる」アラトは言った。言葉の先端に決意を乗せることで、欠けた音節を隠そうとしていた。
ハルが前へ出る。彼の顔には、納得でも諦めでもない何か積年の負い目が刻まれている。「俺はその工場で働いたことがある。徴収の列を止めるのは不可能だ。だが、機械室には一時的な保管筐がある。そこから抜ける夢を一本拾えれば、結帯で証言を組めるかもしれない」
イオは腕を組んだ。「だが結帯は、記憶を奪う。程度の差はあれ、アラト自身の中の何かが消える。あの代償を理解していないのか」
アラトは静かに笑った。笑いは砂を噛むようで、誰にも届かない。「理解している。代価は払う。だが、払ってしまってからでは遅い。だから――ハル、先に行ってくれ。侵入の出口を確保してくれ。マユリ、広場で騒ぎを起こしてくれ。イオ、もし私が呑まれたら、やめてくれ。強引な救済をすれば、あれがまた増える」
マユリは小さくうなずいた。イオは目を閉じ、深く息を吸ってから俯いた。「わかった。ただし、俺はお前を止める。必要なら――」
「止めろ」アラトは短く言った。止めるか支えるか。その二択が、彼らを分ける。
夜の南区へ向かう道は、夢の残滓で薄く埃を被っていた。工場の鉄の匂い、かすかな乳香の匂い、そして遠くで鳴る徴収の鈴。列をなす人々の目は透明で、誰もが自分の記憶の値段表を胸に抱えているように見えた。
機械室は冷たかった。ハルが扉のロックを外し、油と汗の混じった匂いが足元にまとわりつく。中には、箱状の保管筐が並び、そこからは紙片のような夢の破片が、微かに舞っていた。舞い散る破片は、白い蝶のようにも、裂けた写真の切れ端のようにも見える。
アラトは手を差し出した。掌から、黒い糸が静かに、だが確実に伸びる。糸は空気を縫い、破片を一つの線で結んでいく。触れた瞬間、感覚が鋭く開いた。誰かの昼の笑い、誰かの手のぬくもり、誰かの怯えたまなざしが、断片の中から押し寄せる。声にならない叫びが、糸の結び目に宿った。
結帯が完成に近づくたび、アラトは胸の内の影が薄くなるのを感じた。最初は、ただの暖色の記憶だった。それが次第に輪郭を失い、目にするはずの横顔が平滑な石板になっていく。彼は必死に抵抗した。指先で心の中を探り、消えかけたメロディーを引き戻そうとする。だが、砂は指の間を滑り落ちるように、名だけがそこから離れていった。
「止めろ」イオの声が後ろから飛んだ。「それ以上はやめろ!」
手早く、しかし明瞭に誰かが機械の外蓋を開けた。断続的な火花とともに、保管筐から薄い煙が立ち上る。誰か――収められていた夢の一つが暴走し、内側から増幅を始めたのだ。声は空洞から漏れる呻きに似て、遠くまで届いた。
アラトは感じた。結帯が結ばれる度に、保管筐の中の呪いが刺激される。代償としての記憶の削除が進む中、強制的な干渉は呪いを返す。機械の中で夢は針のようになり、人々の記憶の表面を刺し貫いた。近くに立っていた男が、その存在を示す名前で呼ばれていたはずだが、誰もその名を呼べなかった。声は空白に飲まれ、街の壁画の色のように薄れていく。
「これは……」マユリの手が震えた。彼女は人形を握り締め、指先が白くなる。「無理に救おうとすると、増える。あの夜と同じだ」
ハルは箱を乱暴に閉めた。だが時既に遅し。箱の内部からは黒い煙が這い出し、床の亀裂を這って広がった。煙は夢の破片を吸い寄せ、ねじれた網のように形を成す。そこから聞こえるのは、誰かが忘れられる音だった。小さな子が母の名を呼ぶ音が消え、恋人が笑う音が黙り、あるいはアラト自身が最も大切にしていた音が消える瞬間の、濡れた空気の切断音。
「これは徴収機構が――」イオは床に落ちた一枚の紙片を拾い上げた。そこには、ぐにゃりと波打つ紋様が押されていた。指先で紋様を辿ると、アラトの掌に残る結び目と同じ動きが感じられた。糸を撚る方向、結びの位置、ゆるめる間隔。偶然とは思えない。
アラトの頭の中に、冷たい可能性が滑り込む。――もし、あの制度が結帯の技術と手順を使っているのなら。もし、自分の能力が、この都市の「秩序」の一部だったとしたら。
だが、確証を掴む前に、彼の胸に穴が開いた。そこに入っていたものが、もう戻らないことを示す、冷たい空白。唇に触れようとしていた名は、紙の上の鉛筆で擦り消されたように消えていた。アラトは掌の糸を握り締める。糸は手の中で固まって、彼の指の形を写したが、それが意味するものを教えてはくれない。
「見ろ」ハルが言った。彼は小さな鉄の印章を取り出し、手に押し付けた。その印章には、役職を示す象徴と、局の識別符号が刻まれている。印章の下に並んだ数字列は、徴収の源と保存の経路を示す台帳番号だ。
「これを奪って行く」ハルの眼差しは硬い。「ここを壊すのは無理だ。だが、証拠を取ることはできる。外へ持ち出して、燃やすとは言わない。見せるんだ。声にする。お前の代償を無駄にしないためにも」
イオは黙って印章を見た。マユリは人形を胸に抱えたまま震えている。アラトは自分の記憶の空白を指先で確かめた。欠けた音節がそのまま地図の欠片になって、彼の中で何かがずれていく。
「いいのか?」アラトは訊いた。問いは、単純な許可を求めるものではなかった。行為の先にあるものを、仲間が自ら背負う意思を確認するためのものだった。
ハルは短く頷いた。「お前が失くすものは、お前のものだ。だが、これを世界に晒すのは、俺たち