夢を税にする司祭は愛した人を裁く 第10話「第9章」
市場は昼の熱気で揺れていた。布屋の幔幕が風にふるえ、焼き栗の焦げる匂いが路地を満たす。人々の声が折り重なり、子どもの笑い声の端に金属の響きが混じる。徴夢隊の甲冑が木箱の間を通ったとき、その音だけが周囲の喧騒を引き裂いた。隊の刃は夜の夢を税に換える書類と同じ冷たさをしていた。
市場は昼の熱気で揺れていた。布屋の幔幕が風にふるえ、焼き栗の焦げる匂いが路地を満たす。人々の声が折り重なり、子どもの笑い声の端に金属の響きが混じる。徴夢隊の甲冑が木箱の間を通ったとき、その音だけが周囲の喧騒を引き裂いた。隊の刃は夜の夢を税に換える書類と同じ冷たさをしていた。
「ルカ様、イレーネが──!」
知らせを運んだのは、小柄な男タオだった。息が荒く、掌に血の気がない。彼の視線は市場の中央、荷車の陰に固まっている。そこには、黒紐で腕を縛られたイレーネがいた。徴夢隊の三人が彼女を押さえ、隊長らしき男が帳簿を肘で押さえつけている。イレーネの唇は白く、だが瞳ははっきりとこちらを見ていた。
ルカは息を吸う。暑さが喉を焼き、胸の奥で何かが鳴った。彼が司祭として携えた黒い指輪が、汗でべとつく掌に冷たく当たる。目の前の景色が、かつての礼拝堂の低い光と重なる。だが祈りは出ず、代わりに判断が迫る――救出へ踏み出すか、証言を固めるためにここで聞き取りを続けるか。
「救え」――ハルが短く言った。筋肉の張った背中が震える。ハルはイレーネの幼馴染で、銛の使い手だ。彼はいつも先に走るタイプだ。だがルカの前では、目を伏せていた。
市場の人混みは証人そのものだ。イレーネが捕らえられたとき、周囲にいた者の脳裏にはそれぞれの夢のかけらが反応している。ルカは知っている。集められた証言を束ね、呪いが見せた残酷な真実を当事者たちの言葉として提示できれば、徴夢隊の嘘と帳簿を暴く道が開く。だが、能力を使うたびに彼の記憶は一片ずつ薄れていく。幼い頃の母の手触り、恋人の笑い声、夕暮れの匂い――いずれかが消える。救出を最優先にすれば、証言を取り逃がし、制度の全体像は見えなくなる。犠牲は個人の命か、大勢の未来か。
「ルカ、言ってくれ。どうするんだ?」タオが強く肩を掴む。声の中に恐れが混じった。
ルカは答えられなかった。答えはあらかじめイレーネから受け取っているはずの一枚の紙にもあった。彼女は捕まる前、彼の胸元に小さな紙片をすべり込ませていた。そこには、手書きの文字で「北塔の三階、外側の鎖を解けば帳簿の一部が取れる。私は囚われていい。証言を先に。──イレーネ」と書かれていた。彼女の墨線は震えていたが、言葉は明快だった。彼女の選択を尊重すべきか、それとも己の職責で彼女を奪還するか。
「彼女が望んでいる」ハルが吐き出した。ハルの瞳には怒りと理解が混ざる。だがその直後、彼は自分の拳を握った。「だが、仲間が囚われている。黙って見過ごせるほど私は聖職者を崇めていない」
言葉はそれぞれの正義を語った。選択は一つに絞れない。仲間の意志を尊重すること自体が仲間の主体性を奪わないことだとルカは常に信じてきた。イレーネの決断が明瞭ならば、それを侵すのは彼女の尊厳を閉ざす行為だ。しかし、帳簿を得る保証もない。徴夢隊は即座に帳を焼くか、書き換えるだろう。彼らの制度は書類と夢の両方を操る。だがイレーネは、囚われのままでも情報を外に出す手段を持っていると言ったはずだ。彼女はそれを信じてやったのだろう。
「俺は救いに行く」ハルが先に動いた。言葉の意味は明瞭で、仲間の意志に従わない選択だ。タオが慌てて彼を止めようとする。ルカは手を伸ばしたが、その時、イレーネが口を開いた。口元からは白い息が漏れ、声はかすれていたが、通行人の側に届くほど響いた。
「ルカ、聞こえる? 北塔の三階、外側の鎖、鐘の合図で扉が緩む。帳簿は赤い十字の印がついている。あんたは――証言を集めて。私を救っても、救わなくてもいい。ただ、真実を焼かないで」
彼女の言葉は真剣そのものだった。捕縛の最中でも、唇が震え、目に血の気があった。徴夢隊がそれを無言で押さえる。イレーネがさらに言葉を絞り出す。
「もし私がここで叫んだら、彼らは『自白』を作る。公共放送で夢を税にする正当性を語らせる。だけど、私が黙って帳簿を奪えば、真実が外に出る。選んで、ルカ」
その瞬間、市場の空気は凍った。イレーネの意志表明は仲間の背中を押し、ルカの内側にある秤を揺らした。彼の職務は「裁くこと」。だが裁くために必要な材料を得るか、人を救うか――その二択は重すぎた。
「ハル、止めろ」ルカは言った。声は震えていたが、命令は命令になる。ハルは一瞬後退する。彼の顎が鳴り、目に熱が戻った。「証言を。市場にいた者すべての記憶を束ねる。帳簿の一つでも見つけられれば、外に出す手段が生まれる」
ハルは反発を飲み込んだ。彼はイレーネの手を一度見やり、怒りの色を残して後退した。だがタオは違った。タオは短く「俺は行く」と言うと、群衆の隙間を縫って走った。意志は個々に固有だ。ルカはそれを制せなかった。仲間は兄弟でもあり、各自が選ぶ存在でもある。
ルカは深く息を吸い、市場の人々に向き直った。彼の手の内側には、いつもと違う冷たさが走る。能面のような司祭の面差しを取り払い、ひとりの人間として彼は声を上げた。
「ここにいた者、話を聞かせてくれ。今起きたことを、ありのままに」
最初の申告は、茶屋の婆さんだった。震える指で杖を突き、彼女は言葉を選びながら語る。徴夢隊が来ると、空気が重くなった、隊長が青い布を掲げ、目を赤くしていた、イレーネは最初驚いていたが、すぐに素早い動きをした――。一つひとつの断片が、市場の色彩と音と共にルカの心に落ちる。彼はそれを「束ね」る。能力は、周りの人々の記憶と夢の残滓を掬い取って、一本の糸に編み直す作業だった。
術の感覚はいつもと同じだ。頭蓋の内側で細い糸が紡がれ、指先から血のような光が漏れる。だが今回はいつもより重かった。複数の市民の目撃が波紋のように広がると、ルカの胸の奥で何かが切れる音がした。音に続いて、寒気と共に一つの残像が消える。
最初に消えたのは、恋人の肖像ではなかった。短い、些細な記憶だった──好きだった店の窓に置いてあった青い花瓶の色。突然それが思い出せない。次に、彼がいつも朝に口ずさんでいた歌の一節が、舌先からするりと落ちていった。破れた襟の刺繍糸が一本ほどけるように、彼の記憶は細かくほどけていく。ルカはその痛みに顔をゆがめる。だが証言は次々とまとまる。子どもの手が、荷馬車の車輪の跡が、徴夢隊の隊長が持っていた封筒の赤い紐の匂いが――。糸は太くなり、事柄はより確かな形を成していった。
「止めろ」市場の誰かが叫んだ。徴夢隊の隊長がそれに気づき、動いた。群衆の緊張が一気に高まる。イレーネの顔が、茫然とした表情に変わる。彼女はルカの目を見つめた。彼女の瞳の中に、何かが光った。誇りか、恐れか。
「今だ!」と誰かが叫ぶ。タオが徴夢隊の後方から跳びかかった。瞬間、殴打の音、木箱の割れる音、屋根から落ちた煤煙の匂いが混じる。市場は一瞬で戦場になり、商人たちは品物を抱えて逃げ惑った。ハルが二人の隊士を押し返し、刺突の一閃が鉄を鳴らした。彼らの動きは素早く、だが統制が取れていない。捕らえられていたイレーネの腕が強く引かれる。ルカの胸に、抑えきれない衝動が湧いた。
ターンは一瞬で訪れる。ルカは自らの手を上げ、力を注ぐ。彼は証言を束ね終えたわけではなかったが、すでに集まった証言の断片を糾合し、法廷で提示可能