声を奪う魔導士は明日を選び直す 第9話「第8章」
夜霧が石畳を薄紫に染める頃、監視塔の光が一度だけ蠅の羽のようにちらついた。イオナは屋根の端に身を寄せ、下の広場を見下ろしていた。鉄衛隊の行進が金属音を立て、群衆は押し固められた羊のようにざわめいている。広場の中央には移送台――囚人を晒すための壇が組まれていた。黒布で覆われた箱が幾つも、先触れのように並んでいた。
夜霧が石畳を薄紫に染める頃、監視塔の光が一度だけ蠅の羽のようにちらついた。イオナは屋根の端に身を寄せ、下の広場を見下ろしていた。鉄衛隊の行進が金属音を立て、群衆は押し固められた羊のようにざわめいている。広場の中央には移送台――囚人を晒すための壇が組まれていた。黒布で覆われた箱が幾つも、先触れのように並んでいた。
「ここか」ノアが低く囁いた。息が白く、ナイフの柄を握る手が小刻みに震えている。
「そこにいるはずだ。カイの名前が最後に呼ばれた」イオナは返事しなかった。手の中で、何度も心の声を確かめるように小さな布切れを指で揉んだ。呪術の準備はいつだって静かに孤独だ。言葉を束ねるとき、彼女の手の中にあるのは確証だけでなく――喪失の空洞でもある。
広場の片隅、監房から引かれてきた一人の囚人が布を剥がされる瞬間、すべてが音を消した。囚人の口からは声が出ない。彼の喉元に沿って、ほのかな光の糸が浮かび上がっていた。糸は檻の鎖と似て、でも透明で、確かに声の細い脈のように震えている。群衆の一部が歓声を上げ、王権の司祭が儀礼の短剣を掲げる。
「声を奪うのを見世物にするなんて……」ミレイの瞳が怒りで赤くなった。だが彼女は叫ぶ代わりに、指先で懐の小さな鏡を掴んだ。逃げる場所はない。選べるのは行動だけだ。
イオナは自分の胸の奥で、冷たい痛みを確かめた。最近、その痛みはしだいに記憶を掘り崩すようになった。人の言葉を集めて「証」とするたび、彼女の中の過去の断片が薄れていく。母の歌の旋律、幼い日の雨、カイと交わした笑いの角度――少しずつ、砂のように崩れていく。呪術は真実を武器にするほど強くなり、しかしその刃で自分自身の記憶を削るのだ。
「イオナ、どうする?」ノアが唇を噛む。彼の目は牢門の向こうの黒布箱を捉えている。箱の中にカイがいる。カイは彼らと同じ頃に出会った仲間で、笑い上戸で、時折妙な冗談を言ってイオナの眉を上げさせた男だ。だが今、彼の笑いはどこにもない。口元には布が当てられ、そこから伸びる光の糸は彼の声を絡めとっていた。
「直接、声を取り返せる」イオナは小さく息を吐いた。「ただし――強制はできない。強制的に他人の声を奪ったり、無理やり証言を束ねたりすると、呪いは増幅する。公の場で一人の真実を暴けば、そこに縋る政府の意志が連鎖して、さらに多くの声が消える」
ミレイが鏡を握りしめる手を固めた。「それじゃ、待っているだけっていうの?」
「待つは選択ではない。けれど無思慮に杖を振れば、私たちの目的は裏返る。明日を選び直すと言っているのに、その手段で明日を奪うことになってしまう」イオナの声は風に溶けるように弱かった。胸の空虚がまた一つ、記憶の欠片を喰らった感触を伝えてくる――幼い頃、母と編んだ麦の冠の重さを思い出せない。
ノアが弾くように舌打ちをした。「じゃあ、どうするんだ。カイがあそこで晒されるのを見ているだけか?」
イオナは目の前の光の糸に手を伸ばした。触れれば冷たく、しかし生々しかった。糸は微かに振動し、そこに閉じ込められた記憶や怒りや罪の匂いを帯びている。彼女の呪詛は、そうした声の断片を“聞取”として取り込み、真実を一つの結び目にして提示する力だ。巻き取るほどに相手の罪が明らかになるが、その対価として彼女の内側から別の記憶が抜け落ちる。
広場の空気が硬直した瞬間、監房長の号令が鳴る。移送が始まる。箱の蓋が開かれ、カイの姿が晒されるように引き出された。彼の瞳は、やはりどこか遠い。喉元の光糸が彼の言葉を吸って、周囲へと流れていく。檻の外のひとりが大きく足を踏み出し、群衆が好奇の目を向けた。
「救出だ。今だ!」ノアが詰め寄る。
ミレイが鏡を持ち上げた。「待って。イオナ、あなたの術で推し進めれば、彼の声は戻るだろう。だが公の場でそれをやれば、王権はその行為を利用する。『魔導士の暴挙』として宣言し、もっと多くの人から声を取り上げるだろう。大勢を救うはずが、大勢を沈黙させる火種を撒くことになる」
「分かっている」とイオナは答え、ゆっくりと息を吐いた。そして、浅く小さな詠唱を始めた。喉の奥に潜む古い言葉を紡ぎ、彼女は一つの“聞取”を作る。周囲の声の欠片を集めると、目の前に微かな光の塊が姿を現した。カイの一つの記憶――幼い頃、海辺で彼が拾った青い貝の匂い。小さな証言だ、それゆえ代価も小さく済むはずだった。
だが詠唱の中で、イオナは記憶の抜け落ちを感じた。どこかの窓辺で見た風景、母の指の皺、カイが笑ったときの歯並び。順番に、温度の記憶が薄れていく。彼女は驚愕し、言葉を止めかけた。その瞬間、監房長の鞭が空を切った。空気が振動し、人々の感情が一斉に高ぶる。強制の空気が場を穿ち、呪術が大きく反応した。小さな“聞取”は周囲の欲望で引き伸ばされ、力を増していく。
「やめろ!」ミレイが叫んだ。彼女は鏡を掲げ、光を乱反射させた。その光が監房長の目を晒し、呪術の勢いを削いだ。だが周囲の興奮は収まらない。鉄衛隊の隊列が前に出、群衆が押し寄せる。
「ここで暴発すれば、呪いは広がる」イオナの手が震える。彼女の中で、忘却が進んだ証がひとつ、またひとつと消えた。喉の奥の違和感が彼女に警鐘を鳴らす――これ以上は止められない、と。
そのとき、最も予期しないことが起きた。カイの胸が震え、目が薄く光った。彼は微かに口を動かした。糸は彼の声を確かに束ねているはずなのに、喉の奥から声が漏れようとしている。その試みは弱々しく、しかし鮮烈だった。周囲の喧噪も彼の意志に触れたように一瞬止まった。
「やめろ、王権の見世物なんかになるな!」カイは口を開いた。声そのものはまだ出ない。だが彼の言葉は、身体の動きと顔の表情で伝わった。彼は自らの意思で、喉の光糸を自分に巻き直していくようなしぐさを見せた。まるで自分の声を自分の縄に縫いなおすかのように。
ミレイはその様子を見て、鏡をぱっと下ろした。表情が固まる。彼女は走った。監房の柵によじ登り、数人の衛兵を蹴り飛ばし、檻の近くまで辿り着いた。ノアがそれを助けに入ろうとするが、ミレイは手を振って制した。彼女の目は真っ直ぐにカイを見据え、そこに慈愛と決意が混ざった光を抱いていた。
「カイ、あなたが決めるんだ。誰かが代わりに声を奪おうとするのを許すのなら、明日の選択は奪われる。自分で切るなら、それはあなたの選択になる」ミレイは口元を震わせながら言った。言葉の響きは弱く、しかしその意志は熱かった。
カイの手が拘束の鎖に触れた。光糸がそれを絡め、二人の間に柔らかな共振が生まれる。ミレイは、懐に入れていた小さな笛を差し出した。笛は魔具で、使えば持ち主の声を一時的に別の器に移すことができる。だが代償がある。笛に移された声は、しばらく持ち主の記憶を蝕むことが知られていた。つまり、声を他者へ受け渡すことは、受け渡した者の記憶を削る可能性があるのだ。
「そんなことを……」ノアが止める。
ミレイは振り向かずに言った。「私は、私の明日を賭ける。イオナ、あなたは選んで。あなたの術で無理に奪うか、誰かの自発を待つか。私は自発を選ぶ人の側に立つ」
言葉はそれだけで、意志の火を投げた。カイはゆっくりと頷いた。彼の瞳の奥に