声を奪う魔導士は明日を選び直す 第10話「第9章」
瓶の灯りが、古い穀倉の梁に揺らめいていた。硝子の内側で、薄い蒼の光が微かにうねる。カイルは膝をつき、震える手で最後の一瓶を抱えた。口はすでに沈黙の瘡で塞がれている。言葉は出ない。唇の奥で、以前の自分が歌ったはずの子守唄の一節が消えかけているのを感じながら、彼は瓶の栓をゆっくり抜いた。
瓶の灯りが、古い穀倉の梁に揺らめいていた。硝子の内側で、薄い蒼の光が微かにうねる。カイルは膝をつき、震える手で最後の一瓶を抱えた。口はすでに沈黙の瘡で塞がれている。言葉は出ない。唇の奥で、以前の自分が歌ったはずの子守唄の一節が消えかけているのを感じながら、彼は瓶の栓をゆっくり抜いた。
「はやく、カイル。」ユリアが低く囁く。銀糸の髪が薄暗がりに光った。トールは入口に影のように立ち、腕を組んでいる。ミナの指先は白く、何度も瓶に触れては引く。麦わら帽子を押さえたロアは、胸に手を当てて震えていた。彼らの背後にいる十数人の村人たちの視線が、カイルに刺さる。
カイルは襟にかけた呪紋袋から、記憶の小瓶を取り出した。以前、彼が奪った声と記憶の破片を集めて詰めたものだ。光は柔らかく、卵の黄身のように濃い。彼が一瓶をロアに差し出すと、ロアは戸惑いながらもそれを受け取った。硝子は思いの外温かく、掌に張り付くような感触があった。中の光が、指の隙間ににじむ。
「君の妹の──」ユリアが言いかけた。カイルはその声を味わう余裕もなく、胸の中で冷たい穴が広がるのを感じた。又一つ、輪郭が消えていく。幼い日の帰り道、濡れた石畳に落ちた黒い猫の目。彼はその景色を思い出そうとしたが、手に届かない。記憶は紙の端が風にめくれるように薄くなり、指先をすり抜けた。
ロアが瓶を自分の胸に寄せると、光がふぁっと膨らみ、彼の瞳の色が一瞬変わった。息を詰めたロアの口から、古い声が漏れた。
「──役人が窓から覗いていた。妹は障子を押さえた。俺は鍵の音を聞いた。名簿が、名簿があったんだ…」
言葉は震え、小屋の中の空気を割った。最初は断片的な音だったが、光が胸に沈むにつれて、ロアの声ははっきりしてゆく。部屋の奥にいた老女が顔色を変え、手を胸に当てた。若い者たちが互いに顔を見合わせる。外で待機していた一人の子どもが、砂を踏む音を止めた。
だが同時に、ロアの右胸の辺りから、薄い影の縁取りが立ち上った。影は紙一枚分ほどの幅で皮膚をなぞり、冷たいしめりを残して広がる。ミナが反射的にその腕を掴むと、皮膚は少し硬く、蝕まれたように見えた。ミナは顔をしかめた。呪いの波紋が、確かに新しい場所に立ち上っている。
「分配は成功している」カイルは思った。記憶は他人の胸に宿り、当事者の証言として目に見える形を取る。だがその代償はここにもある。彼の中からは確かな一欠片が消え、交換の代金は誰かの胸にダークリングとして現れる。全体の釣り合いが揺らいでいるのをカイルは知っていた。
「分け与えることで、忘却を遅らせることはできる。けれど──」ユリアが声を落とす。彼女の瞳は光の瓶をじっと見据えていた。「呪いは移動するだけ。増幅されることもある。統御院はそれを恐れるはずよ」
彼女が言い終えるより早く、外から重い靴音が近づいた。誰かが階段を上がり、扉から冷たい夜風が吹き込んだ。トールが素早く扉へ向かい、鉄の感触が爪先まで伝わる。外に現れたのは黒ずくめの制服に銀の面をつけた集団で、胸に「沈黙隊」の紋章が光っていた。彼らは息をしないように見える、不気味なほど静かな隊だ。
「統御院だ」ミナがささやいた。十年も前に噂で聞いた名前が、今ここに立っている。先頭の男が一歩前に出ると、金属の匂いとともに小さな機械が床に落ち、風を切って回転した。その装置は空中に薄い網のような光の格子を展開する。格子が瓶の光を撫でると、光は一瞬だけ波を乱した。
先頭の男は仮面越しにカイルを見た。細い声が出るではなく、機械が合成したような声が倉の中に響いた。「証拠物件の回収と検査を命ずる。居住者は混乱の誘発を禁ずる」
背筋に冷たいものが走った。ユリアの爪がテーブルに食い込む。ロアの手が強く握りしめられ、胸の影がほんの少し波打った。
「ここで逃げるのは簡単だ」トールの声が低くなる。「だが、もし彼らが回収したら、何が起きるか分からない」
その言葉の直後、沈黙隊の一人が小さな鏡盤を差し出した。それは火のない燐光を返す金属盤で、光瓶と触れると、光は一瞬で吸い込まれ、盤の表面に小さな紋が浮かび上がった。紋は見たことのない文字列で、鎖のように絡み合っていた。
「逆縛符(ぎゃくばくふ)」ユリアはその紋を見て呟いた。「こんなものが…統御院は、移された記憶を“接続”して発見する術を持っている。これで元の座標──発動者を辿ることができる」
その時、カイルの背中に小さな突き刺しが走ったように感じた。思考の端に、細い糸が引かれるような感覚が差し込む。彼は視界の隅に、誰にも見えない赤い糸が胸元の呪紋袋に繋がっていくのを感じた気がした。だがそれは確信ではなく、恐怖の残像のようだった。
「追跡――それは全員を危険に晒す」ミナの声は震えていた。「記憶を受けた者たちが連れて行かれたら、また記憶を消される。我々がしたのは一時しのぎに過ぎないのかもしれない」
ロアが瓶を抱きしめ、顔を上げた。彼の目には決意が宿っていた。硝子が微かに震え、その中の光が彼の白い歯を浮かび上がらせる。
「妹のために、ちゃんと証言する。直接、評議会で言う」ロアの声は静かだが、揺るがなかった。「ここで隠れても、噂は消えない。俺が行かなきゃ、誰が行く? 俺はもう、黙っていられないんだ」
倉の中に一瞬の沈黙が落ちた。外の沈黙隊の足音が一拍遅れて、鋭く止まった。先頭の男が仮面越しに反応した。「評議会か。良い。ならば我々が案内する」
その言葉は脅しだった。ユリアの両手が震えた。トールが前に出て、トールの肉厚な掌がロアの肩を包んだ。
「行くなら計画だ」トールは低く言った。「俺たちは護衛に付く。だが、統御院の接続符がある限り、カイルが標的になる。あんたはそれを知っているか、カイル」
カイルはうなずく代わりに、胸の中の空虚に触れた。記憶の欠け目が、あたかも穴のようにそこにある。彼は言葉が出せない。だが指先で、ロアの胸の光を確かめる。ロアの瞳に映る妹の笑顔の輪郭だけは、確かにそこに写っていた。
ユリアが腕を伸ばし、ロアの肩に手を置いた。「あなたの証言が、ここにいる他の人たちに『選ぶ権利』を与えるかもしれない。けれど、接続が逆探知を可能にするなら、カイルの在り処を突き止められる。選ぶのは、あなたたち自身よ。誰かの代わりにはできない」
ロアは短く息を吸った。硝子の光が彼の顔を青白く照らす。彼の選択は、目の前の小さな村と、カイルの儚い記憶と、統御院の追跡とを天秤にかけるものだった。
「行く」ロアは静かに言った。「私は自分の妹の名前を呼べる人間でいたい。たとえそれが──たとえそれが、誰かの危険を招くとしても」
ミナが小さな音で泣いた。ユリアが目を閉じ、ロアの手を握りしめる。トールは何も言わずにうなずいた。カイルは胸に冷たい影を感じながらも、何かを選ぶことを止めなかった。彼はロアの掌にそっと自分の手を重ね、声にならない承諾を返した。
外の沈黙隊が動く。仮面の先端の機械が、倉の中を細かくなめるように回り、先ほど吸い取った光の紋を解析し始めた。その解析の中には、想像を絶する冷静さと残酷な効率が含まれているだろう。カイルは、それに直面する自分の姿を思い描いた。追われ