記憶を凍らせる薬師は自分の罪を数え直す 第19話「第17章」
広場の空気が燃えた。紙がはじける匂い、濡れた木のような煤の匂いが鼻腔を刺し、群衆のざわめきが波紋のように広がる。ナドは台上で手にした羊皮紙を高く掲げた。墨でびっしりと埋まった文字列が、太陽の下で滑るように光る。彼の声は、裁きの鐘のように鋭かった。
広場の空気が燃えた。紙がはじける匂い、濡れた木のような煤の匂いが鼻腔を刺し、群衆のざわめきが波紋のように広がる。ナドは台上で手にした羊皮紙を高く掲げた。墨でびっしりと埋まった文字列が、太陽の下で滑るように光る。彼の声は、裁きの鐘のように鋭かった。
「これは改竄の原本だ。戸籍。徴税記録。――存在すら抹消された人々の名前だ!」
誰かが叫び、誰かが泣いた。広場の端に配された王兵の鉄靴が石畳を踏む音が低く鳴る。黒い軍衣の列が門を封じ、監視台からは旗が下ろされた。戒厳。鎧の金具が光るたびに群衆は小さく後ずさりした。
ユエンは台の近くで息を潜め、掌の中の小さな瓶を握り締めていた。透明な液体は夜明け前の氷のように冷たく、瓶の内側に細かな結晶が浮いて見える。いつもの準備――だが今日の準備はいつもと違った。ナドの示した羊皮紙と、群衆の目線と、王兵の列。すべてが均衡を傾けていた。
「止めろ、ナド!」セラの声が割れ、彼女は台の下からナドに駆け寄った。細い体に筋が立ち、指先が震えている。セラはかつてユエンの助手であり、医術を学んだ仲間でもある。彼女はユエンの腕の瓶を見て言葉を止めた。瓶の中の結晶が光を反射し、薄く青白い光が掌を染める。
ナドは顔を背けずに言った。「これがあれば、嘘は嘘のままではいられない。改竄された記録を焼けば、消された名前が炎の中で跳ね上がる。真実が見える瞬間だ。民衆に、王に示すんだ」
台の端で、若い将校――執政官の代理、人々は彼を「ルーヴァン」と呼んだ――が顔を紅潮させていた。ユエンはルーヴァンを見る。その胸には、今朝見たばかりの痕跡がある。――王の儀式に使われる印章の跡。ルーヴァンの瞳は慌てて虚ろになり、言葉を探している。
ユエンは瓶を喉に滑り込ませる準備をした。彼の能力はいつもその前後に小さな儀式を必要とした。掌を被験者のこめかみに当て、声にならない問いを放ち、相手の記憶の糸をたぐり寄せる。その糸を一つの器に織り上げると、ユエンはそれを凍らせ、外部に提示することができる。糸は真実を繋ぐが、真実を武器にするほど、彼自身の内側の糸が引き抜かれる。
「ユエン、やめて!」セラが目を潤ませる。彼女は知っている。あの代償を。あの冷たさが脳髄を蝕む感覚を。
ユエンは小さく笑ったが、その笑いは血の混じった風のように乾いていた。「選ぶのは今だ、セラ。あの書類を焼かなければ、民は動かない。ルーヴァンが認めなければ、王は何も動かない。俺が彼の言葉を取る」
台に駆け上がると、群衆の視線が一斉に集まった。ユエンはルーヴァンの前に立ち、掌を伸ばす。官服から漏れる汗の香り、鉄の匂い、周囲の喧騒が輪郭を歪める。ユエンは目を閉じ、思考の芯を砥石に擦るように研いだ。
触れた瞬間、記憶の手触りが異様に冷たかった。ルーヴァンの中の記憶は滑らかな氷板のように層を作り、ユエンの指先に沿って細い亀裂を走らせる。声にならない断片、手紙、夜の儀式の鞭打ちの音。ユエンはそれらをひとつの球体にまとめる。球体は透明だが、内部には蒼白い像がくるくると回る。
彼はそれを凍らせる。記憶が固まると同時に、ユエンの胸の奥で何かが溶け出す感触が訪れた。冷たさが血管を伝い、耳鳴りのように高い音が頭に響く。だが作業は止められない。彼は球体を台の上に置き、群衆に向けて投げた。球体は空気を裂いて割れ、中の像がはじけるように散った。
火がついた。ナドが持った松明が羊皮紙に触れた瞬間、墨の黒が水のように走り、文面の一つ一つが浮かび上がる。消された名が、まるで記憶を取り戻すように、文字で飛び出した。群衆の声が割れ、大きな波のように歓声と怒声が混ざった。王兵の列は一瞬たじろぎ、ルーヴァンの顔から血の気が引いた。
その瞬間、ユエンの視界の片隅で、別の光景が立ち上がった。記憶の冷気が内側から襲って来る。掌の中の瓶の結晶が増殖するように彼の脳に広がり、見知らぬ手術室の光景がめくれるように散る。金属の鈍い光、誰かの低いうめき声、手術台に固定された小さな肢体。彼は叫びたかったが、声が塊で喉に詰まる。
「ユエン?」セラが手を伸ばす。だが彼女の指先は、急速に消える氷を掴むかのように滑った。彼女の眼が不安に裂ける。
ユエンは必死に記憶をたぐろうとした。だがそこにあったはずの名前、顔、そして自分が何をしたのかの理由が、まるで雪に埋もれた印のように消えていた。腹の底にぽっかりと穴が空き、冷気がその穴から吹き出す。痛みではない、空虚の寒さ。代償は始まっていた。
広場では燃えた羊皮紙が風に舞い、灰が群衆の頬を薄く覆った。その灰が一瞬、空に文字を描いたように見えた。ユエンの視界はその模様を追うが、そこに刻まれているはずの字は彼の中から滑り落ちていく。彼は思い出せない――あの「密やかな手術」は誰のためだったのか。何のために彼はその刃を振るったのか。救済だったのか、あるいは――
「ルーヴァンは…!」ナドが叫んだ。彼は台の端から下に飛び降り、燃え広がる書類の山に足を踏み入れた。彼の指先は燃えかすの中で何かを探している。ナドの目は光を帯び、指は小さな紙片を掻き出した。そこには、消そうとした名称のスタンプがかすかに残っていた。だがそのスタンプは半分炭になっていて、判読できるのは三文字だけだ。
「…『冷』、だと?」ナドの声は震えた。指先に残る灰色の塊をユエンに差し出す。そこに押された印影は、凍った塔のシルエットにも見える。人々はその軌跡を素早く取り込み始める。噂が走る。冷塔――街外れの、失われた医療施設の名だと誰かが言う。伝説のように囁かれたその場所は、王の古い記録では「不具合を治す屋」として一行だけ記されていた。
ユエンはその名を聞いて、胸の中にもう一つの欠落を感じた。冷塔。どこかで、彼はその名と繋がっていたはずだ。目の前に差し出された焼け焦げた印の一片を、指で撫でる。触覚に金属的な冷たさが残るだけで、記憶の輪郭は返らなかった。
「そこに行くべきだ」とキランが言った。長いコートの襟を立てて、鎧の痕が見える。かつて王の下で戦った男だ。彼の目が硬い。選択は即座に迫っていた。戒厳は敷かれ、王は動員を始めている。ナドの暴露は一時的な勝利をもたらしたが、それ以上の波紋を生んだ。冷塔に向かわなければ、燃えた証拠の残りは焼かれ尽くすだろう。
セラはユエンの顔を見て言った。「ユエン、あなたに聞きたい。――覚えているなら、ここで指示して。覚えていないなら、私たちで確かめに行く。あなた一人でその代償を背負わないで」
ユエンの掌の中で瓶の結晶がかすかに震え、冷気が指の腹を刺す。能力の本質――記憶を凍らせ、束ね、真実を証言に変えること。だがそれは彼自身の記憶を削ぎ、もし救済を強制するほど使えば、呪いが増幅する。今、彼はその増幅を味わっている。ルーヴァンの言葉を引き出して民に示した瞬間、彼は自分の一部を失った。そして今、冷塔の名が示す先には、彼が失った何かがあると勘づく。
「僕が――」ユエンは言葉を探した。頭の中の喉元が凍るようで、言葉が薄くなっていく。「僕が行く。だが、もしあの場所に行ったとして、――思い出すためにもう一度、僕の能力を使うなら、代償はもっと大きくなる。覚えている部分