眠りを失う王子は神を告発する

眠りを失う王子は神を告発する 第6話「第5章」

雨は路地を削るように降り続いていた。石畳は油を引いたように黒光りし、街灯の暖色が濡れた壁に粉々に散った。リアンは壁にもたれて息を整えた。胸のあたりが、いつもより深く、冷たく疼く。指先に残るのは、昨夜の記憶のかけらが零れた感触――細い硝子の破片をすり抜けるような、空虚な痺れだった。

雨は路地を削るように降り続いていた。石畳は油を引いたように黒光りし、街灯の暖色が濡れた壁に粉々に散った。リアンは壁にもたれて息を整えた。胸のあたりが、いつもより深く、冷たく疼く。指先に残るのは、昨夜の記憶のかけらが零れた感触――細い硝子の破片をすり抜けるような、空虚な痺れだった。

「合図は三度だ。扉が開くまで沈黙。見張りに見つかったら、俺が引き受ける」ヴァルドが低く言った。肩幅の広い男は古い鎧を破れた布で覆い、雨粒が流れるたびに鉄の匂いが混じる。彼の目は、前線で何度も命を賭し、勝ち取った諦めを湛えている。

ソラが小さく笑うように鼻を鳴らした。「そんな堅苦しい演説、ここまで来て聞きたくないよ。私の方が見張りより静かだ――多分」

ミレンは懐に抱えた布包みをぎゅっと締めた。救護具と、彼らが奪い出す予定の小さな記録紙だ。彼女の指は細く、それでいて固く握られている。リアンはその手を見ると、守らねばならないものの輪郭がぼやけて見えた。誰を守るのか。誰のために暴くのか。問いは風に溶けるように翳む。

監牢は、旧市街の地下に口を開いていた。鉄の扉には皺のような刻印が施され、その中心に小さな穴が穿たれている。そこから、低いうめき声と祈りのような連呼が漏れた。囚われた者たちの声は、長い間に磨かれて音としての輪郭を失っている。まともな言語というより、網にかかった魚の鱗の擦れる音だった。

リアンはしゃがみ込み、手を差し出した。掌の温度は自分でも驚くほど冷たく、目の前に立つ鉄格子越しの人影に触れる。触覚は彼の力の入り口だ。囚人たちの体温、呼吸、爪で表面を擦る砂の感触――細々とした痛みも屈辱も、彼の掌の中でひとつずつ震える。

「証束を、頼む」ミレンの声が静かに出る。彼女は包みを扉の横に置き、目で合図した。彼女の瞳には燃えこぼれた炎がある。誰かを救いたい、でも自分で呪いには触れたくないという決意。

リアンは息を吸った。証束(あかしを束ねる術)は人々の語る記憶を糸のように繋ぎ、外へ形として現す。しかしそのたびに、彼の個人的な記憶が一片ずつ塗り替えられてゆく。それはルールというより、代償だった。大切だったものが薄れる代わりに、暴かれた真実は鋭い刃となる。

最初の声を掬うと、冷たい糸が指先から現れた。男の囁きは皮膚にひっかかるように絡みつき、ひとつの透明な紐になってゆく。次々と別の声が混ざり、声と声の繋ぎ目がリアンの脳裏を斬るように走る。そこに、ある名が浮かんだ――「眠祭院」。次に「夜毎に目を奪われる」「働かせるための目覚め」など、不揃いな断片が並ぶ。

紐は扉の鍵穴に吸い込まれていった。鉄が音もなく解けるような感触。扉が内側から静かに緩むと、湿った空気と腐った布の匂いが急に押し寄せ、息を呑むような痛みが喉に刺さった。

「行くぞ」ヴァルドが動いた。だが影が二つ、扉の前に立ちはだかった。監視兵だ。鉄の甲冑は古びていたが、体格は良く、背中には王典の紋が小さく刺繍されている。認証だ。王権側のものだと、リアンは瞬時に分かった。胸に走る冷たさが鋭くなる。

取りつく島もない対応策はなく、ソラが前へ跳んだ。狭い路地を利用して一人を引きずり倒す。金具が床に落ち、夜の雨音がそれを轟きに変える。騒ぎは大きくなるはずだった。だが扉の向こうで、低い叫びが上がった。救いを求める声だ。

「やめろ!」ミレンが叫ぶ。「封じるんじゃない、助けるんだ!」

リアンは躊躇しながら、次の糸を掬った。囚人の記憶は、救われた瞬間の恐怖で乱れていた。『目を覚ますときに胸の中が爆ぜる』――それを束ねると、周囲の空気が振動した。証束は実体を帯び、鉄格子を押し広げるように伸びてゆく。鍵が外れた。扉は開いた。

中から出てきたのは、やせ衰えた若い娘と、赤い目をした男、そして子供が一人。彼らの目は眠りを奪われた者特有の、獲物を見るような鋭さと、薄い祭りの仮面のような虚ろさが混ざっていた。娘はミレンに倒れ込み、彼女の上着の匂いに吸い付くようにして泣いた。

だが、その瞬間、何かが裂ける音がした。空気が一度逆流したようにねじれ、遠くで鐘が落ちたような共鳴が響く。囚人の中のひとりが呻き、目を見開いて血走らせた。目の色が、黒い液体が溢れるようにして濁っていく。

「強制的な目覚めは、儀の拡張に使われる」囚人のひとりが吐き捨てるように言った。ミレンがそれに気づく前に、リアンの胸の中でまた何かが薄くなっていった。彼は手を握り、懐かしいはずの名を探した。エリスの笑い声。柔らかな手の温度。柘榴色の髪。どれも、指の間から砂が落ちるようにさらさらと消えていく。声だけが残って、形はなくなる。

ヴァルドは囚人たちを引き連れ、険しい足取りで出口へ向かった。ソラは後ろの兵を引きずり、ミレンは泣いている女の肩をさすった。だが出口の前で、監督官の声が冷たく響いた。

「待て」声は柔らかく、苛立ちと諦観が混ざっていた。監督官トールが姿を現す。彼の肩には官吏の徽が光り、顔には深い刻みがある。年齢は四十を少し越えているようだったが、目は若者の頃の情熱を捨てた老獪さを帯びている。

「王子殿下」とトールは礼を尽くした。「ここでなにをするのか。標的にされた者をただ外へ放つつもりか。儀は秩序のためのものだ」

「秩序のために人を壊していいのか」ヴァルドが咆哮した。銀月の下で彼の拳が震え、雨がその輪郭を洗い流す。だがトールは表情を変えず、むしろ柔和に笑った。

「私の娘は、儀のおかげで命を繋いだ」トールの声が急に掠れる。その言葉は武器のように場の重心を揺らす。リアンはトールの手に巻かれた薄い布の痕を見て、そこに縫いこまれた小さな糸目がまた別の話を語るのを感じた。人々がなぜ儀を支えるのか、それは単純な悪意ではない――選択を奪われた者たちの恐怖であり、誰かの救済と引き換えの制度だった。

「あなたの娘は――?」ミレンの問いに、トールは俯いた。

「眠りを保つカプセルを与えられた。だがそのために、他者から睡眠を奪う装置が必要だと、私も知っている。知っているが、私には……」声が潰れた。「私は父であり、官吏だ。私一人が拒めるものではない」

その瞬間、雨音が一層激しくなり、街灯に落ちる水滴が金属の鼓のような余韻を残す。トールの言葉は、諦観と自己弁護の混じった牢固たる器を露わにしていた。敵側にも事情がある。リアンはそれを突きつけられて、胸に新しい重みを感じた。

救出は成功したように見えた。だが出口で待ち受けていたのは歪んだ影だった。目を奪われた者の一部が、肉体的な衝撃に反応して、本能的に暴走した。悲鳴が割れて、石壁に血が飛ぶ。ヴァルドは負傷し、ソラは肋をひねって地面に腹這いになった。ミレンは手を震わせながら包帯を取り出す。

リアンは額に冷たい汗を感じる。力を使うたびに、彼の眠りの糸が細くなっていくのがわかる。夜が彼の眼の縁に貼りついて、眠ることを拒んでいるのではない。彼の脳そのものが、眠ることを忘れていた。瞼は重いのに、眠りは来ない。心地よいはずの沈黙だったはずが、今は虚の中にぽっかりと開いた穴のようだ。

ミレンがリアンの腕を掴み、怒鳴る。「やめるの、リアン! 代償はもう十分よ!」

だが扉の向こう、救われ