眠りを失う王子は神を告発する

眠りを失う王子は神を告発する 第5話「第4章」

工房の内部は、眠りとは正反対の音に満ちていた。鋳鉄がぶつかる鈍い金属音、歯車に噛み合う擦過音、そして時折弾ける火花が、薄く曇った耐熱ガラスを震わせる。橙の光がガラス越しに幾重にも反射して、そこに立つ人間の影を切り刻んだ。息を詰めた一行は、木箱の陰に身を潜め、音の合間に短い合図を交わす。

工房の内部は、眠りとは正反対の音に満ちていた。鋳鉄がぶつかる鈍い金属音、歯車に噛み合う擦過音、そして時折弾ける火花が、薄く曇った耐熱ガラスを震わせる。橙の光がガラス越しに幾重にも反射して、そこに立つ人間の影を切り刻んだ。息を詰めた一行は、木箱の陰に身を潜め、音の合間に短い合図を交わす。

「いけ、ミラ。刻み台の下だ」

カイロスの低い声がした。彼はいつだって無駄のない動きをする。ミラはうなずくと、箱の上を踏み、機械の横に忍び寄った。エリューンは手にした小さな燐光球を、窓の曇りに反射させて内部の配置を地図のように写し取る。セルヴィンは脇に立ち、心臓の速さだけを耳に向けて聞いていた。彼の手の内側には、薄い布で包まれた細い紐──証束がある。彼はそれがあるだけで眠れない日々を耐えてきた。眠らない王子が持つ唯一の武器、だが代償はいつも隣に寄り添っていた。

「左の炉の下に帳簿がある。配給名簿だ。軍の名が載っているって話だ」

ミラの小声が震えた。彼女は昨夜、工房の下働きに潜り込んだ時の匂いを思い出していた。油と熱気、そして香の混じった鉄の匂い。それを思い出すだけで彼女の指先が痺れるようだった。

「行くぞ」

セルヴィンは息を吐き、証束を両手で整えた。証束はただの帯ではない。人々が見たもの、感じた真実を──生々しい痛みや音も含めて──束ね、他者に触れさせるための道具だ。使えば相手の視界と心象をそのまま公開できる。だが、真実をもっと強く振るえば振るうほど、束ねた記憶は持ち主だけでなく使い手の領域も浸食する。彼はそれを知っている。だが今、ミラが捕らわれれば帳簿は炉に投げられ、証拠そのものが灰になる可能性が高い。

ミラが炉の下へ手を伸ばしたその瞬間、鋼鉄の手が彼女の腕を掴んだ。暗色の軍服に黒縁の頑丈な手袋。押し出された影の一つが叫び、他の労働者が一斉に振り向く。ライトの列がミラを照らし、彼女の顔に驚きと恐怖が刻まれる。掴んだ者は監督だろう、声は低く、罵りのように聞こえた。

「何をしている、下郎が」

ミラは引き寄せられ、縄で肩を縛られて壁に立たされた。金属が皮膚を掠める鈍い痛みが、彼女の口から声にならない呻きを引き出す。セルヴィンの視界が狭まった。時間が凍るように、彼の前に立ちはだかるのは選択だけだった。

エリューンが小さく声を上げる。「証束を使えば、見せられる。だが――」

「代償は知っている」セルヴィンは言い切った。言葉に震えは少し混じっていたが、意志は固かった。「一人でも救う。証拠を掴めば、後に続ける道が開く。」

彼はミラに近づき、彼女の顎に指を当てた。ミラの瞳は大きく、薄い光を映している。セルヴィンは証束を顎の下から伸ばす。冷たい光の糸が彼の掌から滑り、ミラの額を軽くなぞった。圧迫と引き離す感覚が瞬間、胸を突いた。ミラの身体が弾くように小さく震え、目からは薄い水蒸気のような輝きが漏れた。

記憶は痛みと共に出てくる。ミラの見たものは鋭く、切れ端のように飛来した。焼けた革表紙、軍用印章の驚くほど確かな刻印、名簿のページを抑える指先、そして列挙された名――「四師団」「第一衝鋒隊」「帝都守護官」。それらは束ねられて、証束の銀の帯に沿って走る。セルヴィンはそれを引き抜き、工房の中央で一気に解いた。

光の帯は空気を裂いて走り、機械の蒸気を通して立ち上がった。瞬間、周囲の視界が変わる。働く者たちの目に、目の前の光景がすり替わるのだ。ミラの見た名簿が、彼ら各々の視界に重なり、署名と印章がねっとりと迫る。彼らは自分の手がどれほど多くの名を担っていたのかを、否応なく見せつけられた。

ある者は工具を落とし、ある者は膝をつき、ある者はただ茫然と空を見上げる。監督の顔が真っ青になり、声を上げる。「なんだ、これは――!」 数秒の沈黙のあと、怒号が響き、工房の緊張が一気に弾けた。

セルヴィンはその混乱を背にしてミラへ手を伸ばした。だがそのとき、胸の内が冷たく空っぽになるのを感じた。いつかから持っていた、親しげで柔らかな像が、指先から消えたのだ。子供の頃、夜明け前に母がくれた温かい粥の匂い。彼はふと、母の笑い方の細部を思い出そうとしたが、そこにあるべき曲線が、音程が、消えていた。焦燥が喉をつぶした。

「どうした、王子!」カイロスが叫ぶ。セルヴィンはミラを引き、壁伝いに走った。だが足元に響くのは、粉々に砕けた規律の音だけではなかった。工房の奥、燔の炉の群れが一斉に赤く脈打ち始めた。制御盤の小さな窓が明滅し、低い共鳴音が空気を震わせる。誰かがアラームレバーを倒したのだ。警戒音ではない。もっと陰湿で、篩(ふるい)のように精神を振るわせる音だった。

「触れさせただけで済むとは思うな」エリューンが短く呟く。「真実を押し付けると、燔は反応する。人を無理やり目覚めさせれば、その覚醒の震えが呪いを増幅する。証束は――強制は、燔を燃やす燃料にもなるんだ」

その言葉を聞き、セルヴィンの胸の奥で何かがさらに軋んだ。彼の目は茫然と工房の中央を見る。働き手の一部が、ただ茫然と立っているだけではなかった。既に顔を覆い、眠気とは全く別の痙攣を見せる者もいる。燔の装置から放たれる振動が、みるみる周囲の人間たちの脳波を乱し、睡眠の均衡を破っていく。強く見せられた真実に動揺した魂が、眠りを求める代わりに掻き立てられ、夜を受け付けない身体に変わっていく。

セルヴィンはミラを引いて隙間から外に飛び出した。外の空気は冷たく、恩赦のように肌を撫でた。だがその冷たさは一瞬で刺すように変わる。彼は胸の奥にぽっかりと開いた穴を指先で探った。そこから何かが欠けている。大事な何か。彼は思い出せない。思い出そうと力を入れれば入れるほど、そこから別の映像が溢れ出す。ミラの恐怖、名簿の文字、工房の熱、そして――母の粥ではなく、幼い妹の名を思い出そうとしても、それは絵のようにぼやける。

「王子、しっかりして」カイロスが肩を叩く。彼の声は厳しいが、そこに安堵も混じっている。ミラは震えながらも自分の足で立っていた。彼女の手には、証拠の一部となる帳簿の一かけらが握られている。紙の端にはぎりぎりで読める記載があった。

セルヴィンは裂けた帳簿を覗き込む。墨のにじんだ列に沿って、一つの行が皺のように折れ曲がっていた。そこに記された文字は、彼の胸を締めつける。

「……王家直轄、優先配給:燔器(甲)──受領者名簿」と、小さな朱印が押されている。朱印は見慣れた紋を写していた。王室ではない。だがそれに近い、聖と権の交差を示すような、二つの環が重なった紋だ。その下に、鉛筆で走り書きのような走りがある。署名――――。

セルヴィンは視界が歪むのを感じた。指が震え、帳簿を握る手に力が入らない。署名の文字を追うと、最後の一行に、見覚えのある名前があった。彼はその文字列を読んだ瞬間、心臓が跳ねた。

そこに書かれていたのは、彼自身の名前だった。セルヴィン・フォン・アヴェール。王子の名が、配給の優先受領者名簿に赤く刻まれている。彼の胸から押し出される空気が、震えとなって夜に溶けた。

「これは……どういうことだ」声はかすれて出た。エリューンが顔をしかめ、ページをめくると、別の隠し書きが現れ