眠りを失う王子は神を告発する 第2話「第1章」
深夜の石造りの回廊は、王城のどこよりも冷たかった。ユリウスは薄い毛布を肩に巻き直し、窓際の長椅子に腰を下ろしたまま、外に差す月光の影を数えていた。数ではなく、その影が伸びる速度まで数えれば眠れるのではないかと、子供の頃に覚えた愚かな儀式をなぞる。だが影は一定の律動を示さず、彼の胸のなかだけが異常に早く鼓動していた。
深夜の石造りの回廊は、王城のどこよりも冷たかった。ユリウスは薄い毛布を肩に巻き直し、窓際の長椅子に腰を下ろしたまま、外に差す月光の影を数えていた。数ではなく、その影が伸びる速度まで数えれば眠れるのではないかと、子供の頃に覚えた愚かな儀式をなぞる。だが影は一定の律動を示さず、彼の胸のなかだけが異常に早く鼓動していた。
「またか」
低く呟くと、手のひらに貼った包帯の端がひらりと踊るのが見えた。包帯の下は、夜半に訪れた痛みの跡。眠ろうとすれば全身が抗議を始め、眠りを待つだけの時間の長さに耐えられなくなる。王子の病だと王城の者は言う。だがユリウスは知っていた。これは病名ではなく、符号だった。人々の報告に共通する一つの情景――「眠らなかった夜」の破片が、彼の体を蝕んでいる。
扉が静かに開き、マルはいつもの小走りで入ってきた。マルの髪は墨の匂いを残し、袖には乾いた羊皮紙の粉が滲んでいる。書記見習いという肩書きよりも、ユリウスにとっては幼馴染であり、生まれて初めてまともに話してくれた人だった。
「眠れてないの、殿下?」
「それはいつものことだ。報告を持ってきたか?」
マルは一枚の粗末な紙を差し出す。屋根職人の家に起きた事件の記述。名はミラ、三十四。家の外で朝を迎えたという。目は開いたままで、瞳に眠りの跡はなかった。いつもは陽気な女性だと近所は言っている。だが彼女は――「夜が来ない」と書いた。夜が来ない、とはどういうことかとユリウスは紙の行間を指でなぞる。墨汁の匂いが、やけに濃く鼻腔に残った。
「直接行ければいいんだけど、城では公に動けば父上の耳に入る。父は――」ユリウスは言葉を切る。王は祈りと秩序を唯一の救いとする男だ。ユリウスが、神を"告発する"と口にするだけで、王位継承とは別の次元の波紋が広がる。
「だから、証束を試すんだね」マルの声は震えていなかったが、瞳に光がある。彼女はユリウスの手を見た。包帯の下で指先がわずかに震えている。
「君の手を借りる。読むこと――それが条件だ。触れて、私が束ねる。君が見たままを語ってくれればいい」
ユリウスは「証束」と呼ばれる自分の能力を説明した。言葉で説明するのはいつも難しく、能書きが長ければ長いほど危険に見える。だから彼は手短に、具体的に言った。
「触れた者の見た"真実"を紡いで、眼前に再現する。だが、使うたびに何かが消える。私自身の片鱗が薄くなる。君が他人の痛みを語るたび、その代価を私は払う」
マルは言葉を噛み締めるように頷いた。「それで、救おうとして強制したら?」
ユリウスは喉を鳴らした。「それは……増幅する。呪いは加算される。救いを押し付ければ、"眠らない夜"が増える。これは昔の記録にも僅かに残る現象だ。だから、見せるだけにする。真実を示す。それで、誰かが選べるようになれば」
彼女は一歩近づき、ユリウスの左手を包む。温かさが現実だと彼は証したくなる。二人の間に沈黙が満ちる。書庫の燭台の炎が揺れ、壁に影を落とす。
マルは紙を広げ、声を細くして読み始めた。ミラの言葉を、目撃者の走り書きを、隣人の供述を。読み上げる音が、繭のように空間を包む。ユリウスは彼女の手の甲に自分の指を重ねた。手の平に伝わる脈拍、紙のざらつき、マルの息遣い――触れた瞬間、世界が静止した。
まず色が抜けた。辺りの色彩が湯気のように消え、書物の黒だけが強く深く残る。次に音が遠ざかる。マルの声は銀の糸となってその場に留まり、他の雑音はまるで水の向こうへ沈んでいった。ユリウスの視界の一点に小さな窪みが開き、そこに過去の一夜が滲み出した。
それはミラの夜だった。窪みの中の世界だけが彩度を取り戻し、蝋燭の炎は血のように赤く、木の床板は濃い褐色に浮かび上がる。ミラの手が映り、指の節に泥が詰まっている。彼女は布を抱え、台所の戸を何度も確認した。窓の外、石畳の影に人影が重なる。男の肩には淡い紋章――暁の刺繍、縦に三本の白線。ユリウスは吐き気を覚えた。暁を冠した者は、公廷の護衛の色に酷似していた。
ミラは祈りの言葉を口にする。低く、子供の頃の歌の断片に似たそれは、確かな恐怖よりも、どこか締めつけられるような諦めを含んでいた。鍵穴に指を突っ込み、戸を閉めようとするが、外から金属音がして戸が持ち上がる。影が入り口を塞ぎ、手が伸びる。手は温かく、ミラの喉に食い込む。彼女は口を押さえられながら、薄れゆく視線の先でかすかな灯が揺れるのを見た。灯は何かの紋章の前で燃えていた。誰かが、祈りを捧げている。
映像は鋭く断片化し、記憶の欠けた個所が黒い裂け目となって残る。その裂け目の端に、ミラの唇が綴った言葉が残る。「誰が…私は…」それは途切れ、息遣いだけが事実として蠢いた。ユリウスは全身が冷たくなるのを感じた。見せられた――それだけで真実は彼の前に横たわった。だが同時に、胸の奥から何かが崩れ落ちる音がした。
視界が戻り、壁の色はまた灰色に戻った。マルは息を整え、指に付いた墨を見つめていた。ユリウスはふと、手を胸に当てた。そこには覚えているべき何かが、ぽっかりと穴のように開いていた。母の声だ。彼はいつも、眠る前に母が口ずさんだはずの子守歌を思い出せると自分に言い聞かせていた。だが今、メロディの一節が綻びた針金のように絡まって、音にならない。
「何か、忘れたか?」マルが尋ねる。ユリウスは首を振る。
「……名前だ。昔の路地の名前。匂い。父の面差しではない、もっと小さなものだ」言葉を探すにつれて、彼の舌は乾いた。記憶の縁から、幼い日の温度が消えていくのがわかった。思い出す努力は、冷たい水に手を突っ込むように痛かった。
マルの顔が青ざめた。「証束の代価を……」
ユリウスは笑った。笑いは喉から出る砂のようで、笑った自分の感触すら掴めなかった。「これで良い。真実が見えた。暁の印だ。護衛か、あるいはそれに似せた者――だが、現場には彼らがいた。私の父が率いる秩序の中に、直接的な影がある」
「王城の者が――」マルの声は低く、震える。
「父上は知るべきではない。まだ。知られれば、話は指導と祈りで封じられるだけだ。告発するなら、証が必要だ。連ねた証が一人の証言になれば、政治も宗教も軍も躊躇するかもしれない」ユリウスの言葉は静かだったが、決意の熱が含まれていた。眠れない時間が、彼のなすべきことを明瞭にした。眠ることよりも、目を見開くことだ。
だが口には出さなかった代償の一つが、胸を締めつける。自分が大切にしていた記憶が失われるという恐怖は、彼を孤独に引き込む。もし者を救おうとして強制すれば、夜を奪われる者は増える。それを彼は避けねばならない。だから、証は"見せる"だけ。誰かが選ぶ余地を残すこと。
そのとき、古い扉の鍵が回る音が聞こえた。外套に金の糸を施した使者が轟々とした足音で入ってきた。彼の目は王家の印を確かめるようにユリウスを見据え、くぐもった声で告げた。
「大祭司セヘラ殿下からの伝言です。今朝、暁神殿にて祈りが捧げられると聞き及びました。王は殿下の体調について話し合いを望んでおられます。朝の廷議にて、殿下も同席されるよう命じられました」
ユリウスの背筋が跳ね上がる。王が彼に会う意味はただ