眠りを失う王子は神を告発する

眠りを失う王子は神を告発する 第1話「序章」

窓辺の光はまだ弱く、城下町の街灯りが夜の名残を引きずっていた。カーテンの隙間を通る風が、王子カイの肩甲骨に張り付いた布団を小さく揺らす。彼は身じろぎもせず、天井を見つめたまま呼吸を繰り返している。まぶたは震え、瞳の縁に紫の陰が滲んでいた——睡眠の名残ではない。眠らない者の皮膚にだけ現れる紋様、眠痕(ねむこん)だ。

窓辺の光はまだ弱く、城下町の街灯りが夜の名残を引きずっていた。カーテンの隙間を通る風が、王子カイの肩甲骨に張り付いた布団を小さく揺らす。彼は身じろぎもせず、天井を見つめたまま呼吸を繰り返している。まぶたは震え、瞳の縁に紫の陰が滲んでいた——睡眠の名残ではない。眠らない者の皮膚にだけ現れる紋様、眠痕(ねむこん)だ。

「またか」

侍医ハルノの声は低く、しかし控えめな緊張を含んでいた。薄手の白衣の裾を指でつまむと、彼は王子の枕元に寄った。湿った匂い、薬草と金属の混じった匂いが室内に満ちる。ハルノは鏡を差し出した。カイは布団の中で腕を伸ばし、その鏡に自分の顔を映した。

目の下の紫は以前より濃く、輪郭がくっきりしている。指先で触れると、冷たく、ざらついていた。皮膚の下で何かが脈打つようで、触れた指が小さく震えた。

「覚醒症の進行です。原因はまだ特定できません。宮廷では――」

ハルノは言葉を濁した。王の重臣や聖堂の高位者たちがすでに来ていた。城の廊下からはすぐに足音と低い話し声が流れ込んでくる。王室の者たちは半分は心配し、半分は機会を嗅ぎ取っている顔だった。神殿と王権は、眠らぬ者を忌避する者と崇める者に分かれる。どちらが多くてもおかしくないのが、今の宮廷だ。

「恵みか、試練かだそうだな」と、玄関口で総督マルセが笑った。甲冑の板金が光を反射する。まるで一歩間違えば刃に変わるような笑いで、彼は城の内部を覗きこむ。カイは返事をしなかった。言葉を発するほど、彼の世界は薄くなる気がした。

朝の儀式を抜け出す理由を作るため、カイは廊下へと歩いた。眠らない夜の余韻が体の芯に残る。足音は柔らかく、それでいて確かな響きを石床に刻む。城の門を抜け、法廷広場へ向かうと、既に人だかりができていた。今日、治安局は公開の裁定を一つ行うという。小さな盗み──パン一切れを咥えた少女が、縄で拘束されていた。薄暗い肌に泥が付き、目は力なく吊られている。群衆の顔には好奇心と冷たさが混ざっていた。

「ミラ」と、少年のような声が跳ねた。看守が押すと、少女の眼がカイに向いた。そこにあるのは諦観でも嘆願でもなく、ただ単に生の重さだった。ミラは砂糖の匂いのする薄布を握りしめていた。子どものものか、あるいは誰かを包んだのだろう。

「罪には相応の報いを」と、総督マルセが宣言する。聖堂の使者ローヴァがひと際高い声で「神の裁き」と呟く。判は押されたように事は進むはずだった——だが、そのとき、カイの奥で何かが疼いた。眠らない日々が彼に与えた新しい感覚だ。目の前の痛み、その理由、それに寄り添う声。その全てを、彼は一つの結びにできると気づいてしまった。

カイは手を伸ばした。触れずに、空気の薄い場所へと指先を差し出しただけでいいと思った。だが触れた瞬間、世界がひび割れた。

最初に来たのは匂いだ。炭火、発酵した麦、古い油の匂いが押し寄せる。次に記憶が流れ込む。ミラの指に残る温もり、隣家の台所の音、雨の中で子を抱いて歩いた夜——声が重なり、幾人もの震える声が一斉に口を開けた。彼女の声、彼女の母の声、路地で聞いた泣き声、横暴な役人の命令。断片が縺れ、絡み合い、やがて一つの糸に編まれていく。聴くと同時に、それらは口を持った。カイが動かずにいると、空気が振動し、群衆の誰かの胸に刺さるように響いた。

「……彼らが、奪ったの。うちのパンを。守ると言って、夜に。夜に出ていって、我々を眠らせるから、働け、と。」ミラの声ではなかった。それは、ミラと同じ場の誰かが、過去に、そして昨日に起こった同じ苦痛を語る群衆の声を、カイが縫い合わせた音だった。ひとつの真実にまとめられた叫びが、広場で波紋のように広がる。

聞いた者の肩が震え、ある者は目を伏せた。総督の顔が青黒くなる。だが空気の裂け目から冷たい疼きが戻ってきた。カイの脳裡で、ある名が消えかかる。幼い頃、母が夜なべに縫った小さな羽織の匂い。冬の夕方に聞いた昔話の語り口。彼は確かに、それらを覚えていたはずだ。だが今、言葉に立てるほどには残っていない。指先が震え、胸の奥がぽっかりと穴を開けられたようだ。

「やめろ!」マルセの声が割れた。看守が押し寄せる。しかし聴いた者の心に潜った真実は容易に忘れられない。数人が膝をつき、涙を拭った。群衆の中で一人、薄暗い服を着た幼い子がふと顔を上げ、目の下に紫の紋を浮かべていた。彼は眠らない——いや、眠っていたはずが目覚めたのだ。だがその目は虚ろで、年端もいかぬ顔に成人の疲労が貼り付いていた。新しい眠痕が、ひとり別の人間に刻まれていく。

カイは手を引いた。世界が急に遠くなる。口の中が金属のように味わい、不思議な空間に押し込まれたような感覚が広がる。触れた真実を一つにするたび、彼は何かを失っていく。舌先に残るのは母の唇の感触の記憶だったはずだが、今は白い空白だけがある。代償を払ったと実感した。

「王子!」聖堂の使者が叫ぶ。高位者たちはざわめき、裁定は一時中断された。ミラは縄に縛られたまま、怯えた顔でカイを見た。彼女の瞳の奥に、驚きと救いの光がちらつく。救われたのかもしれない——しかし救済の瞬間に、立ち上がったのは別の影だった。あの幼い子の目元に刻まれた眠痕が、群衆のどよめきよりも大きく、冷たく、重かった。

広場のざわめきの中、誰かが布切れを落とした。カイはそっとそれを拾った。薄い麻布の端に小さな印があった——王室の紋と酷似した、夜を模した紋様。だがその輪郭は不自然に操作され、聖堂の印と重なっているようにも見えた。布の端が手のひらで震えた。柑橘の残り香と塩の味がする。ポケットの中で、彼が大事にしていた小さな金のペンダントの形がぼんやりと薄れていくのを感じた。記憶の一部が、まだ指の先に残る布に引き寄せられている。

「証拠だな」ハルノが小声で告げる。彼の瞳は驚きで大きく見開かれていた。ミラの衣の印、それが意味するものを誰もが察するには十分すぎる。王と聖堂がなにかを共有し、夜の名を使って人々を抑えていると。だがそれを口に出せば、宮廷は一枚岩になってカイを押し潰すだろう。王は息子の病を宣伝に使うかもしれない。聖堂は神の御業だと叫ぶだろう。

カイは布を握ったまま、群衆を見下ろした。眠痕の痛みは、彼の胸の奥で冷たく広がる。消えかけた母の声の代わりに、今は幾千の声がある——ミラの、路地の声、あの日働かされた者たちの悲鳴。彼はその声を束ねることができた。だが束ねるたびに、自分の何かを差し出さねばならなかった。そして救済を強いると、呪いの影はまた一つ増える。

総督が判を打ち、聖堂が祈りを捧げる。人々は議論し、誰かが拍手し、誰かが舌打ちする。カイはその中で静かに決めた。忘れたくないものの輪郭は薄れていくが、知ってしまった真実はそれ以上に大きかった。彼は布を内揃えに折り、外套の内ポケットに押し込むと、足早に広場を抜ける。城の影が朝日で長く伸びる。彼の目の下の紫は、さらに深く、際立っていった。

行先は決めていなかった。だが一つだけ確かなことがある。王室と聖堂の結びつきを示す印が、盗まれたパンの袖に縫い込まれていたという事実は、放ってはおけない。カイは思い出を失う代償を知りつつも、その布切れを胸