眠りを失う王子は神を告発する 第17話「第15章」
石造りの通路は冷たかった。足元を流れる薄暗い照明の線が、壁に刻まれた年輪のような符号を淡く撫でる。アルドは息を詰め、手袋越しに石の冷たさを感じながら、前に置かれた木箱の蓋をそっと開けた。中には紙束でも鉄製の器具でもなく、薄い硝子の板が数枚重なっていた。それらは断片的に輝き、触れるとひんやりと図像や声を返した。
石造りの通路は冷たかった。足元を流れる薄暗い照明の線が、壁に刻まれた年輪のような符号を淡く撫でる。アルドは息を詰め、手袋越しに石の冷たさを感じながら、前に置かれた木箱の蓋をそっと開けた。中には紙束でも鉄製の器具でもなく、薄い硝子の板が数枚重なっていた。それらは断片的に輝き、触れるとひんやりと図像や声を返した。
「記憶庫の原板だ」セヴィンが呟く。学者の眼鏡に映る硝子面には、ほのかな縞模様の光が流れている。「口頭証言の保存だが、単なる録音ではない。感覚を封じておける。帝都の外縁から取り寄せたものだよ」
ミラが手を伸ばし、硝子を指でなぞる。触れた指先が微かに震え、古い夜の匂いが流れ込む。アルドは自分の胸に刃が入ったような痛みを感じながら、その匂いの奥にあるものを探した。眠れない夜の匂いと似ている。枯れた草の上で星を見上げていた夜、とでも言うべき記憶の残響。しかしそれが彼自身のものかどうか、彼にはわからなくなっていた。
「ここにあるのは、教会や軍の調査で切り捨てられた『当事者の告発』だ」ハサンの声は低く、周囲の静謐を裂く。「私たちが求めていた、生の声だ。君の力が必要だ、王子」
アルドは硝子の一枚を取り、掌に当てた。冷たさが血管を走り、瞼の奥に灯が付く。能力の準備が整うとき、彼はいつも音を失う。世界の辺縁から雑音が引かれて、押し出されるのは声だけだった。声が紡がれ、他者の体験が絡まり合う。彼はそれらを整え、結び付けて「証言群」として立ち上がらせることができる。だが、その行為は彼自身の中にある「誰か」を削る。名前も顔も、眠りの安寧も。
「準備はいいか」エレナが訊く。彼女の目はぎらつき、眠りの欠乏が瞼の下に黒い影を落としている。「ここで止めれば、誰にも知られない。進めれば——」
言葉はそこで折れた。誰もがその先にある代償を知っている。証言を武器にすれば真実は一瞬にして暴かれ、だがその分、アルドから大切なものが失われる。しかも、ただ暴くのではない。強制的な救済、つまり人々に真実を受け入れさせる行為は、眠りの喪失という呪いを増幅させるということを、彼らは既に知っていた。教会の方針は隠蔽であり、救済と称する刈り取りは、秩序維持のための道具だった。
アルドは硝子を額に当て、軽く目を閉じた。声が来る。ひとつ、ふたつ、別々の手の震え。貧しい母の腕の内、朝の市場の匂い、鉄の味。彼はそれらをひとつの糸に縒り合わせる。魔術的な行為ではなかった。それは彼の言葉であり、彼が聞いたままを形にする行為だった。だが声を組み替えるたび、空白が彼の胸にぽっかりと開く。
「幼いアルドが母に抱かれて寝ている」最初の断片が形になったとき、彼の中の何かが静かに崩れる。温かさの輪郭が溶けて、代わりに硬い輪郭、石の家と燭台の影が残った。思い出の周縁が削られていく感覚。彼は手を握りしめた。指の皮膚が汗で滑るのがわかる。ミラが彼の肩に手を置く。
「やめる?」とミラが囁く。だがアルドは首を振る。「今やらなければ、誰かがまた奪われる。自分の何かを失うのは嫌だが、知られぬまま血を流すのを見過ごせはしない」
光が彼の掌で曲がる。硝子に閉じられていた声が、部屋の空気に溶け始める。合わさった証言は、静かに、しかし確実に実体を持ち始めた。壁に描かれた影がゆらりと動き、そこへ触れた者たちの胸に新しい痛みが生まれる。声は皮膚の下を這うように伝わり、そして一つの像を結んだ。それは、王権と教団が組んで取り繕った「神の恩寵」とはまるで違う。神は見上げるものではなく、器具として人を眠らせ、起こさずに操る装置だった。眠りは監視であり、監禁だった。
「これが真実だ」とアルドは言った。声は奇妙に軽く、自分のものとは思えなかった。周囲の空気が重くなり、呼吸が浅くなる。セヴィンは硝子を持ち上げ、指先を震わせてそれを眺めた。そして決定が下る。
「これを外に出す」セヴィンの声は震えなかった。「市の掲示板、広場、寺院の前、どこだっていい。人々に聞かせるんだ。隠すより晒す方が、体制の嘘は脆い」
「やめてくれ!」ハサンが叫んだ。彼は軍出身であるがゆえに、強制的救済がもたらすものの破壊力を知っている。「曝露は人々の眠りを奪い、夜の平穏を崩壊させる。眠らざる者は狂い、秩序は崩れる。王家は軍を動員して鎮圧するだろう。だがそれ以上に——」彼は言葉を切った。
「増えるんだ。呪いが」エレナが言った。彼女の手が硝子の縁を引いて、冷たい感触に顔をしかめる。「救済を強制するほど、眠りを奪う者が増える。教会がそうしてきた。だから彼らは『恩寵』を売る。人々は与えられた眠りに依存し、疑問を持たないようになる」
静寂が落ちる。全員が、その可能性の重さを飲み込む。アルドは自分の胸の中が本当に軽くなっているのを感じた。何かが抜け落ちた。子供の頃に描いていた木の下の記憶、母の歌、かすかな香り。代わりに硝子の向こう側で誰かが嘆く声が大きくなった。
「だが、黙っていては変わらない」とアルドは言った。彼の眼が鋭くなる。睡眠を失うことは既に彼の現実だ。記憶が消えゆくことも。選ぶならば、失うのは自分であってほしい。自分が代償を引き受けることで、他者を救えるのなら。自らの輪郭を差し出すなら、誰かが眠りの欠片を取り戻すかもしれない。
「私がやる」ミラの手が硝子に触れた。彼女の掌が暖かく、固い決意が滲む。「私の時間はもう、あまり残っていない。教団に剥奪された記憶がある。あなたがそれを繋げれば、私は力を貸す」
だがミラの顔には決意の影と同じくらい恐れがあった。彼女自身もまた、かつて眠りを奪われた者だった。アルドは撃たれたように目を見開く。自分一人で背負うつもりだった代償を、仲間が肩代わりしようとしている。彼は反射的に手を伸ばし、ミラの手を握った。
「いや、私が——」声が出る前に、部屋の外で鉄の靴音が響いた。誰かが降りてくる。戸の向こうで短い警報が鳴り、古い機械音が空気を振るわせる。硝子の中の声が急に鋭くなる。アルドはその割り込みが悪い予兆であることを直感した。
「時間がない」セヴィンが低く言う。「通報だ。王家の監視者が動いた。どうする?」
地下の通路を通る足音は、まだ遠い。だがすぐに扉は破られるだろう。決定は一刻を争う。セヴィンは硝子を懐に隠し、ハサンは剣に手をかける。エレナは顔を上げ、瞳が光った。
「外へ出す」エレナが言った。短い、断定的な言葉だ。「今すぐに、広場で。私がやる。私の声で」
ミラが抗議の色を浮かべる。「エレナ、君は——」
「私は眠れない。だから——だからこそ、私が最も多くの人に届く」エレナの声が震える。彼女の喉元で、眠りの欠落が生んだ干からびた譜が響いた。「私が出れば、呪いの拡散は避けられないかもしれない。でも——私が拒めば、誰も知らないままだ」
アルドは胸に空いた穴を感じ、そして新しい決意が立ち上る。彼の中で何かが最後の一線を越えようとしていた。かつて母が教えてくれた、夜の中で確かめた愛のかけらは消えかけている。それでも、彼は仲間が自らの主体性で行動する姿を見た。ミラが、自分の過去を捧げようとし、エレナが声を上げようとしている。彼らの選択は、彼の行為をただの暴露ではなく、共同